第3章 天つ風を越えて
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今でこそ果樹園の多い甲府盆地だが、かつては水田が一面に広がる稲作地帯だった。
ある時を境に、水田の多くが埋め立てられて果樹園や畑地に作り替えられてしまったのだ。
それは有史以来延々と続けられてきた、とある病魔と人々の戦いの末に生み出された風景であり、四季折々の美しい姿を見せる牧歌的な情景は、甲府盆地の人々がその病魔に打ち勝った偉大な記録と言えるだろう。
その病の名を、『
別名『地方病』と呼ばれる。その名の通り、日本住血吸虫が人体に寄生することによって起こる寄生虫病である。
農作業によって水に入った人間の皮膚から
やがて肝静脈を無数の虫卵がふさぐことによって重度の肝硬変を発症し、死に至るという恐ろしい病だった。
有史以来、長らく原因不明の奇病として甲府盆地の人々を悩ませてきた風土病だったが、明治末期に日本住血吸虫が寄生することによって発症する寄生虫病であることが解明され、以降は官民をあげてその撲滅へと取り組まれてきた。
太平洋戦争の終結後、平和になった甲府盆地では日本住血吸虫症の研究が加速化し、その撲滅に向けて大きな一歩を記すことになる。
日本住血吸虫は、米粒ほどの淡水巻き貝であるミヤイリガイを中間宿主としている。しかし、このミヤイリガイが生息できるのは毎秒一メートル以下の流速しかない水の中で、それ以上の流れがあれば身体を支えられずに流されてしまうことが判明したのだ。
水が滞留する場所、すなわち水田や沼地を埋め立て、流れの緩い水路を作り替えていけば、日本住血吸虫症を撲滅できる。
真っ先に埋め立てられたのは、甲府盆地の中心部にあった
国内でも有数の面積を誇る沼地で、季節になると多くの渡り鳥が飛んでくる景勝地だったが、死の病を撲滅するためには背に腹は代えられない。
甲府盆地を網の目のように走る用水路も、流速を高めるため急速にコンクリート護岸化されていった。
全ての用水路を作り替えたとき、その総延長は北海道から沖縄までの距離に匹敵する長さになったという。
そして、水田はその多くが果樹園や畑に変わっていった。ただし、全ての水田が埋め立てられた訳ではない。
終戦後、交通路の途絶によって飢餓状態に陥った首都圏の食料庫としての役目を期待された結果として、一部の水田だけは稲作を続けることになったのである。
それらの水田は土地整理によってなるべく一つの場所に集められ、形状を出来る限り単純化することで、万が一のミヤイリガイ発生にも対応しやすいようになっていた。
長きに渡った人々の活動によってミヤイリガイは絶滅寸前まで数を減らしており、県は先頃、日本住血吸虫症の撲滅宣言を行った。
そんな中、これらの水田はかつての甲府盆地の風景を伝える証人として、多くの果樹園に囲まれながら今なお昔ながらの稲作を続けている。
今、秋穂が立っているのもそんな水田の畦道だった。
春の日差しはぽかぽかと暖かく、水の入った田んぼを渡ってくる風は柔らかくて、目を閉じるとすぐにでも夢の世界へと連れて行かれそうだ。
でも、ここで昼寝を決め込むわけにはいかない。遠くの空から虫の羽音のような低いエンジン音が近付きつつあった。
秋穂は左の手首を返して腕時計を見た。
「十分遅れ、か……」
まったく、どこで油を売っていたんだろう。
玉幡からここまでは五キロメートルもなく、この天候なら離陸から五分とかからず飛んでこれるはずなのに。
「ったくもう、こっちはさっさと仕事を終わらせて帰りたいんだってば」
授業が終わって真っ直ぐ飛行場に行った秋穂は、簡単な説明と共に機材を受け取った後、学校の制服のまま自転車を飛ばしてここにやってきた。
市立釜無中学校の女子制服、黒襟のセーラー服の上から薄手のカーディガンを羽織っている。もしかしたら寒いかも知れないと思ってカーディガンを重ね着してきたけれど、この暖かさだと余計だったかも。
異様なのは、その上から巻いている軍用のゴツいベルトだった。トランシーバーの親機を付けられるベルトはこれ以外になく、背丈の小さな秋穂が巻くとベルトを締めるというよりベルトに巻きつかれているようにも見える。
一言でいうなら、ダサい。
セーラー服に軍用ベルトという組み合わせの異質さもさることながら、サイズの合わない大きな服を子供が無理にお仕着せされているようなアンバランス感があった。
「こんな格好、知ってる人に見られたら恥ずかし過ぎるってのにさ……」
情けなさ極まる自分の姿を見下ろして、秋穂は今日何度目かの溜息をついた。
万事平穏を人生の目標とする秋穂にとって由々しき事態である。こんな格好でいるところをクラスメイトに見られたら、休み明けにはクラス中の噂となっているに違いない。
いつも管制を手伝うときに使っているヘッドセットを、親機のジャックに繋いで電源を入れた。
まるで小雨が降るような軽い空電音が耳に伝わる。念のため事前に合わせていた周波数の数字を確認して、秋穂は向こうから呼びかけてくるのを待った。
しばらくして「ぶつっ」と繋がる音が響き、微妙に雑音がかった脳天気な声が聞こえてきた。
『えー、こちらステラ11。アキー、聞こえるー? もしもーし』
秋穂はヘッドセットのコードを引き寄せ、中程に付けられた送信ボタンを押した。
「こちら地上誘導、秋穂です。夏ねえ遅刻だよ、何してたの?」
『おー、ホントにアキがサポートしてくれるんだ。実際に声を聞くまで疑ってたよ』
妹が以前から管制の仕事を手伝っていたことを、まだ夏海は知らない。
それどころか、商業初飛行の際にずっとつきっきりで対空監視してくれた女性管制官が、実は秋穂であるということも夏海はまだ気付いていなかった。
『いやー、浮かんだ後でちょっとばかし風に振られちゃってさあ。あんまし面白かったもんだから、少しだけ遠回りしちゃった』
「風に振られたって……」
秋穂は頭上の空を見上げた。
小さな雲がぽこぽこ浮いている上空は、それほど強い風が吹いているようには見えない。田んぼの上を渡ってくる風からみて、低空でも機体が振られるような強さではなかった。
一体どんな風が吹いてきたんだろ、と秋穂は首を傾げる。
「それより夏ねえ、今どこ? こっちからは音が聞こえるだけで、まだそっちが見えないんだけど」
『もうちょいしたら上空に着くよ…………ほいっ、今!』
いきなりエンジン音が大きくなった。
───うしろ!?
秋穂が振り返ると同時に、家並みの向こうから深紅の機体が姿を現した。
胴体下にドラム缶のような薬剤タンクを取り付け、物干し竿に似た散布ブームを両側に伸ばしたステラは、屋根をかすめるような低空で秋穂の頭上を飛びすぎると、水田の上で緩やかに左へと旋回する。
耳を聾するほどの爆音に、脇に停めた自転車のハンドルがカタカタと揺れ動いていた。
『おっ、アキはっけ~ん。やっほー』
「やっほー、じゃないよ。低い低い!」
秋穂はマイクに向かって怒鳴った。
「そんなに低くちゃ全体が見渡せないでしょうが。もうちょい高度取って、あと一〇〇メートル!」
『えー? これでも全部見えてるけどなあ』
「エンジンの音がうるさいって近所の人から怒られるの!!」
秋穂の言葉に、ステラが旋回しながらのんびりと上昇していく。
両耳を塞ぎたくなる程だったエンジン音も少しだけ音量を落とし、秋穂はほっと息をついた。
さっきよりも小さくなった機体を恨みの籠もった目で見上げる。
「ったくもう、余計なことしないでさっさと仕事終わらせるよ。こっちは早く帰りたいんだから」
『こんなに気持ちの良い天気なのに早く帰りたいなんて、アキってホント引き籠もりだねえ』
「そういうことじゃなくて! ああもう、今から情報伝えるからメモしてよ!!」
『へ~い』
イヤホンから聞こえてくる気楽な返答に、がっくりと力が抜ける気がする。
何というか、我が次姉には仕事への緊張感とか真剣さというものがまるで感じられない。いつだって気楽なのは長所だと言えるけれど、こっちは早くこの場を離れたいのにこういう声を聞くともう少し真剣にやってくれ、と言いたくなってくる。ヤル気あんのか。
秋穂はやるせない思いを抱えながら、自転車の前籠に放り込んでいた簡易式の風向風速計を取り出した。
根元の柄を持って頭上高くにかざす。お玉が三つ並んだような風速計が微風を受けてくるくる回り、その下の風向計の矢が風上に向かって緩やかに首を振った。
デジタルメーターに表示された数字を読み取っていく。
「いい? 地表付近での風は
『方位二〇〇度からの風、風速三メートル。はいよ』
「もちろんこれは地表付近のものだから、上空の風向きや強さは変わってくるだろうけど、少なくとも高度五〇〇メートル以下の低空ならそんなに違いはないはず。言っとくけど、対地高度で五〇〇メートルだからね?」
『わーかってるってば。アキは心配性だね』
───どうだか。
秋穂は周囲の風景をぐるりと見渡した。
飛行の邪魔になるような鉄塔や送電線はどこにもない。電話線と家々の屋根の上にあるテレビアンテナは若干気にするべきか。高さは、目測で最高一五メートルくらい。
南アルプスや御坂山地の山並みとも適度に距離が離れている。季節的に風向きが一定しないのは仕方ないことだけど、それでもいきなり強い突風が吹いてくることは無さそうだ。
地図を広げてさらに幾つかのことを確認すると、秋穂は決断した。
「……うん、事前に決めてた通りで良さそう。夏ねえ、目標の田んぼから方位角一〇度、距離五〇〇メートルから進入を開始して。進入高度は三〇メートル、そこから方位角二四〇度に向かって真っ直ぐ。散布を始めるタイミングはそっちに任せるから」
『ほいほい』
「風向きは一定しないだろうけど、だいたい南向きの風だから。姿勢を乱すくらい強い風はないはずだけど、もしもの時はうまく調整してね」
『了解りょーかい。んじゃ早速いってみるねー』
上空を旋回していたステラが、翼を翻して北の空へと飛び去っていく。
秋穂が見上げる中、豆粒のように小さくなった機体が大きくバンクを取って旋回し、再びこちらに機首を向けた。徐々に高度を下げていく。
『こんなもん、か、なっと』
向こうの家の屋根に隠れるか隠れないかという高度を飛びながら、少しずつステラが近付いてくる。
『高度三〇メートル、進入開始点に到着。どんなもんでしょ?』
「どんなもんって……」
───すごい。
ステラは、寸分の狂い無く正確な方位に機首を向けている。秋穂は舌を巻いた。
秋穂が伝えた方位角はすべて、目標となる水田の中心から見た角度だ。方位角とは、真北を〇度として時計回りに三六〇度を割り振った角度をいう。
当然ながら、ステラの方から正確な方位を割り出すには与えられた方位角から逆算しなければならない。しかも、刻一刻と変わっていく自機の現在位置から水田の中心を射貫く角度を正確に見極め、そこから飛んでいく方角を割り出すのは、慣れたパイロットでも難しいことなのだ。
普通なら目標点を二つ決めてその上を飛ばすか、もしくは何度もやり直しながら正しい針路に合わせる事なのに。
それを瞬時に、ほとんど勘だけで正確な針路に乗せたというのか。
「こ、これで弱点があるとかどういうことよ、春ねえ……」
『んー? なに?』
「何でもない。進入コースには乗ってるから、そのままそのまま」
向かってくるステラを睨みながら、秋穂はヘッドセットのマイクを口元に寄せた。
「針路はいいよ。そのまま真っ直ぐ、慎重にね」
『了解、フラップダウン……』
フラップ? と秋穂が首を傾げると同時に、空からガラガラガラ……とアルミサッシを開くような音が聞こえてきた。三式連絡機特有の、チェーン駆動のフラップ展開音だ。
可能な限りの低速で散布するために、翼の揚力を増しておこうというのだろう。通常は離着陸時にしか使わないフラップを、飛行中に展開することは非常に希だった。
しかし、フラップを広げると翼が本来持つ揚力をさらに上乗せできるので、失速ギリギリの速度で飛ぶような場合などに利点がないとはいえない。
でも、当然それには不利な点もある。
「───わぷっ!」
ひゅうっ、と風が吹き渡り、秋穂の顔にお下げ髪がまとわりついた。指先で髪を払いのけ、上空のステラを見る。
それほど強い風ではなかったから、ちゃんと身構えていれば飛行姿勢を乱すことはなかったはずだが───
「あー、やっぱり。フラップ出したから風に煽られてる……」
ただでさえ失速に近い速度での飛行は安定性を欠き、しかも舵面に当たる風力が小さくなるために舵の利きが相当に悪くなる。
そしてフラップを出すのは翼の面積を一時的に広げるようなもので、結果的にわずかな風にも非常に煽られやすくなってしまうのだ。
そして、秋穂は気付いた。
「高度が高い───!!」
先程まで地表から三〇メートルを維持していたはずのステラの高度が、見るからに高くなっていた。今の風で煽られて機体が浮かび上がってしまったのだろう。
しかし、操縦席の夏海が気付いた様子はない。おそらく姿勢と針路を維持するのに必死で、目の前にある高度計を見落としているのだ。
慌てて進入中止を告げようとした矢先、イヤホンに夏海の声が響いた。
『B2剤、散布はじめ!』
「だ、ダメッ!!」
夏海の声と秋穂の悲鳴は、ほぼ同時だった。
ぼふん、とステラが真っ白な煙に包まれる。
胴体下にある散布ブームから粉末状の薬剤が噴き出し、飛行機雲というには重量感のある煙がステラの後方に渦を巻きながら広がっていく。
B2剤───フェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩。
日本住血吸虫症の中間宿主となるミヤイリガイを駆除するための殺貝剤である。
この時期、田植えを前に水が張られた甲府盆地の田畑では、ミヤイリガイの発生を防ぐためにB2剤を空から集中的に散布する。
桜の時期を過ぎようという頃になって始まるB2剤の空中散布事業は、玉幡飛行業組合にとって季節の風物詩といえる業務であり、気候も安定していることから若手パイロットたちの訓練も兼ねた専任業務となっていた。
白い薬剤の煙を後方に長く引きながら、ステラが萌葱色の畔の上を飛ぶ。
その光景は、何も知らない者からすればとても美しく見えただろう。しかし、秋穂にとってそれは全身から力が抜けていくような光景だった。
「ああああああああ……!!」
空中に広がるB2剤の煙を見て、秋穂は頭を抱える。
地表から三〇メートルという高さは、予想される風向きと地上の障害物の高さを考慮して導き出した最適の散布高度だった。
しかし、それよりもずっと高い高度で散布なんかしたら───!!
歯噛みする思いで見守る秋穂の眼前で、南アルプスからの横風に乗った煙が徐々に東の方向へと流れ始めた。
まるで時ならぬ積乱雲のようにむくむくと成長しながら、B2剤の煙は無音のまま、まるでスローモーションのようにゆっくりと地上へ舞い降りていく。
四月の陽の光を浴びて、時折キラキラと瞬きながら地表に降り注ぐ薬剤だったが……そこに田畑は無い。
その全てが、田んぼとは農道を挟んで隣接する家の敷地へと落ちていた。屋敷が濛々とした煙に包まれ、白い闇の向こうから「こらあああああああ!」という住人の怒声が響き渡る。
数瞬の後、
「……こンの、大バカヤロー! てンめえ降りてこいコラアアアァァァアアア!!」
視界が晴れたそこに現れたのは、家屋といわず庭木といわず駐車していた軽トラといわず、全てが真っ白になった屋敷の姿だった。
家の中から飛び出してきたおじさんが、庭のど真ん中で両腕を振り上げて空に怒鳴っている。
『どうだったー? ちゃんと田んぼに落ちた?』
イヤホンから脳天気な夏海の声が聞こえた。
辺りの空は一気に視界が悪くなっていて、上空からでは地上の様子を見通せなかったのだろう。
『一航過で全部撒けるように噴射量増したから、タンク残量はゼロ。先に玉幡に戻ってるからさ、後でどうなったか聞かせてよ』
「ち、ちょっと待……」
『んじゃ、お疲れ~』
ぶつっ。
無情にも切られる無線。さらさらと聞こえてくる空電の音が、まるで自分の心の中に降りつのる涙雨のようにも思える。
「こ、この……!」
遠ざかっていく赤い機体に向けて、秋穂は今度こそ胸一杯に空気を吸い込み、鼓膜も割れよとばかりに怒鳴った。
「おバカアァァァアアアァァァァァァ─────────────────!!」
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