1-3

 玉幡飛行場のターミナルビルの横には、旧軍時代から使われている格納庫が五棟並んでいる。


 かつて大型機用として使われていた格納庫は、現在は玉幡飛行業組合の共同格納庫となっている。今の巨大なジェット旅客機を収めるには少々無理があるが、それでも玉幡ではこの五棟は一番大きな格納庫だった。

 外観は鉄骨と波板で形作られた無骨きわまる構造物で、見た目は格納庫というより倉庫といった方がふさわしい。いずれも半世紀の間にこびりついた埃と油煙で、元々の色が判らないほど真っ黒に煤けきっていた。


 ステラエアサービス社の事務所は、ターミナルビルの側から数えて三棟目、その外壁にへばりつくように建つ小さなプレハブ造りだった。


 元々は整備士詰所としてこの世の混沌が凝縮されたような有様だったその建物は、現在は綺麗好きの住人によって外観は美しく整えられている。

 入り口の扉の脇には、スクラップ機から引っ剥がしたジュラルミンの外板が壁にボルト留めされていて、表面には丸みを帯びたゴシック体で『Stella Air Service』の社名が白いペンキで書き込まれていた。




 タイヤを軋ませながら事務所の前に着いた時には、太陽はすっかり昇りきっていた。


「んしょ……っと」


 夏海は軽トラの荷台から降りて、スタッフバッグを手に格納庫の正面へまわった。泊り込んで作業を続けている祖父へ先に挨拶しておこうと思ったのだ。

 夏海に少し遅れて、助手席から降りた秋穂がついてくる。


「ちんたら動いてんじゃねえ、馬鹿野郎!」

「………?」


 いきなり怒声が響き渡る。

 自分への声じゃない。怒鳴り声は格納庫の中から響いていた。

 横開きの正面シャッターが一人分の幅ほど開いていて、夏海は恐る恐る中を覗き込んだ。


「見ろ、もうお天道様が昇っちまったじゃねえか! しゃんとしやがれしゃんと!」

「……もう二日もまともに寝てないんだから、いい加減寝かせてよ……」


 薄暗い格納庫の中で、老人と少年が言い合っている。

 というより、ふらふらと足元がおぼつかない少年に、ガタイの良い老人がスパナを振り上げて一方的に怒鳴っている。

 祖父の冬次郎とうじろうと、整備士見習いの名取陸生なとりりくおだった。


「眠いと思うから眠てえんだっ! いいか、わしがビルマで戦ってた頃は一週間ぶっ続けで六機の一式戦を直したことだってあるんだ。それに較べたら、たかだか二日くらい何でもねえだろうが」


「戦争はもう半世紀も前に終わったんだよ、冬ジイ……」

「いいや、終わっちゃいねえ。少なくともこの格納庫じゃ終わってねえ!」

「どこの最前線だ、どこの……」

「どもー?」


 夏海の声に、肩越しに振り向いた冬次郎が応える。


「……おう、遅えぞお転婆」

「いやー、前の晩ほとんど眠れなくってさ。やっぱし初仕事となると緊張するもんだねえ」

「んな事でどうすんだ。仕事の前の日にゃ、しっかり休んでおくのもパイロットの仕事だろうが。自覚が足りてねえんだ自覚が」

「寝なきゃ寝なきゃ、とは考えてたよ。でも考えれば考えるほど目が冴えてきちゃって、少しだけウトウトしてたらもう朝になってた」

「大丈夫なのか? んな調子でまともに飛ばせるのかよ」


 夏海は手をひらひら振って、


「だーいじょぶだいじょぶ。今は眠気よりも早く空に上がりたい気分でいっぱいだから。今日はもう夜まで眠くならないと思うなあ」


 その間に、陸生はついに床にへたり込んで舟を漕いでいる。

 夏海は呆れながら、陸生の肩をゆさぶった。


「あーほら、こんなとこで寝たら風邪引くっての。あんた、何でこんなにへばってんのよ」

「……お………」

「お?」

「一昨日の夜から……ずっと作業を手伝わされてて……もう限界……」


 背後で冬次郎が、フン、と鼻を鳴らした。


「整備士は作業が終わるまで休む間なんか無えんだ。たかが塗装の塗り替えと各部の調整に何時間かかってやがる」

「その調整を、この二日間で何セット回したと思ってるんだよ! 十回や二十回じゃ利かないぞ!?」

「バッカ野郎、この下手糞が飛ばすんだぞ。ちょっとの異常でも、泡食って墜っこっちまうのが目に見えてんだろうが」


 昨年秋、美春を社長として新たに誕生したステラエアサービスだったが、唯一の保有機はいまだにレストアの途上で、本格的な業務開始は夏海の事業免許取得を待つことになった。

 それまでは他の会社の業務支援をしながら、航空整備士である冬次郎と弟子の陸生の二人はコツコツと機体の整備を続けてきたのである。


 そして、三日前から冬次郎は飛行場に泊り込んで最後の調整を繰り返してきた。

 様子から察するに、どうやら陸生も泊りがけの作業に付き合わされていたらしい。


「どんなトラブルが起こっても、まともなパイロットなら即座にいくつかの対処法を考え付いて、何とか帰ってこようとするもんだ。だが夏海みてえな素人だとそうはいかねえ。だったらワシら整備の側で、前もって一つでも異常の種を潰しておくってのが常道じゃねえか」


 しかし、陸生の感想は違った。ボソリと、


「………ジジ馬鹿…………」

「あ? 何か言ったか」

「いや、別に……」


 こう見えて二人はいいコンビなのである。

 

 三姉妹の祖父、冬次郎は陸軍航空隊の航空整備兵を皮切りに、終戦後はヤミ食料の運び屋を営み、そして一人息子であり夏海たちの父である芳朗に機体を譲ったあとはずっと一介の整備士として甲斐賊たちを支えてきた、まさに玉幡飛行場の歴史とともに人生を歩んできた男だった。

 今でこそ組合の特別顧問として後進を指導する立場にあるものの、本人は工具を握り締めて格納庫にこもる事が多い筋金入りの航空整備士である。

 もはや人生の終幕にさしかかろうという年齢にもかかわらず、たまの休日には自らの手でフルチューンしたスバルR1を駆ってツーリングに出かけたりサーキットの走行会に参加したりと、我が祖父ながら化け物みたいな人だと夏海は思う。


 一方、今まさに格納庫の床でのびている名取陸生は、夏海と同じ県立甲斐杜高校けんりつかいのもりこうこう一年生。

 天羽家の近所にある凌雲寺りょううんじの跡取り息子だが、本人は仏道に入るのを良しとせず、航空整備士をめざして玉幡で整備助手のアルバイトをしている親不孝者だった。

 冬次郎を師匠として整備の腕を磨く毎日だが、なにしろ冬次郎はマニュアルよりも鉄拳指導で整備のイロハを学んできた男である。怒鳴り声なんか三十分に一度は聞かされるし、たまに一緒に工具も飛んでくる。

 それでも懲りずにお爺ちゃんにくっついてアルバイトを続けているのは〝忠犬〟ならではの矜持でもあるんじゃなかろーか、と夏海は秋穂といつも話している。


 冬次郎の厳しい指導にもついていってるから忠犬なのではない。

 その仇名の発端が、ほわほわした声音とともに格納庫に現れた。


「もう、お爺ちゃんったら。陸生くんが可哀想じゃないの」


 組合へ軽トラを返却してきた美春が、弁当の包みを手に格納庫に入ってくる。

 途端に、床で五体投地していた陸生がガバッとはね起きた。


「みっ、美春さん!?」

「お早う、陸生くん。ごめんなさいね、お爺ちゃんにずっと付き合わせちゃって」

「こっ、これしき何でもないッス! もっともっとバリバリ働くッス!!」

「ふふっ、無理はしないでね。はいこれ、今朝のお弁当。お爺ちゃんと二人で食べて」

「ハッ、恐縮ッス!」


 父とともに幼い頃から世界中を飛び回っていた美春は、その美貌と柔らかな物腰から日本中の自営飛行業者にファンを抱える有名人だった。

 聞いた話によると、本人には内緒でファンクラブすら結成されているという。


 だが、陸生に言わせるとそれは美春さんによこしまな想いを抱えた連中の吹き溜まりである、らしい。


 我らが女神たる天羽美春を、不埒な馬鹿どもの天をも恐れぬ行為から何としても死守しなければならぬ。

 我ら『天羽美春親衛隊』は、例えその行く末に絶望の荒野が待ち受けようとも、我が身をもって美の極致を守り通す覚悟を持つ者なり。


 そして、その隊員ナンバー〇〇一号が陸生なのだった。他の有象無象とは格が違うのである。


 ――アホらし。

 夏海は格納庫の奥へと進んだ。姉と幼馴染が繰り広げる漫才のようなやり取りは、見ているこっちが消耗してしまう。


 格納庫の中は無数の機材で迷路のような有様となっていた。

 春は機体の定期検査が集中するために、二月の今はまさに点検整備のかき入れ時で、組合格納庫には多くの要整備機が納められているのだ。

 玉幡の業者のほとんどが飛行場の敷地内に自前の格納庫を持っているが、中にはパイロット一人ですべての業務を行っている零細業者も多くいる。

 そういった業者は、エンジンや機体の完全分解整備ができる技量も設備も無いために、組合に委託してそれらの手間がかかる大整備を行ってもらうのである。


「うりゃ、っと……」


 ヘッドカバーが外されてロッカーアームが剥き出しになったエンジンを架台ごと脇に押しのけ、外板の張替え中らしい胴体が骨組みだけになった九九式双発軽爆撃機リリーの主翼下を潜り抜けて、夏海は奥へ奥へと分け入っていく。


「置いてるモンを動かすんじゃねえ、整備の順番が判らなくなるじゃねえか!」


 後ろから怒鳴られるが、ひらひらと手で応えるだけで先へと進む。


 機材の山から、すぽん、と飛び出すように広い場所へと出た。


 そして、その機体はそこで静かに彼女を待っていた。


 天井近くの窓から差し込んでくる一条の光帯に照らされたその機体は、玉幡にあるどんな飛行機よりも小さく貧相に見える。

 外装のほとんどが羽布張りなために金属質の反射がどこにも無く、よくできた模型といわれても頷いてしまいそうだ。


 機首のプロペラは二翅。木の削り出しで木目が浮き立って見える。プロペラにはどこにも可動部が無く、今時エンジンの推進軸に直結された固定ピッチペラだった。

 カバーに覆われたエンジンの後方には、まるで鳥籠のように多くの窓が開けられた操縦席がある。内部は三つの座席が縦に並んでいて、最前方には申し訳程度の数の計器が並んでいるだけだ。

 正面から見ると側方窓が僅かに外側へ膨らんでいて、どことなく上膨れのユーモラスな印象だった。


 主翼は高翼単葉で、機体の大きさに較べて異様なまでに長く、幅広い。主翼前縁の上部には、もう一枚の翼――固定スラットが、主翼の全長とほぼ同じ長さで伸びていた。

 そして主翼の後縁には、チェーン駆動で出し入れする蝶型ファウラーフラップのスライドレールが魚の骨のように突き出している。


 日本国際航空工業・陸軍三式連絡機さんしきれんらくき

 またの名を、連合軍識別コードネームから『Stellaステラ』という。

 かつて父がこの玉幡で仕事をする際の愛機だった機体。そしてステラエアサービス唯一の機材として、祖父がレストアを進めてきた機体。


 見慣れた機体のはずだった。

 父の死後、この機体は格納庫の裏に放置され、風雨の中で朽ちるに任せる状態となっていた。操縦士としての訓練のさなか、夏海は何度と無くこの機体のもとを訪れては、天国にいるはずの父に夢をかなえることを誓ったのだ。


 だが、夏海の視線は釘付けとなったまま離れない。

 まるで何者かに魂を奪われたかのように、頬を上気させて一心に見つめつづける。


「………夏姉?」


 次姉の様子に気付いた秋穂が、そっと様子を伺う。

 そして、目が釘付けとなった。


「ステラが……真っ赤っかになってる……!」


 妹の呟きを聞きながら、夏海は思い出そうとしている。

 かつて格納庫の裏に放置されていた時には、全身の羽布が破れてその下の骨組みが剥き出しの状態だった。

 カウルは埃にまみれて色が判らなかったし、かろうじて隅にへばり付いていた羽布も長い年月のうちに褪色して黄土色に近い色だった。

 こんな、瞳に焼き付くほど鮮やかな真紅ではなかったはずだ。


「………こ…………」


 ステラを見ながら、ぎゅっと拳を握り締める。

 言わずにおれなかった。


「これで今までより三倍……!」

「速くはならねえからな!」


 祖父の怒声が響き渡る。その後ろについてきた美春が、口に手を当ててクスクス笑っている。


 そうか。唐突に夏海は気付いた。

 姉は知っていたのだ。道理でここ数日、格納庫に入れてもらえなかったはずだ。これはちょっとしたサプライズのつもりだったのだろう。

 そういえば、さっき冬次郎は塗装の塗り替えとか何とか言っていた。てっきり一部分だけの塗装だと思っていたのに、それがまさか、ここまでイメージからかけ離れた色に全身が塗り替えられるなんて……!


「……ふん。こいつは〝赤備あかぞなえ〟だ」

「あかぞなえ?」


 鸚鵡おうむ返しにたずねる夏海に、冬次郎は懐から取り出した煙草を咥えながら答える。


「甲州武田軍団でもっとも勇猛だった武将、山県昌景やまがたまさかげの鎧の色だ。ここ玉幡を根城にしてるゴロツキ飛行機にゃおあつらえの色って訳だな」

「で、でも他の機体にはこんな赤いのっていないよ!?」

「当たり前だ。ワシら玉幡の甲斐賊かいぞくにとって赤備えは特別な色なんだよ。こんなド派手な色、こいつ以外に塗るもんかい」


 咥えた煙草に火をつける。格納庫内は本来火気厳禁だが、この人物はそのあたりに無頓着だった。

 冬次郎は腕組みして、感慨深げにステラを見上げている。


「赤い機体色は、玉幡飛行場で一番初めに空輸業をはじめた機体……つまりこいつだけに許された色なんだよ」

「この機体だけに……」

「そうだ。言ってみれば甲斐賊どもの旗がわりであり……」


 煙草の煙が、緩やかな螺旋を描きながら格納庫の天井へと昇っていく。

 格納庫内のわずかな空気の対流に乗った紫煙は、赤い反射光の中でゆらゆらと生き物のように揺れ動いていた。


「……それに、お前らの親父が使っていた色でもある。この赤い機体色は、お前らの親父が――天羽芳郎あもうよしろうが、かつて甲斐賊のバカどもからその腕を認められた証なんだ」

「父さんが……」


 夏海は機体に歩み寄った。

 そっと胴体をなでる。羽布の上から塗料を塗りこめられた機体表面は、わずかにざらついた感触だった。

 側面窓のプレキシガラスにぼんやりと自分の顔が浮かんでいる。まるで、かつて無くした大切なものにもう一度出会ったような、そんな焦燥と歓喜がない混ぜになったような表情だった。


 父さんは、どんな想いでこの紅い翼を飛ばしていたんだろう。

 玉幡でも一番の技術を持つと言われ、世界中の空を腕一本で飛び回った甲斐賊の中の甲斐賊。どんな困難な飛行も飄々ひょうひょうとこなし、その人柄で多くの飛行士から慕われた名飛行士。

 しかし記憶の中の父は、三人の娘達に分け隔てなく愛情を注いでくれた、優しい父だった。空のことなどおくびにも出さず、ただただ家族と過ごす時間を大切に守り育んでくれた人だった。

 父がこの世を去って後、多くの人達から父がどれほど優秀な飛行士だったかを聞かされても、それが夏海の中の父のイメージとどうしても重ならなかった。


 今、この機体を前にして初めて父の気持ちがわかる。

 父さんは、きっと楽しかったんだ。


 どんなに遠くの空を、どれほど強力な機体を飛ばしていても、このちっぽけな紅い翼で玉幡の空を飛ぶことが何よりも好きだったんだ。


 身の切れるような八ヶ岳颪やつがたけおろしの寒風の中を、御坂山地みさかさんちを越えてくる富士の乱流の中を、漂うように気ままに飛ぶことが。

 娘たちのいる故郷の空を、多くの甲斐賊に見守られながら飛ぶことが。

 いつの日か、三人の娘達とともに翼を連ねることを夢見て。



 きゅっ、と袖が摘まれる。秋穂が眼鏡の奥の瞳にうっすらと涙を浮かべていた。


「アキ……」


 ゆっくりと歩み寄ってきた美春が、そっと二人を背後から抱きしめた。


「よかったね、なっちゃん」

「お姉ちゃん……!」


 ぷかり、と紫煙を吐き出した冬次郎が、三人の様子にニヤリとする。

 悪戯がうまくいった。そんな言葉が透けて見えるような、控えめな笑みだった。


「どうでえ。孫たちの新しい門出にゃ、ちょっとしたもんだろ?」


 祖父の言葉に、三人の娘達は晴れ晴れとした笑顔で応えた。

 天井から降り注ぐスポットライトのような光に照らされたステラは、抱きしめあう彼女達の姿を静かに見守り続けている。


「うん………!!」


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