ステラエアサービス

有馬桓次郎

曙光行路

プロローグ

山梨県営玉幡飛行場



『───せかいでもいちばんの、パイロットになりたい』



 どこか切なげなひぐらしの声と、低く流れるような読経が聞こえる、夏の夕暮れ。

 茜色に染まった空と、大きなけやきが見下ろす縁側で。

 あの子は、はっきりとした声で私に言った。


 ふっくらとした頬には涙の筋が残り。

 ざわつく心を抑えるように、黒いワンピースの裾を小さな手でぎゅっと握り締めていたけれど。


 泣きはらして真っ赤になった瞳に決意の光を宿し、立ち尽くす私を真正面から見返して。

 あの子は、はっきりと私に言ったのだ。



『とうさんみたいな、せかいいちのパイロットになりたい───』



          * 



「管制塔、こちらステラ・ワン・ワン11……」


 上ずる声を、生唾を飲んで押さえ込む。


「離陸準備すべて良し。タキシングの許可をください!」


 山梨・甲府盆地のほぼ中央にある、県営玉幡飛行場けんえいたまはたひこうじょう

 駐機場の端に停まった赤い三式連絡機ステラの機内から、天羽夏海あもうなつみは本日最初の、そして商業パイロットとして初の無線交信を発した。


『ステラ11、こちら管制塔。タキシングを許可します。誘導路四番から滑走路三五に向かってください。滑走路進入前に申告を』


 管制塔から返ってきたのは、女性の声だった。自分が事業用免許を取得するまで、たまに耳に響いてきた声。

 夏海はまだその女性に会った事がない。狭いこの飛行場の中で、不思議と夏海は彼女と会うタイミングを逃し続けてきた。


 声の調子からして、ずいぶんと若い。たぶんお姉ちゃんとほとんど変わらないくらいの年齢の人だろう。

 いつかは会ってお礼が言いたいな、と思う。だって、あたしがここに来るまで見守ってくれた人だもの。


 スロットルをわずかに開く。

 エンジンの唸りが高まり、徐々にステラが前進を始める。タイヤがセメント舗装の継ぎ目を捉えるたびに、ゴトン、ゴトンと鈍い衝撃が腰に伝わってくる。


 駐機場の端まで移動してから、夏海は左のラダーペダルをいっぱいに踏み込んだ。左に突き出た方向舵がプロペラ後流を受け流し、ゆっくりと機首が左方向へと振れていく。

 機体が誘導路に入ったのを確認してから、夏海はスロットルの横にあるフラップレバーを離陸位置に合わせた。


 途端に、ガラガラガラ……と物凄い音が両翼から響く。ステラのファウラーフラップはチェーン駆動で、フラップの出し入れの際にはシャッターを開閉するような大きな音がするのだ。

 誘導路の端を示す白線が前方に見えて、夏海はスロットルを再びアイドルに戻した。慣性で前進していたステラが、白線の前でゆるゆると停止する。


「こちらステラ11、誘導路四番の端に到着しました。滑走路への進入許可を下さい」

『ステラ11、滑走路三五への進入を許可します。現在は北向き正面の風、風速二の微風』


 通常、滑走路には磁北からの方位角で番号が割り振られている。

 玉幡の滑走路は、磁北から少し左に傾いた三五〇度方向へ一五〇〇メートルの長さで伸びている。従って北向きに離陸する場合は滑走路三五、一方で南向きへの離陸には滑走路一七と、それぞれ呼称される。


 今日は北からの微風が吹いていて、離陸のときの揚力を得やすくするために北方向への離陸を指示されていた。冬場の甲府盆地には八ヶ岳颪やつがたけおろしと呼ばれる北北西の風が吹き下ろしてくるために、この時期の玉幡飛行場は滑走路三五を使った離陸が一般的となるのだ。


 滑走路の端に着いた。

 前方には特殊コンクリート舗装の道が真っ直ぐに伸びている。太い点線が一定の間隔で描かれ、ずっとずっと先の滑走路末端には逆向きの『17』という数字が見えた。

 遮るものの無い、大空への道。

 さっきとは違う心地良い緊張に包まれながら、夏海は大声で告げた。


「こちらステラ11、離陸用意よし!」

『ステラ11、離陸を許可しますクリアード・フォー・テイクオフ


 ふと、視線を横に向けた。

 格納庫の前で佇んでいる二つの人影は、祖父の冬次郎とうじろうと弟子の陸生りくおだろう。一人は腕を組んで、もう一人は床に座り込んで、こちらを見つめている。


 ターミナルビル屋上の展望デッキ。手すりに身体を預け、長い髪を風になびかせながら見守っているのは姉の美春みはるだろうか。柔らかな笑顔を浮かべながら、こちらを見つめる姉の姿が目に浮かぶようだった。

 小さく手を振ると、屋上の人物が腕を軽く振り返してきた。


「───よしっ!」


 スロットルを全開まで開いた。


 地面を蹴りつけ、ステラが一直線に走り出す。

 対気速度計の針がぐんぐん上がっていく。滑走路の点線が次々と目前に現れては後方へと消え、やがて点線は一本の白線に繋がって見えるようになった。


「……V1ブイワン

 離陸決定速度。


 腰に伝わる凹凸の衝撃が徐々に強くなり、すぐに軽くなった。尾輪が浮いたのだ。

 あわてて操縦桿を引きつけ、それ以上首を下げさせないようにして走り続ける。このまま加速を続ければ、やがて翼が十分な揚力を得て飛行機は勝手に空中へ浮き上がってくれる。


「ブッ、VRブイアール!」

 ローテーション速度。


 ───何よこれ!

 練習機の時よりも随分と早いタイミングに、夏海は驚いていた。

 この三式連絡機が短距離離着陸STOL性能に優れているのは知っていたけれど、こんなにあっさりと尾輪が浮いてしまうとは。

 まるで凧みたいだ、と夏海は思う。


「……V2ブイツー!」

 安全離陸速度。


 その瞬間、夏海のレシーバーに女性管制官の声が響いた。まるで空へと後押ししてくれるような、そんな柔らかくて力強い声だった。


『───行ってらっしゃい!』


 フッ、と身体が軽くなった。

 大地から解き放たれ、空へと昇っていく瞬間の感覚は、何物にも代えがたい快感だ。

 まるで自分の背中に羽根が生えたような浮遊感に全身が包まれ、夏海は無線機に向かって叫ぶ。


「いってきま───────す!」



 冬の柔らかな太陽の下、宇宙の底まで手が届きそうな蒼空を、赤い三式連絡機は真っ直ぐに駆け上がっていく。


 それは、大いなる夢への第一歩。

 緋色の翼が導く、遙かなる夢へのフライトの、それは最初の羽ばたきであった。


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