2-5
甲斐杜高校からは橋を渡って釜無川の左岸に渡り、流れに沿って堤防を自転車で走っていけば、およそ三十分ほどで玉幡飛行場に辿り着く。
「どもー。お疲れ様でーす」
北第一ゲートの守衛に関係者証を見せ、夏海は飛行場の中に入った。この時間の玉幡飛行場は、日没直前に飛び立つ夜間定期便の出発準備に追われている。
「うわ、今日も忙しそ……」
トレーラーを二、三台連結したトーイングトラクターが、夏海の目の前をひっきりなしに行き交っている。どのトレーラーも限界まで荷物を積み上げ、その重みにサスペンションがずっしりと沈み込んでいた。
右手に広がる駐機場には、大小様々な機体が扉という扉を開けて荷物の到着を待ち受けている。
彼等の翼の下をくぐり抜けるように、荷物を牽くトーイングトラクター、機体への燃料補給をつかさどるタンカー、電源車、工作車……それらの地上作業車が走り回り、そして数え切れない程多くの人々が機体の周りに取り付いてそれぞれの作業を行っていた。
大量の荷物を限られた時間内に捌かなければならない定期便の荷役作業は、いつも戦場のような有様となる。
我が社に預けられたお荷物様は神様であり、畏れおおくもその歩みを妨げたりお体に傷を付けるような輩には無慈悲な制裁が加えられる。そんな鋼の如き信心のもと、今日も駐機場のどこかで俺の進路を邪魔すんな手前ェこそ俺の台車にぶつかっただろうが、と殴り合いの喧嘩が立て続けに発生する。そこに男も女も、老いも若きも関係ないのだ。
罵声と怒号と騒音が響き渡り、目を刺す排気煙とわずかな血反吐の臭いが辺りを包む。そんな世紀末的情景こそ定期便の荷役作業なのである。
そして夏海はそれを横目に見ながら、のほほんとママチャリを進めている。
わーいつもがんばってるなー、程度に思いながら、彼等の邪魔にならないよう構内道路の端を伝ってペダルを漕いでいく。誠に結構なご身分である。
空の便利屋を標榜するステラエアサービス社は、基本的に定期便業務を請け負っておらず、またそれを行うだけの体力もない。定期便業務とは、それなりの実績と会社規模がなければ請け負うことが出来ない仕事なのだ。
それ故に、夏海は日々玉幡飛行場の駐機場で展開される
第一格納庫の横で左折し、格納庫の裏手に回る。
機材運搬用のパレットや正体の判らぬスクラップが堆く積み上げられた中をさらに南下していくと、やがて構内道路はターミナルビルの北端にぶつかる。
夏海はビルの壁面に沿わせるようにママチャリを駐めると、ガラス扉の前に立った。
装飾もへったくれもない無味乾燥なターミナルビルの中で、北側一階端のここだけが三面を大きなガラス窓に囲われている。駐機場に面したガラス扉の上には申し訳程度に小さなオーニングがかけられていて、飛行場にあるにはいささか不謹慎な店名が可愛らしい丸ゴシックで描かれていた。
《喫茶エアポケット》
夏海はガラス扉を開けて中に入った。扉の上の鈴が小さくカラコロと音を立てる。
「こんちわー」
コーヒーの香りに包まれた店内は、外界と負けず劣らず雑然としていた。
弾痕が穿たれたP-51の垂直尾翼が天井からワイヤーで吊り下げられ、その上からどこか南洋の部族が作った木彫りの精霊が店内を見下ろしている。
壁には
廃用となった零戦の主脚がゲートキーパーのように扉の脇に並び、本日のランチメニューが書かれたホワイトボードが紐でぶら下げられていた。
もうすぐ夕方になろうかというこの時刻、店内の客は隅のボックス席に座る老人が一人きりだった。
まるで置物のようにぴくりともしない小さな老人の横で、太ったブチ猫が丸くなって居眠りしている。テーブルの上にはこの老人専用の大きな湯呑みが置かれ、番茶がかすかに湯気を立てていた。
「初代さんも、こんにちは」
初代さん、と呼ばれた老人は、からくり細工のようにゆるゆると首を縦に振った。目や口は深い皺の中に埋もれていて、その表情は判らない。が、もしかしたら笑っているのかも。
「おや。夏海ちゃん、いらっしゃい」
カウンター奥の厨房から顔を出した男が、柔らかな声音で言った。
黒縁眼鏡にぼさぼさの頭、襟元まできっちりとボタンを留めたカッターシャツに蝶ネクタイを締め、黒いエプロンをかけた姿はどこか売れない画家をイメージさせる。二十代にも四十代にも見える年齢不詳の容姿だが、実はついこないだ三十五歳の誕生日を迎えたばかりであることを夏海は知っていた。
名を
「今ちょうど豆を煎ってたところでね。もう少し待ってくれたら、出来たての豆で一杯入れてあげられるよ」
「ああ、だからこんなにコーヒーの匂いがするのか……」
夏海は鼻をひくつかせる。
店内の空気はいよいよ噎せ返りそうな程の、甘く香ばしい匂いで満たされつつあった。
「んー、桜子から伝言頼まれたんで、出勤途中に寄っただけなんだけどさ……」
「桜子ちゃんから、何だって?」
「いつもの掃除当番だよ。来るのがちょっと遅れるからって」
カウンターの丸椅子に腰掛けながら言う。マスターは壁に掛けられたB‐29の航法時計を見上げた。
「うん、夜間便の出発作業が終わるまでしばらくあるから、まだ大丈夫だね。忙しくなる頃に来てくれたら構わないよ」
夜間定期便が翼を連ねて飛び立っていく午後五時から約一時間は、この店の日に何度かあるかき入れ時だった。丁度各社の終業時刻と重なっているために、店内は作業を終えて一休みする地上作業員達と帰りがけに一服する社員達で一杯になってしまうのだ。
釣られて壁の時計を見上げていた夏海は、やがて「……そうしよっか」と頷いた。
「事務所で待つのとここで待つのも一緒だしね。マスター、ちょっとその電話貸してくれない?」
「いいよ。どこに掛けるの?」
「ウチの事務所に。陸生にここにいるって伝えなきゃ」
「場内なら内線の三番押して、それから部屋番押したら繋がるから」
マスターに礼を言いつつ、手元に電話を引き寄せた。
受話器を耳に当て、教えられた通りにボタンを押してしばらく待つ。
「……あ、陸生? あたしあたし。今エアポケットにいるから、終わったらこっちに連絡してよ。うん、そう。
どう、まだ作業続きそう? ……え、そりゃ大変じゃん。まあここでのんびり待ってるからさ、ひとつ頑張ってよ。はいはーい、んじゃね」
「……何かあったのかい?」
受話器を置いた夏海の前に入れたてのコーヒーを滑らせながら、マスターは尋ねる。
「なんか飛ぶ前に操縦席周りの点検するんだって言ってたんだけど、事務所に来てみたらお姉ちゃんの指示で機体の総点検することになったらしくってさ。爺ちゃんと二人して、ステラに潜っててんやわんやしてるみたい……あ、マスター。あれちょうだい」
「これでしょ?」
と、マスターはカウンター下の冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。夏海のカップに糸を引くように注いでいく。
「そろそろ夏海ちゃんも、ミルクを入れずにウチのコーヒーを飲んで欲しいね。これでもウチのコーヒーは、産地直送の豆を丁寧に自家焙煎したやつだから、他とは香りが全然違うんだよ」
「えー? だって苦いじゃん」
マスターのこだわりを「苦い」の一言で斬って捨てた夏海は、さらに砂糖を五杯も入れて嬉しそうにカップを傾けた。
どこまでもお子様な夏海の舌に、コーヒーには一家言あるマスターも二の句を告げず、溜息をつきながら牛乳パックを冷蔵庫に収めた。
「……いくら点検箇所が少ない
「まあね。でもいつもの通り近場の薬剤散布だと思うから、飛んでる時間は三十分もないんじゃないかな。陽が落ちきるまでに飛べたらいいんだと思うけど」
「冬次郎さんも手伝っているんなら、そんなに時間はかからないとは思うけどね。僕も現役時代に、冬次郎さんには何度も助けられたよ」
まるで荒事に向いていなさそうな容姿をしていながら、マスターはかつて甲斐賊の一員として操縦桿を握っていた男だった。それなりに腕の良いパイロットだったと夏海は聞いている。
この店の先代店長だった父が死去したために、甲斐賊の看板を下ろして店を継いだのが二年前。それからは場末の喫茶店のマスターとして、アルバイトの桜子と二人で店を切り盛りしていた。
玉幡飛行場の場内にある唯一の飲食施設なだけに、食事時になると腹を空かせた甲斐賊たちが詰めかけ、その他の時間も近所の老人たちが集会場所にしたりと、店はそれなりに繁盛している。
「夏海ちゃんの商業初飛行から、もう一ヶ月か……どうだい、そろそろ仕事には慣れてきた?」
マスターの問いかけに、ふうふうとカップに息を吹きかけていた夏海は難しい表情を浮かべた。
「どうかなあ……何せ近場の仕事しかさせて貰えてないからね」
「それでも立派な仕事だよ。僕の時なんて、事業用を取ってから一年はまともに飛ばせて貰えなかったなあ。おかげで最初の商業飛行の時には、まるで自家用の単独初飛行の時みたいに随分と緊張したもんさ」
「でも、あたしとしてはもっと遠くまで行ってみたいよ。この一ヶ月、ずうっと甲府盆地の中だけで飛んできたからね。そろそろ他の場所も見てみたいって言ってるんだけど、その度に爺ちゃんが『尻に殻ついてるヒヨッコにゃまだ早ェ』って」
腕を組みながら祖父の声音を真似てみせる夏海に、マスターはフフッと微笑を浮かべた。
「夏海ちゃんのことが心配なんだよ。毎日しっかりと機体の整備して貰えて、いいお爺さんじゃないか」
「そうかなあ。いつまでも素人みたいに思われるのも癪なんだけど……」
「……そういや」
突然、口元に拳を当てて笑い出したマスターに、夏海は驚いて目を丸くした。
「な、何?」
「いや、ごめんごめん……昔、冬次郎さんと君のお父さん──芳朗さんがやり合ってるのを、ふと思い出してね」
「爺ちゃんと、父さんが?」
「そう。丁度、僕がパイロットとして飛び始めた頃だったかな。どっかの会社が近距離の小口輸送用に使おうと、
夏海のカップから立ち上る湯気の向こうで、マスターは懐かしそうに目を細めながら静かに語り続ける。
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