2-6

「冬次郎さん、試験飛行を芳朗さんに任せるのが心配だったみたいで、離陸前のブリーフィングじゃあ細々とした所まで何度も繰り返していたよ。そのくせ芳朗さんはすぐにでも飛び立ちたいみたいにそわそわして、冬次郎さんの注意も上の空な感じだったな。あんまり聞き流してる感じに見えたから、ついには冬次郎さんも怒り出しちゃってね」


 マスターの回想に、夏海は苦笑した。


「爺ちゃん、短気だからなあ……」

「そうだなあ、僕らもその時は『同じ事をそう何度も何度も繰り返してたら、そりゃ誰だって怒るだろうさ』って思ってたよ───でも、そうじゃなかったんだな」


 マスターは親指と小指を広げた右掌をカウンターの上で滑らせる。


「いよいよ試験飛行に出発して、車輪が滑走路の路面から離れてすぐ。何を思ったか芳朗さんは超低空で機体を急横転させて、翼端が地面に擦れそうな一八〇度ロールをカマしてさ。そのまま操縦桿を一杯まで引きつけて、ほとんど垂直に近い急上昇をしていったんだよ」


 マスターの右掌が槍のように真上を向いて昇っていく。その爪先を目で追いながら、夏海はなんて無茶なことをするんだろう、と呆れた。


 飛行中の機体が最も不安定になるのは、速度が落ちて翼に当たる風が小さくなったときだ。翼が風を受け止められなくなると、そのまま失速に繋がってしまう。

 特に、離陸直後は速度が非常に遅いために揚力も小さく、翼が十分な揚力をため込むまではフラップを出して緩やかな上昇を続けなければならないのだ。


「その後はもう、芳朗さんの独壇場さ。飛行場のみんなが見上げている前で、芳朗さんは次々と曲芸飛行を繰り出していった。小さな宙返りを二つ繰り返して縦に〝8〟の字を描いたり、機体を激しくロールさせながら宙返りしたり、ふらふら木の葉みたいに揺れながら垂直降下したり……」


 ちなみに、それぞれ〈バーチカル・キューバン・エイト〉〈バレル・ロール〉〈フリップ・リーフ〉と呼ばれるアクロバットテクニックである。

 高い機体性能と卓越した操縦技術がなければ、完璧な形では成功しない高等テクニックとされている。


「む、無茶苦茶するなあ、父さん……!」

「挙句の果てに、垂直で上昇した姿勢のままで空中静止して、機首を横に落として降下する〈ストール・ターン〉まで決めてみせたら、ついに冬次郎さんも我慢できなくなったみたいでね。真っ赤っかに怒って空にスパナ投げつけながら、『言わんこっちゃねえ、やっぱり曲芸やりやがった。降りてきたら足腰立たなくなるまでブチのめしてやる』って、そりゃもうカンカンだったよ」


 そりゃそうだろう。出来たてほやほやの機体でいきなりそんな飛行をされたら、整備士なら誰だって怒るに決まっている。


 それにしても、驚くべきは父の操縦の腕だった。九九式襲撃機ソニアは確かに扱いやすい機体として知られているが、それでも平気でアクロをやれるほど飛行性能に優れているとはいえない。

 しかもレストアから上がってきたばかりのどこにどんな不具合があるのか判らない機体で、離陸直後の不安定な時に、連続してそんな高等テクを繰り返したというのか。

 人づてに聞いてはいたが、父の持っていた操縦技量に改めて舌を巻く思いがする。


「………あれ?」


 はた、と夏海は気付いた。その様子を見て、マスターは微笑を浮かべる。


「夏海ちゃんも気付いたかい? そう、僕もこの時点で判ったんだ。ねちっこく注意を繰り返した冬次郎さんに、それにも関わらず皆の前で高等アクロを披露した芳朗さん……まるで水と油みたいな関係なのに、実は二人がお互いの能力をどこまでも信頼しあっているって事に」


 夏海の空になったグラスに水を注ぎながら、マスターは言った。

 氷水で満たされたグラスが外から差し込む陽光を受け止め、カウンターの上に七色の輝きを落としている。


「冬次郎さんは、気付いていたんだ。新しい機体を与えられた息子がどんな行動をするのか、そしてそれを実現できるだけの操縦技術を息子が持っていることを。だからこそ冬次郎さんは、九九式襲撃機ソニアで高等アクロが出来るようにセッティングを限界まで煮詰め、通常の機体とはどこが違っているのか可能な限り芳朗さんに伝えようとした。

 一方で芳朗さんは、父親の整備の技量をどこまでも信頼しきっていたんだ。父の整備した機体に万に一つの間違いもない、何も言わずとも自分に合わせたセッティングをしてくれたに決まっている、と。だからこそ芳朗さんは父の注意をまともに聞かず、まるで無視してアクロを繰り出したように僕らには見えたんだよ。もしかしたら、父親の整備の技量を皆に見せつけるために率先してアクロバット飛行をしたのかも知れないね」


 グラスの中の氷が、カラン、と音を立てる。


 夏海は、父の姿をほとんど知らない。父と祖父がどのような関係だったのか、今もそれを想像できない程に、その時の自分は幼かったのだ。

 覚えているのは、二人が顔を合わせる度に皮肉とも口喧嘩とも取れない言い合いをしていたことくらい。何となく、他の親子関係とは違っていたような印象がする。


 しかし、それがお互いの能力を認め合っている結果なのだとしたら。父と子、互いを思い合った先に辿り着いた一つの家族の形なのだとしたら。

 それは、どれほど素敵なことなんだろう。


「……似てる、と思わないかい」


 冷水の入ったポットを布巾の上に置きながら、マスターは言った。


「似てるって?」

「今の、夏海ちゃんに対する冬次郎さんの態度が、さ」


 そうなのかな? 父さんと違って、自分の操縦の腕はまだまだだし。爺ちゃんがあたしに信頼を寄せてるようにはとても思えないんだけど。

 首を傾げる夏海の目を、マスターは真っ直ぐに見返している。


「考えてごらんよ。ああ見えて冬次郎さんは、整備の腕だけじゃなく豊富な空の知識も持った、この玉幡じゃ神様のような存在だよ。あの性格だから直弟子は陸生君を加えても五人程しかいないけど、彼等の教え子まで加えたら玉幡の整備士はみんな冬次郎さんの孫弟子と言ってもいい。だったら、わざわざ冬次郎さんが整備しなくても誰かに丸投げすればいいとは思わないかい。どうして冬次郎さんは、君の機体を毎日居残ってまで自らの手で整備をして、しかもきっちりアドバイスまでしてくれるんだろう?」

「それは……」

「孫娘の夏海ちゃんの機体だから、という理由はもちろんあるだろうね。でも冬次郎さんの性格からして、家族だからといって特別に目を掛けるようなことをする人かな」


 先回りして言葉を重ねるマスターに、夏海はぐっと詰まった。

 その通りだ。爺ちゃんは、絶対に身内びいきはしない。

 例え孫だからといって、決して甘い顔はされない。どこか放任のようでいながら、空のことに関してはいつだって厳しい。それが祖父・天羽冬次郎という男だった。

 それは生まれて十七年間を同じ屋根の下で暮らし、そして父が亡くなってからの十年間を実子のように育てられてきた自分が一番よく判っていた。


 すっかり冷めてしまったコーヒーの波紋を見つめながら思いを巡らす夏海に、マスターは訥々とつとつと語った。


「僕には別の理由があると思うんだ───夏海ちゃんの中に、芳朗さんの面影を見たんじゃないかな」

「あたしの、中に?」

「そう。玉幡始まって以来という極めて高い操縦技量を持ち、どんな困難な飛行も飄々とこなしてみせた名パイロット、天羽芳朗の面影が、ね。もちろん、それは親子だから見た目が似てるって事じゃなくてさ。きっと芳朗さんの操縦の腕を思い出すような何かが、夏海ちゃんの飛び方の中にあったんじゃないかと思うんだ」


 そして、マスターは柔らかな微笑を浮かべながら言った。


「冬次郎さんが口うるさくアドバイスしたり、機体の整備を他人任せにしないのは、君に見込みがあるからさ。大丈夫、君はちゃんと成長してるよ」


 まるで、自分の実の娘を諭しているかのような。

 その声音はどこまでも静かに、しかし万の気持ちを込めたように力強く、夏海の胸の中に響いた。


「……そうか………」


 不安だったのだ。確かに自分は事業用操縦士免許を取得し、書類の上では空の仕事人達の仲間入りを果たしている。

 でも、そんな無味乾燥な文字で表したものじゃない。大空を仕事場として日々を過ごす人々の一員たり得ることを、確かな実感として掴んでおきたかったのだ。

 しかし初飛行の日からこっち、夏海は甲府盆地の狭い空域の中だけを飛び続けてきた。毎日代わり映えのしない近所の農薬散布の仕事だけを、ずっとずっと繰り返してきた。


 それは、もしかしたら自分に才能が無いからなのかとも思ったけれど。

 でも、あるいはそれこそが自分の中にある成長の種を、例えわずかでも見いだしてくれた結果だとしたら、これから自分が進んでいく先に希望が持てるっていうものだ。


 マスターは、恥ずかしそうに頭をがりがり掻いている。


「うーん……ちょっとクサかったかな……?」

「全然そんなことない! むしろ格好良かった!!」


 カウンターに身を乗り出して気負い込む夏海に、マスターは顔を真っ赤にして身悶える。

 かつては甲斐賊として雲の動きを読み、今はフラスコの中で泡立つコーヒー豆の動きを見極めるマスターは、実はどうしようもなく小心者なのだった。


 壁の時計が午後四時少し前を指している。夏海がこの店に入ってから三十分が過ぎようとしていた。

 カウンターの上の電話が小さく呼び出し音を鳴らした。マスターが手に取るより早く、夏海が受話器を取り上げる。


「もしもし、エアポケットです!」

『……何で夏海がいきなり電話出てるんだよ………』


 陸生の訝しそうな声が受話器から聞こえてくる。

 苦笑するマスターを見ながら、夏海は早口で返答した。


「んなこたいいから! 整備は終わったの?」

『うん、終わった。ちょいと手こずったけど、何とかノルマは終わらせたよ。にしても、やけに張り切ってるなあ。何かいいことでもあっ……』

「今からすぐ行く、んじゃ!」


 がちゃっ。

 夏海は最後まで聞かずに電話を切る。

 今にもその辺りを走り出してしまいそうな程、気分が高揚していた。一分一秒でも惜しい。すぐにでも空を飛びたい。

 夏海はぴょこん、とスツールから降り立つと、その場で足踏みしながら挨拶する。


「マスター、ありがとう! 行ってくる!!」

「ああ、行っといで。今日は天気が良さそうだけど、上空は少し風があるみたいだから、くれぐれも気をつけてね」


 マスターの言葉を最後まで聞いていたかは怪しいところだ。

 夏海は脱兎の如く店を飛び出すと、愛機が待つ格納庫に向けて立ち漕ぎで自転車を走らせていった。




 その日の飛行も、言うまでもなく近所の農園への薬剤散布だった。

 ステラを駆った夏海は、横風に難渋しながらも何とか目標となったブドウ園に農薬を撒くことができた。少しばかり風に流されて別の場所にも振り撒くことになったけれど、そこは長らく放置された休耕地だったから、まずは問題なく仕事を終えることが出来たと言えるだろう。


 一仕事を終えて玉幡へと帰還した夏海を出迎えたのは、事務所を留守にしていたはずの姉と祖父だった。

 二人は何事かを話し合いながら、まだエンジンの熱が冷めやらぬステラを格納庫の奥へと仕舞い込んだ。これから陸生を含めた三人で手分けしてステラの総チェックを行うという。

 手伝おうか、そう言ってみた夏海に、姉はいつもの通り和やかな表情を浮かべながら首を振った。


「大丈夫よ、なっちゃんは先に帰ってて。晩ご飯は冷蔵庫の中の物を適当にチンして食べてね」


 そう言われると否も応もない。

 再び真剣な面持ちで作業に戻った三人を置いて、フライトスーツから学校の制服姿に戻った夏海は事務所を出た。


 太陽はすっかり山並みの向こうに消え、玉幡飛行場は照明塔からの煌々とした光に照らし出されていた。夜間定期便が発った後の広大な駐機場には、ぽつぽつと大小の機体が翼を休める他は人の気配が無い。

 これから深夜零時過ぎまで、各地から三々五々やってくる貨物機を受け入れてから、玉幡飛行場は朝七時の始業までつかの間の休息時刻に入る。

 一応は緊急事態に備えて不寝番が詰めているが、それ以外では明日の仕事を忘れて酒盛りをしている甲斐賊連中の他は、飛行場はほぼ無人となってしまう。


 夏海は色とりどりの信号灯が並んだ滑走路に沿って、のんびりと自転車を走らせていく。耳に届くのは飛行場全体を覆う微かな機械音と、南アルプスから吹き下ろしてくる風の音だけだった。

 夜空を見上げると、満天の星空の中を一筋の明滅する光が横切っていく。いずこの飛行場に向かう同業者の貨物機だろうか。


 明日もいい天気になりそう。


 この時期には珍しく霞一つ無い夜空の下、ほんのりと暖かな春のそよ風に吹かれながら、夏海は家路を走っていった。


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