2-4

「あれっ、美春ちゃん」


 ターミナルビルの二階フロアは、ほぼ全ての部屋に玉幡飛行業組合の各課が入居している。

 その内の一つ、総務課の扉をノックして入ってきた美春を、オールバックに髪をなでつけた中年男が出迎えた。総務課の課長である。


「こんにちは。今、大丈夫です?」

「忙しいっちゃ忙しいけど、美春ちゃんなら大歓迎だよ。なに、組合に戻ってきてくれるのかい?」

「ふふっ、違いますよ。ウチの社はまだ始まったばかりなんですから」


 課長の言葉を軽く受け流しながら、美春は総務課の室内を見渡した。

 今、総務課には五人の職員が詰めている。どの職員も堆く積み上がった書類の山の間で、肩を縮こまらせるように業務を続けていた。

 さっきから電話がいくつも鳴り続けているが、誰も出ようとはしない。眼の前の仕事を必死にこなす余り、電話が鳴っていることも気付いていない様子だ。出迎えてくれた課長も大量の書類を両手に抱えている。


「これは……」


 自分が組合職員としてここで働いていた時には、こんなに忙しかったことは無かったはずなんだけど。かつての総務課の情景と比較して、美春は首を傾げる。


「ひどいもんだろ? 君が辞めてからの一年で、総務課はすっかりこの有様さ」


 室内の光景に目を丸くしている美春へ、課長は肩をすくめた。


「君がいなくなってから、初めて君がどれだけ組合にとって大きな存在だったか身をもって味わっているとこさ。今じゃ飛行申請からビル内で使うトイレットペーパーの在庫把握まで、何一つ上手く回っていなくてね」

「一体どうしてこんな事に? 組合から離れたときに引き継ぎは済ませたはずですけど」

「君と同じだけの仕事をできる人間が、この中にいなかったって事だな。毎日の飛行関係の事務処理だけは何とか回しちゃいるけど、場内の保守については二の次なのが現状さ」


 ふと、荒れ放題になっていた屋上の展望デッキを思い出す。

 飛行場内の保守管理も一手に任されている組合がこの有様だと、そりゃあ展望デッキの掃除など後回しにされるわけだ。


 美春は近くにある書類の山から数枚を抜き出した。

 一枚目は、とある空輸会社からの明日の飛行申請の書類だった。機体は一式陸上攻撃機ベティで、経路は玉幡から北海道の帯広。積荷は農業トラクター用エンジンオイルが一〇〇〇リットル。

 二枚目は設備改善の要望書だった。要望者は第二ゲート警備主任で、詰め所にある電話が古くて雑音が多く聞き取りにくいため、新しいものに交換して欲しい、とのこと。

 三枚目は、何と近所の小学校からの見学申請である。社会科の授業の一環で、クラスの児童達に飛行場の中を見せてやって欲しい……。


「これは……何というか……」

「無茶苦茶だっていうんだろ? 判るよ。そこにあるのは今日届いたぶんの書類だ。しかしそれを処理する前に、貯まった方から先にしなきゃ。これで今日も徹夜仕事だよ」


 課長は疲れ切ったように溜息をつく。

 見るとカッターシャツの襟元は黒く汚れ、目の下にははっきりと隈が浮いている。鏡を見る暇もないのか顎にはうっすらと髭が浮き、髪は乱れて所々で跳ね上がっていた。もう何日、この人は家に帰ってないんだろう。


「うーん……」


 課長の肩越しに部屋の奥を見る。書類棚によって区切られた向こうの部屋は保守管理を専門とする職員の詰所になっているが、手持ち無沙汰なのか茶を啜りながらスポーツ新聞に目を落としている。

 つまり組合全体が多忙を極めているのではなく、窓口となる総務課だけがこの有様になっているのだった。


 実は、組合職員だった頃から思いついていたことが一つあった。


「……とりあえず、ひとつ提案があるんですけど構いませんか?」

「もちろん! 気付いたことがあったら教えてくれ」


 縋り付くように課長が応える。

 かつて組合でも最も若い職員でありながら、その驚異的な処理能力で組合の書類仕事の大半を引き受けていたスーパー事務員のアドバイスである。否も応もなかった。


「まず、それぞれの書類の書式を変えましょう。いえ、書式を変えるというより、印刷する紙を変えるといったほうがいいかしら」

「……どういうことだい?」


 美春は手にしていた書類のうち、飛行申請書と設備改善の要望書を並べた。


「見て下さい、両方とも同じA4用紙に黒字で印刷してますよね? 飛行申請書類は公的文書だから白い紙に印刷しなきゃダメですけど、でも玉幡の中だけで使われる書類に関しては色を変えても良いはずです」


 飛行申請書は相手側空港にもファックスで送信されるため、その書式も厳密に定められており、そして読み取りができない事態を防ぐために白地に黒ではっきりと書かれていることが必須だった。

 しかし玉幡飛行場の内部で完結する書類に関しては、そこまで厳密に書式を定めておく必要はないはずだ。美春は以前から、この点について何とかできないものかと考えていたのである。


「例えば、設備要望に関しては青地、見学申請書類は黄色地、みたいに。こうすれば一目で何の書類か判るので、それを届いた先から内容別の箱に放り込むようにすれば、すぐに対応しなきゃならない重要な案件を見逃すことはなくなる、と思います」

「ふむ、なるほど。それで?」


 課長が顎に手を添えて、先をうながす。


「せっかく部署が分かれてるのに、総務課の窓口だけがこの有様で他が手持ち無沙汰になってるのは、最初の段階で書類の分別が進んでないからですよ。とりあえず届いた書類を仕分ける人を一人置いて、届いた書類はすべてその人に集約させるように。そして今の方法で分別を進めていけば、処理スピードは一気に上がる、と思うんですけど」

「印刷する紙を変える、か……。しかし、それだと今ある分との入れ替えが大変だね。組合にある用紙の全てを一度に切り替えなきゃならないから、手間もかかるし無駄もずいぶん出ることになる」

「そうですね……じゃあ、こういうのはどうかしら」


 美春は書類の上辺を指差した。


「色付きの新しい用紙に切り替えが進むまで、ひとまず従来の用紙については使う先から用紙の上に色別のマーカーで印を付けておくんです。みんなで手分けして色を塗っておけばそれほど手間もかからないし、これまでの用紙も無駄にはなりません」

「なるほど……」

「将来的には、各部署それぞれが総務課にやってきて、自分たちの仕分け箱に何か書類が入っていたら各々でそれを持ち帰って対応するようにすれば、今のように総務課だけが極端に忙しいような事は無くなるし、業務が全般的にもっとスムーズに動くようになると思います」


 要は、会社員が普通に行っている書類仕分けと分業化を導入しろ、ということだった。

 驚くべきことに、玉幡飛行業組合は業務のデジタル化をほとんど進めておらず、今なお旧来の紙と鉛筆による事務処理を恐竜のような鈍感さで続けていた。

 祖父なんかに言わせると「コンピュータなんざ使い始めても、儂のようなジジイやアホな甲斐賊どもに使いこなせるはずがねえ」ということらしいけれど、航空産業の最先端に立ちながらオンラインでの事務作業もできないのはどうなんだろう、と美春もたまに思うことがある。


 システム上の問題だけではない。脳みそまで筋肉が詰まったような甲斐賊の考え方に染まってしまったのか、その事務処理の方法は馬鹿が付く程に愚直だった。

 集まった書類を項目別に仕分けることもせず、ただ総務課の五人に割り振って頭から順番に処理している。そりゃあ案件が山のように貯まろうというものだった。


「うん……うん、うんうん」

 美春の提案を、課長は頭の中で反芻している。


 環境が無いものは仕方ないので、出来る限り書類の取り回しにかかる負担を減らす方法を考える以外にない。職員時代の美春がスーパー事務員として持て囃されていたのも、単に普通の会社員が当然のように行っている事務処理のノウハウを持ち込んだからに過ぎない、と自分では思っている。

 それ故に、簡単な書類仕分けのやり方を取り入れるだけでも大きな効果がある、と美春は考えていた。

 何しろ、たった五人しかいない総務課の職員が場当たり的に事務処理を進めていても、ただでさえ膨大な毎日の飛行場業務を何とかこなし続けているのだ。ちょっとした工夫で大きく事務処理のスピードが改善されるに違いなかった。


「……良いかも知れないな。ありがとう、早速次の全体会議で上役に掛け合ってみるよ」

「お役に立てたなら嬉しいですね」


 組合の業務がスピードアップしたのなら、こちらの業務の効率も上がるだろうし。できれば早い内に実現して欲しいと思う。

 美春の笑顔を見て、彼女の隠れファンである課長はあわてて目を逸らした。心なしか顔が赤い。


「そ、そうだ。美春ちゃん、ウチに何か用事があったんじゃないのかい?」

「あら……そうでした。すっかり忘れちゃってましたね」


 美春はこほん、と一つ咳払いして言った。


「実は、妹の飛行記録を見せて欲しいんです」

「妹? 夏海ちゃんのかい? 飛行記録なら原本がそっちにもあるはずだろう?」

「いえ、ウチにあるのは会社が創業して以降のものですから。そうじゃなくて、なっちゃ……夏海が自家用の飛行訓練生として飛んでた頃のものが、ここにまだ保管されてるはずなんですけど」

「夏海ちゃんが免許取ったのはついこないだの話だし、保管期限が切れてない奴なら全部残されてるがね。本当は本人以外にゃ見せられないものなんだけど、まあ美春ちゃんは身内だし、今回の礼って事で。ただ……」

「ただ?」


 小首を傾げる。課長は言いにくそうに頭を掻いた。


「……今はこんな忙しさだから、保管庫の整理は後回しにしててね。あるのは間違いないんだが、それが保管庫のどこにあるのかまでは判らないんだ」

「あ、それなら大丈夫です」


 美春は微笑を浮かべて頷いた。


「私がまだここで働かせてもらってた時に、保管庫の中を整理しておきましたから。あれから配置を変えてないなら、あの子が訓練生だった頃の記録の場所は大体わかります」

「……やっぱりウチに戻ってこないか? 君が戻ってきてくれたら、明日には総務課みんなで有給取れるくらい暇になると思うんだが」

「ふふっ、買いかぶりすぎですよ」


 美春は保管庫の鍵を受け取ると廊下に出た。


 組合の入るターミナルビル二階の廊下は、窓一面を目張りするように種々様々なポスターが埋め尽くしていて昼なお薄暗い。

 ポスターのほとんどが労働基準監督署や税関関係のもので、古い物を剥がさずその上から新しいポスターを貼り重ねていくために、横から見るとまるでバウムクーヘンのような年輪を形作っていた。


 海外からの空輸便が到着し始めるこの時刻、廊下は通関書類を手にした業者が多く行き交っている。

 航続距離の関係から大型機が多い海外便のパイロットは、あまり体格を気にする必要がないためにガタイの良い連中が揃っている。そんな奴らが、税関からいくつかのスタンプをもらうために大きな身体を縮こまらせて殊勝そうにしている姿は、傍から見るとひどく滑稽に見えてしまう。

 ここで税関吏の機嫌を損ねると、せっかく遠路はるばる運んできた荷物が没収され、その金銭的な負担は運び手に重くのしかかってくる。だから彼等も真剣にならざるを得ないのだが、普段の行状を知っているだけにそのギャップが美春には面白く映ってしまうのだ。


 そんな彼等の間を縫うように、美春は廊下を奥へ奥へと進んでいく。目指す文書庫は二階廊下の一番端にあった。


「まだ扉の鍵、直してなかったのね……」


 扉に元々あったサムターンキーはずっと昔に誰かが力業で壊したままで、今は扉の端に掛け金が後付けされて小さな南京錠がつけられている。美春がここで働いていた頃からこの有様で、もはや元々の鍵が壊れている事自体が忘れられているのかも知れない。


 南京錠を外して扉を開ける。埃っぽい暗闇の中で、壁際を手で探って室内灯のスイッチを入れた。

 蛍光灯の白い光に照らし出された室内を見て、美春は少しばかり息をのんだ。


「……これはまた……」


 明かりの下にさらけ出された倉庫の中は、紙で埋まっていた。

 どうやら美春が整理したのを最後に、誰もここに手を付けていなかったらしい。保管期限の切れた書類の処分もしていないのか、大量の書類が室内の隅々まで埋め尽くしている。

 運び込まれた書類は奥から乱雑に積み上げられるまま、一部は崩れて床にぶちまけられていた。足の踏み場も無いとはこの事だった。課長が倉庫について口籠もっていたのも判ろうというものだ。


「たしか、訓練生の記録は右奥の棚に……」


 床の書類を拾い上げ、適当にまとめて山の上に置く。その繰り返しで何とか道を作りながら、目指す棚へと近付いていく。

 夏海が自家用免許の取得を目指して訓練を始めたのは、今から三年前。その年の訓練飛行関係の記録は棚の下から二段目に、三ヶ月毎にファイリングして整理しておいたはずだった。

 記憶を頼りに目的のファイルを見つけると、美春は書類の山の上でファイルを開いて指を滑らせる。


「……あった」


 日付は七月二十五日。天候は晴れで、雲量一。

 その日、夏海は教官とともに四式基本練習機ユングマンに乗り、諏訪湖から八ヶ岳の北側を回って奥秩父上空で南へ旋回、玉幡へと戻ってくる周回飛行に飛び立っていた。玉幡を発ったのは午前十時で、戻ってきたのは午前十一時過ぎ。

 絶好の飛行日和のなかで行われたのんびり一時間のクロスカントリー飛行は、きっと気持ちの良い空の散歩となったはずだ。


 書類に添えられた教官からの講評に目を走らせる。


『──飛行中、訓練生は興奮していたものの一連の操作に問題は無く、これから飛行に慣れてくるにつれて精神的にも落ち着いてくるものと思われる。諏訪湖上空では安定飛行の際の燃費向上についてレクチャーし、八ヶ岳上空では若干の乱気流に遭遇するなど、訓練生にとって様々な経験を積めた飛行訓練となった……』


 思わず苦笑してしまう。


「あの子ったら、もう……」


 大方、空高くから住み慣れた街を見下ろす体験に文字通り舞い上がってしまったのだろう。

 慣れたら落ち着くだろうなんてとんでもない、空を飛ぶことが何よりも大好きな妹は、今だって空の上で興奮しっぱなしだ。

 教官からの覚えが良かったらしく、評価自体は良かったのが幸いだった。これで評価が悪かったなら目も当てられない。


 棚からさらに数冊のファイルを抜き取り、訓練記録を一つ一つ丹念に辿っていく。それは、商業パイロットを目指して日々奮闘を重ねるかつての夏海の足跡だった。

 いつも気分良く訓練を終えたわけではない。時には厳しい教官に当たって、悔しさと自分の未熟さで歯ぎしりするような思いを感じたこともあっただろう。でも妹は、それら全てを糧にしてパイロットとしての成長を続けていた。

 長く、時には辛く、そして苦しいその道程を、妹が楽しさを感じながら歩んでいったことが記録から読み取れて、美春にはそれが何よりも嬉しい。


 ───そして今の夏海が気付いていない、一つの大きな弱点も。


「……だったら」


 ぱたん、とファイルを閉じる。

 ファイルを元の棚に戻しながら、美春は微笑を浮かべて呟いた。


「飛行訓練の最後の仕上げを、私たちから用意してあげなくちゃね」


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