3-2
「───それで、どうなったんだ?」
玉幡飛行場、ステラエアサービス社事務所。
整備ツナギの胸ポケットから煙草を一本つまみ出しながら、冬次郎が尋ねた。
駐機場の方に開いた窓からは、翼を休めるステラの姿が見える。まだエンジンの熱も冷めやらず、機首からはぼんやりと陽炎が立っていた。
吹き戻ってきた薬剤に全身がまみれ、いつもは鮮烈な緋色をしているステラの胴体も幾分かくすんで見える。後で洗い落とすのに手間取りそうだが、それよりも今は孫娘の言葉の方に興味があった。
「どうもこうも……散布高度が高すぎて、ほとんど田んぼに落ちなかったよ」
祖父の問いかけに、先程ようやく事務所に戻ってきた秋穂は溜息をついた。
「それどころか風に流れた薬がお隣の田中さん家を直撃して、家も洗濯物もみーんな真っ白けになっちゃった」
「ククッ……」
げっそりとした表情の秋穂を見ながら、冬次郎は堪らず含み笑いを漏らした。
「そいつは傑作だ。あそこの先代のジジイは儂の古馴染みでな。十年くらい前にポックリ逝ってから、息子の健太郎とかいうのが後を継いだんだが……」
全身のポケットをぱたぱたと叩いて、ライターのありかを探す。その度に埃が舞い上がり、事務所の中に差し込む夕暮れの光に柔らかく浮かび上がった。
「それが昔っからクソ生意気なガキでよ。いつか痛い目見せてやるって考えてたんだが、そうかそうか……あの野郎、雪でもねえのに真っ白になって泡食ってたろ」
「笑い事じゃないよ、お爺ちゃん!」
バンッ、と机を叩いて秋穂は立ち上がる。
にやにやしっ放しの祖父を睨みつけながら、
「あの後カンカンに怒ったおじさんにわたしが謝ったんだからね!? 夏ねえはすぐに飛んでっちゃうし、どんだけ針の筵みたいな気分だったか!!」
「おお、やるじゃねえか。流石は我が孫、ちゃんとサポート役こなしてんな」
「迷惑掛けた本人に代わって謝ることまでサポートの内に入ってるなんて聞いてないよッ!!」
ようやく見つけたジッポーを擦り、煙草に火を付ける。
興奮のあまり肩で息をする秋穂を横目で見ながら、冬次郎はぷかっと煙を吐き出した。見事に輪っかになった煙草の煙が、ゆるゆると天井に向かって昇っていく。
「───何で夏海の奴は失敗したんだ。お前、
「……よく判んないけど……たぶん、散布する直前に吹いた突風に機体が煽られたんだと思う」
祖父の落ち着いた声音に少しだけ冷静さを取り戻した秋穂が、自信が無さそうに言う。
「それで立て直すのに必死になって、高度が上がってるのを見落としたんじゃないか……って思うんだけど」
冬次郎は眉を寄せた。
「突風? そんなに強い風だったのか?」
「ううん、全然。地上にいたわたしの髪がちょっと乱れるくらいだから、ちゃんと身構えてたら煽られることはなかったはずだよ」
「その時の風向きや強さは……」
「もちろん夏ねえに伝えてたよ。夏ねえも判ってたみたいだけど、気付いたら姿勢がおかしくなってて……あ」
ふと、思い出したように秋穂は付け加えた。
「そういや夏ねえ、田んぼの上空へ進入するときにフラップ出してたっぽい」
「フラップ?」
「うん。がらがらーって、ステラのフラップ出す音が聞こえたから」
「ふん……」
立ち昇る紫煙を眺めながら、冬次郎は無精髭の生えた顎を指先で掻いた。
そういや最近は忙しさにかまけて、自分の身だしなみを整えるのがおろそかになってしまっていた。これでも復員してきた頃にゃ洒落者で鳴らしたもんだが、年食うとどうもいけねえな。
秋穂の言葉から、その時の様子を想像してみる。
おそらく、夏海は出来る限りの低速で薬剤を散布しようとしたのだろう。低速で進入すればそれだけ目標上空での滞空時間が増え、より正確に、かつ集中して目標となった田畑へ散布することが出来る。
フラップを出したのは、低速故に失われる揚力を少しでも稼ぐためだ。
常に前進して翼面に風を当て、揚力を生みだし続けなければならない固定翼機にとっては、速度の低下はそれだけ揚力が失われることを意味する。
事実、三式連絡機の最大の特徴である毎時四〇キロメートルという失速速度は、飛行中にフラップを全開にして限界まで揚力を高めたときに記録されたものだった。
───問題は。
じりじりと煙草を吸い込みながら、冬次郎は思案にふける。
問題は、どんな飛行機でも低速では運動性が極端に悪化することだ。
フラップを展開して稼げるのは単に主翼全体が生み出す揚力だけで、可動翼───方向舵や昇降舵、補助翼の利きに関してはフラップの展開は何の効果もない。
特に三式連絡機は方向舵の面積が小さく、低速域での左右の回頭性の鈍さはこの機体特有の悪癖だった。
加えて、フラップ展開によって翼面積が増すという事は、それだけ僅かな風でも煽られやすくなることを意味する。そして一度煽られたら最後、舵の利きが悪いために安定を保つのに苦労するはずだ。
その危険を看過して、夏海はフラップを下ろす決断をしたのか。
あるいは。
どんな状況になっても機体を操れる自信があるからなのか。
「フフン……」
煙草を揉み消しながら、冬次郎はニヤリと笑う。
「まさかとは思ってたが、美春の見立てもなかなか捨てたもんじゃねえな……」
「? どういうこと?」
「何でもねえ。それよりお前のことだがな、地上支援ってのは何もパイロットに針路を指示するだけが仕事じゃねえ。実際に空を飛んで仕事をこなすパイロットを地べたから支えて、その負担を少しでも和らげてやるのも仕事の内なんだよ」
納得がいかなそうな顔の秋穂に、冬次郎は続ける。
「だったらこう考えりゃいい。パイロットってのは飛行機を飛ばすための機械で、それを無線で操っているのがお前だ。いうなればお前こそが、夏海ってラジコン模型を通じて実際にステラを飛ばしてる人間ってわけだな」
「だから失敗しても謝るのはわたしってこと!?
「出来の悪いラジコンを生かすも殺すもお前次第、って事だ」
実の姉に対してひっでえ言い方しやがるなお前は、と冬次郎は苦笑する。
夏海と秋穂、全く性格の違う姉妹に見えながら、やはりどこかで似ている二人である。妹の方が幾分か毒舌家なようだが。
「お前だって、そういう連中を無線通して操ることにかけちゃ玉幡でも一級なんだろうが。この役目にうってつけと思ったからこそ、お前を夏海のサポートに付けることにしたんだよ」
「うっ……」
冬次郎の言葉に、秋穂はぐっと口籠もる。
「春ねえが知ってるって事はお爺ちゃんも知ってるだろうとは思ってたけど、改めて聞くとやっぱり知られたくなかったと思うよ……!」
「ふはは、手前ェの爺様をナメてんじゃねえぞ。お前もいい加減腹ァ括れ、伊達に世間様から『甲州ウィッチ』なんて小ッ恥ずかしい二つ名を頂戴しちゃいねえだろうが」
「イ────ヤ────ア────────────────!!」
その場に崩れ落ちるように蹲り、両耳を塞いで悲鳴を上げる。
自分でも恥ずかしいと思っていることを、よりにもよってこの祖父から聞かされることになろうとは。秋穂としては穴があったらそのまま潜り込んで体育座りでやり過ごしたい気分である。
「ったく……」
床の上で丸くなって子猫のように震える秋穂の頭を、冬次郎は左手の腋でがっしりと抱え上げた。
幾ら洗ってもオイル染みが取れなくなった反対側の掌で、二つに分けた髪をぐりぐりぐりぐりと乱暴に撫で回してやる。
「ふぎゃっ!!」
「お前には苦労かけるがな、夏海の奴はこないだまでピヨピヨ喚いてただけの、まだ羽根も生え揃わねえ雛鳥だ。あいつの成長をもうちょい気長に見守ってやれ。な?」
「わ、判った、判ったから! 髪に変な癖つくからぐりぐりするのやめてぇ!!」
その声を無視して、冬次郎は孫娘の頭をたっぷりと撫で回してやる。そういや赤ん坊の頃以来、こいつの頭を撫でてやるのは久しく無かったな、と考えている。
昔を懐かしく思う祖父の乱暴なスキンシップからようやく解放された秋穂の髪は、二目と見られない程ぼさぼさに逆立っていた。
「ああああ……せっかく整えたのに……!」
そういえば、と事務所の中を見渡して、冬次郎は手櫛で必死に髪を整えようとしている孫娘に尋ねた。
「他所ん家に粉ぶっかけたバカ娘はどこ行ったんだ? お前が帰ってきてからまだ見てねえぞ」
「知らないよ、もう!!」
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