4-8


 上空に漂う火災の煙は、東からの風に乗って現場の西側を中心に広がっていた。


 吹き込んでくる風が弱いためか、煙は散らされることなく濃いままに現場上空を覆っている。ステラから見ると、まるで前方全てが灰色のスクリーンで覆われているようだった。


 このまま左旋回を続けると、あの煙の中にまともに突っ込んでしまう。

 夏海は操縦桿を僅かに右へ倒し、続いて胸元へ引きつけた。


 緩やかに右旋回するステラの右側方窓からは、地上の様子が一望の下に見渡せた。

 地上のあらゆる道路という道路の上を、無数の白蛇がうねっている。バイパス上の火災に向けて消防隊が引いてきた消火ホースだった。それらは重なり合いながら火の出ている場所に延ばされ、先端から水流がアーチを描いて噴射されている。


 バイパス上の火災は峠を越しつつあるように見えた。ちろちろと頼りなく揺れる火にもすぐにホースが向けられ、強力な水流の中で息の根を止めていく。後に残されるのは、黒こげになって骨組みだけを残した何台もの車だ。

 西側はほぼ消し止められ、残る東側に向けてこれから放水が始まろうかという時だった。


「でも、煙で見えないのは相変わらずなんだよね……」


 むしろ前よりも酷くなっているようにも感じられる。消火によって沸き上がる水蒸気と共に、東側の火災が一層酷くなっていたのだ。

 もしかしたら、すでに流れ出した液体に火がついているのかも知れない。


 ───急がないと……!


 夏海は消防隊からの連絡を待っている。タンクローリーまで回せる車輌を選んだ後、準備が整えば連絡が来る手はずとなっていた。

 それほど時間はかからないはずだったが、今にも街全体が燃え上がるような気がして夏海としては気が気ではない。


 小さな雑音と共に無線が繋がった。


『こちら地上の消防隊ッス。別働隊の準備が完了したッス』


 あの、何とかという名前の消防士だった。好きなタイプはAV女優の人。


「あ、あれ? そちらも別働隊に参加することになったんですか、えーと……サギヤマさん」

『柿沼ッス。自分はレスキュー隊員オレンジッスからね。とりあえずバイパスの方は目処がついたし、こっちに参加するように言われたッス』

「了解、現場まであたしが引っ張ります。できるだけ低い高度を低速で飛びますので、遅れないようについてきて下さい」

『……大丈夫ッスか?』


 無線の向こうの声が、案じるように低くなった。


『自分は地面の上のことしか判らないけど、火事場の上を飛ぶのはそれなりに危険が大きいって聞いたことがあるッス。もしもの事があったら、美春さんに顔向けできないッスよ』

「……正直、緊張はしてます」


 右のラダーペダルを踏み込み、ステラを横滑りさせるように低空へと降りていく。

 再びバイパスの方向へと機首が向いた時には、気圧高度計の針は五〇〇mを切っていた。対地高度は差し引き二〇〇mというところだろう。これより下は危険なギリギリの高度だった。


「でも、やんなくちゃダメならパッパと終わらせちゃいましょう。クゲヌマさん」

『柿沼、カーキーヌーマ、ッス。ついてく車輌は三台、いずれも油脂吸着剤をたっぷり積み込んでるッス。そっちの合図で走り出しますんで、いつでもどうぞ!』


 夏海は右前下方を見下ろした。

 濛々たる煙に向かって、赤い回転灯を回した消防車が縦に三台連なって停まっている。先頭の一台の窓から、オレンジ色の消防服を着た隊員が身を乗り出してこちらに手を振っていた。


 いよいよだ。フラップレバーを引いて高揚力装置を作動させる。主翼後方にファウラーフラップが騒々しく羽を伸ばし、みるみるうちに速度が下がっていく。


 祖父から聞いた失速速度を下回らないよう、スロットルを調整してエンジン回転を合わせる。あまり高い速度を出し過ぎるとフラップの効果で機体が浮き上がるし、逆に速度を落とし過ぎると失速して地面に真っ逆さまだ。失速速度より少しだけ上回る速度になるよう、夏海は慎重にスロットルレバーを操作した。


 ───気合、一発!


「よっしゃああああああああ! 行きましょう、カキシマさん!!」

『だーかーらぁ! 自分は柿沼ッスよ!!』


 ───無線機の調子が悪いのかな、AV女優好きの人。


 次の瞬間、ステラは真正面から煙の中に突っ込んだ。


 途端に、機体が揺さぶられる。ただの振動ではない。まるで巨大なふるいにかけられているかのような、猛烈な激震だった。

 さらに、周りが全く見えない。前後左右上下、見回す方向すべてが灰色の煙に覆われて、機内はさながら夕闇のような明るさとなっていた。

 乗降扉の隙間から煙が渦を巻きながら吹き込んできて、その不気味な熱さが逆に冷や汗を呼ぶ。


「地上班! こちらが見えますか!?」

『大丈夫、見えてるッスよ! このまま行ってください!!』


 バイパス上で焼け爛れた姿を晒している車の残骸を縫うようにして、眼下を三台の消防車が突っ走っている。回転灯の赤い光が濃い煙の向こうに見え隠れしている。


 こちらは失速ギリギリの速度で飛んでいるのに、あちらは置いてかれないように必死の追走だ。

 障害物の多さと入り組んだ街路が、本来ならステラに十分追いつけるはずの速度をひどく制限していた。


 みしり、と機体が嫌な音を立てる。

 下方向からの強烈な突き上げに、主翼が分解寸前まで大きくたわんでいるのが見なくても判った。


 水平儀が嵐に遭った難破船のように左右に振れ、昇降計の中の機体マークが機首上げ方向に跳ね上がる。慌てて操縦桿を押し込み、翼から剥がれ落ちそうになった揚力を何とか繋ぎ止める。


 濃い煙の間を通過したのはほんの数瞬であったはずだ。しかし夏海には、それが五分も一〇分も長く続いたように思えた。


 もやを透かして、眼下に地上の風景が広がる。


 ───いない!?


 今の今まで自分を追走していた回転灯の光が、どこにも見えなくなっていた。


「ステラより地上班、今どこにいますか!?」

『スンマセン、狭い街路に入って空が見えなくなった拍子に、そちらを見失ったッス……頭の上で音は聞こえるんスけど……!!』


 悔しげな声がレシーバーに響く。

 無理もない。煙で視界が悪化した中で、飛んでいる飛行機を目視で確認しながら追いかけていくのだ。少しの間でも目を離せば、途端にこちらを見失ってしまうだろう。


 こういうときにヘリコプターは便利だな、と思う。ヘリならその場で静止して、じっくりと探すことが出来る。


 でも、ステラは飛行機なのだった。空中では停まることも、バックすることも出来ない。

 このままもう一度周回して、再度のチャンスに賭けるしかなかった。


「もう一周してきます! 上空をこちらが通過したのが見えたら、そのままついてきて!!」


 夏海は翼を翻して、ゆるやかな旋回コースに乗せた。

 事故現場の上空を、さっきよりもずっと低空で通過する。タンクローリーの周囲に多くの人々が群がっているのが見える。


 ようやくタンクローリーから液体が漏れていることに気付いたらしい。何とかして漏洩を止めようと、周辺の住民も巻き込みながら頑張っているようだった。

 横倒しになったタンクローリーと地面の間に潜り込んで、バルブを閉めようと手を伸ばしている人がいる。流れた液体を吸い込ませようというのか、スコップを振るって側溝に土を投げ込んでいる人もいる。


 上空を飛び去っていくステラを認めて、幾人もの人々が両手を大きく振っている。

 必死に助けを求める、顔、顔、顔。


「ごめん、もう少しだけ待ってて……!」


 夏海は下唇を噛んで、人々の姿を後方へ見送った。

 次は絶対に失敗しない。地上班がこちらを見失ったのは、こちらの速度が濃い煙のゾーンを通過する中で自然と上がっていたせいだ。


 次はもっと遅く、地上の人たちと手を握り合うことが出来るくらいゆっくりと!

 

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