4-7


 天井のスピーカーが小さく雑音を発した。


『こちら管制室。現場上空のステラ11から、事故現場付近の状況について緊急の報告が入っています!』


 三人は顔を見合わせた。

 山岸は壁に小走りで駆け寄ると、内線の通話スイッチを押し込む。


「こちら防災指揮所、山岸だ。緊急報告だって?」

『はい。現場の南側でタンクローリーを巻き込んだ別の事故が発生し、積載していた何らかの液体が漏れだしている可能性がある、と』

「何だって───!?」


 山岸の顔から一気に血の気が引く。

 現場付近は北側へゆるやかに斜面を落としていて、バイパスはその裾野を東西に走っている。液体は斜面を伝い、バイパスの方向へ流れ出していると考えるのが自然だろう。


 もしも漏れ出した液体が可燃物だった場合、現場に流れ込んだ液体が沈静化しつつあった火災に再び勢いを取り戻させる可能性が高い。最悪、延焼が周辺地域へと一気に拡大して、取り返しのつかない大火災に陥ることも十分考えられた。


 山岸の想像を超えたところで、事態は一刻を争う状況へと変貌を遂げていた。

 つい今の今まで、このまま何事もなく鎮火するかもと安易に考えていた自分の甘い認識に唾を吐きかけたくなってくる。


 防災ヘリの出動命令はまだ出ていなかった。こうなれば本庁を無視してでも現場に飛んだ方がいいかもしれない。

 おそらく現場の消防隊は独自に対応を考え、すでに事態の収拾に向けて動き出しているだろうが、手は多い方がいいだろう。


 畜生、定年まで無事に勤め上げられるかと思ってたのに、これで俺も早期退職組か──。

 そこまで考えて、山岸はハッと気付いた。


「現場の消防隊は。消防隊はもう対応してるのか!?」

『それが……』


 管制官は一瞬口籠もる。


『たぶん、消防隊は動けないかと……』

「何で!?」

『そのタンクローリーがどこにいるのか、全く判らないからです』

「あ」


 その時、背後で冬次郎が小さく声を上げた。


「そうかそうか、そらそうだわな。判るわきゃねえやな」

「天羽さん、どういうことだ」

「こいつを見りゃ一発で判る。陸生、その棚の上の段、右から三番目のを一枚持ってこい」


 冬次郎は指揮卓に近付きながら、顎で壁際の棚を示した。

 そこから一本の紙の筒を引き抜いた陸生は、それを指揮卓の上に広げる。


「……航空図チャート?」

「こいつは夏海が今持ってるのと同じ航空図だ。ここを見てくれ」


 冬次郎が指差している地点は、今まさに火災が起こっているバイパス付近だった。オイルが染みこんだ罅割れだらけの指先を見ているうちに、山岸はその事実に思い当たる。


「そうか……航空図ゆえか……!」


 冬次郎が指差すその地域は、網がかけられたように黒い斜線で示されている。バイパスの位置こそ正確だが、その他は大まかな形状しか示されてはいない。細かい街路など判るはずもなかった。


「航空図は、現在の飛行位置を地上の風景で判断するためのもの───つまり地文じもん航法のために、上空から見下ろした目標物を大体の形で示したもんだ。街なんかこの通り、大まかに密集地を記しているだけで細けえ道や町名なんか判るはずがねえ。この辺の地理に明るくねえ夏海が航空図一枚きりで正確な場所を伝えることなんか、最初はなから出来るわきゃねえんだ」


 しかも、現地は濃い煙で上空の見通しがきわめて悪くなっている。

 飛んでいる機体を地上から見つけることも困難なはずで、その飛行の様子から大体の位置を把握することも難しいだろう。


「俺たちの防災ヘリには、航空図に加えて街路図も積み込んでるからな。街路図を使って地上の消防隊を誘導することも出来るが、航空図しか持ってない夏海ちゃんには地名が判らない以上、場所を正しく伝えることが出来ないって訳か……くそっ」


 山岸は舌打ちして電話に飛びついた。

 内線で防災航空隊の格納庫を呼び出し、出てきた隊員に大声を張り上げる。


「山岸だ! エンジン回しておけ、今すぐ出るぞ───なに? 命令なんて知るか。いつ来るかも判らんものを、のんびり指咥えて待ってろってのか!!」

「あの───」


 勢い込む山岸の背後から、美春が静かに声をかけた。


「もう少しだけ待って頂けませんか? 私の予想が正しいなら、もう少ししたら妹の方から連絡があるはずなので」

「───何? それはどういう……」

『えーと、こちら管制室です……』


 再び天井のスピーカーから声が流れる。

 夏海のサポートのため管制室に行ったまま、そこに居座ることになってしまった秋穂だった。


『そこにお爺ちゃん、います?』

「おう、いるぞ。何だ?」


 内線に吹き込む冬次郎に、秋穂は困惑をにじませながら言う。


『夏ねえがお爺ちゃん呼び出してるの。何かすっごく慌ててて、とにかくお爺ちゃんを出せの一点張り』


 冬次郎は傍らに立つ美春を見た。

 祖父の視線に気付いて、美春が微笑を浮かべる。


「この期に及んで一体何の用だ、あのじゃじゃ馬……ワシだ、この糞忙しいのに何の用だ?」


 回線が切り替えられ、防災指揮所とステラが繋がる。

 スピーカーの向こうから聞こえてきた雑音混じりの夏海の声は、ひどく興奮していた。


『お爺ちゃん!? ステラで案内するからどこまで落としても飛べるか教えてもらってからすぐに消防車に伝えて欲し……』

「待て、待て待て夏海、ちょっと落ち着け何言ってんのかさっぱり判らん! 深呼吸!!」


 そう怒鳴って通話を切る。

 ゆっくり五つ数えてから、冬次郎は再び通話ボタンを押した。


「……落ち着いたか? お前、今どこにいる。まだタンクローリーの上空か?」

『そう、すぐ下に横倒しになってるタンクローリーが見える。上を旋回してるんだけど、場所を教えてもうまく地上の消防隊に伝わらなくて……!』

「だろうな。今のお前にゃ、現地まで地上の連中を引っ張っていく手段がねえよ」

『上から見たら、バイパスの火災はほとんど収まってる。飛んでるステラさえ見つけてくれたら、その真下がタンクローリーの事故現場だって伝えることが出来るんだけど……』


 夏海の言葉に、冬次郎はあの辺りの風景を脳裏に浮かべる。

 そして、すぐに首を振った。


「上から見りゃ判んだろ、その辺りの道はグッチャグチャに入り組んでて迷路みたいになってる。家の軒に隠れて見通しは利かねえし、火災の煙で上空の視程も悪くなってるはずだ。よっぽど低空を飛ばねえ限り、地上から機体を見つけることは出来ねえよ」

『そこで聞きたいんだけど……』


 一拍おいて、夏海は続ける。


『ステラの最低飛行速度───つまり失速速度を、正確な数字で教えて』

「ふん、何か思いつきやがったな……」


 スピーカーからの言葉に、冬次郎は笑みを浮かべる。


「お前も今までさんざん試してきたんだろ。どう見た?」

『飛行速度が対気速度計の目盛りで毎時四五キロメートルを下回った辺りから、急に機体が沈み込むのを感じたから、失速速度はこの辺りだと思う……かな?』

「大体正解だ。そいつの失速速度は毎時四〇キロメートル。勿論、こいつは最良の条件下で出した結果って奴だがな……何を思いつきやがった?」


 冬次郎の問いかけに、静かな決意が返ってくる。


『あたしが低空を飛んで、現場まで消防車を案内する』

「待て、待ってくれ夏海ちゃん!」


 横から山岸が割り込んだ。


「君にそこまでしてもらう必要はない。君がその機体に乗って、まだ半年も経ってないだろう? まだ機体に慣れてもないのにそんな無茶が出来ると思ってるのか!?」

『でも……』

「その機体の限界もまだ掴んでないのに危険すぎる。君だって飛んでるうちに判ったろう、大きな火災現場の上空は気流が乱れていて安定した飛行をするのも難しいんだ。今からすぐに防災ヘリで飛んでいくから、君はそこで大人しく待ってるんだ」

『たぶん、それだと間に合わないかも』


 だが、夏海から返ってきたのは否定の言葉だった。


『タンクローリーから何か油みたいなのがいっぱい漏れてて、それが側溝を伝ってバイパスの近くまで流れてきちゃってます。あと少しで火災が起きてるところまで流れ着いちゃうんじゃないかなあ。今すぐにでもあれを止めないと、もしかしたら大変なことになっちゃうかも知れません』


 無線の向こうから聞こえてくる夏海の声は、どこまでも平静だった。

 その声音に苛立ちを隠さぬまま、山岸は背後に立つ三人に振り返る。


「あんたらも何か言ってやってくれ。このままじゃあの子、危険な飛行に頭から突っ込んで行っちまうぞ。何とか俺が行くまで踏み止まらせるんだ」


 山岸が脇に避けて促しても、天羽家の二人はそれぞれ考え込んだまま進み出ようとしない。

 何でこの期に及んで声をかけようとしないのか。お前らそれでも家族なのか。

 一方でただ一人、陸生は思い詰めたような表情でじっと無線を見つめている。


「陸生くん……だったか? 君は何か無いのか」


 その目の輝きに期待して、山岸は促す。

 なおも無線機を見つめ続けていた陸生だったが、やがてゆっくりと無線の前に立った。


「……夏海?」

『あれ? 陸生、あんたもう仕事終わったでしょ。まだ帰ってなかったの』

「帰ろうと思ってたんだけどさ、この騒ぎでタイミング失った。横でずっと聞いてたよ。お前さ、それがどれだけ危険なことなのか、判った上で言ってるんだよな?」


 一拍置いて、陸生は続ける。


「俺はまだ整備士の卵で、冬ジイの下で働いてるだけの素人だけどさ。夏海がやろうとしてるのがどんだけ危険なことなのか、くらいは判るよ。夏海、今すげえ危ない事をやろうとしてるんだぞ。それ、ちゃんと判ってるか?」


 夏海の答えは、単純明快だった。


『そんなの判んないっての』

「なっ……!!」


 山岸は絶句する。二の句が継げぬとはこの事だった。

 口をぱくぱくさせる山岸の頭上から、夏海の明るい声が響く。


『でもさ、何だろうなあ……上手く言えないけど、何となく今この場で頑張らなきゃ、あたしがやろうとしてること全部が嘘になっちゃう気がする。確かに、あたしはこないだステラに乗ったばっかのペーペーだけど、あたしの目の前で起こってることなのに、あたしにも出来ることがあるのに、それを見なかった振りして帰っちゃうのは絶対に違うと思う……そう』


 はっきりとした声音で、夏海は言った。


『〝甲斐賊〟の一員として、見過ごすわけにはいかない』


 防災指揮所にいる全ての人間が、夏海の言葉に耳を傾けていた。

 背後にエンジンの爆音を拾った、雑音混じりの声。しかし、その言葉の内容に一点の曇りもない。


 やがて、美春がゆっくりと山岸に向き直った。


「私は、あの子を応援します」

「美春ちゃん……」

「お願いします、隊長さん。あの子にやらせてあげて下さい。多分あの子にとって、ここで踏ん張ることが将来凄く重要になってくると思うから」

「それが無謀ではないと、どうして言える?」


 山岸の問いかけに、美春はにっこりと笑顔を浮かべた。

 全てを信じきった彼女の笑顔は、例えようもなく美しく輝いて見えた。


「無謀である訳がありません。だって、これまでずっと見守ってきた私の妹が、私の父の機体で飛んでいるんですから」

「……天羽さんはどうだ? 孫を危険な目に遭わせていいってのか」


 冬次郎は、傷だらけの顔をにやり、と歪める。

 甲斐賊の元祖たる老整備士の言葉は、まるでそれが規定の答えのようだった。


「余計な心配せず、孫のやることを大人しく見守るのもジジイの義務だと思うぜ?」

「…………」


 こいつら、どうかしている。自ら進んで危険に飛び込んでいくばかりか、それを諫めようともしないとは。


 現在、バイパス北側で消火している消防隊の中には、自動車事故による火災ということで油脂災害に対応した装備を持つ車輌が必ずいるはずだ。そいつをバイパス南側のタンクローリー事故現場まで誘導して、漏れだした液体の処理を行わせる。

 言葉にすると簡単だ。


 しかし事故現場に向かうには、今なおくすぶり続けているバイパスの火災現場を突き抜け、そして煙によって視界が極度に悪化した中、入り組んだ裏道を辿って行かねばならないのだ。

 そのためには上空からの誘導が不可欠で、しかもそれは低速かつ低空からの飛行でなければならない。そうでないと道案内する機に消防隊はついて行くことができないし、一方で空からも地上の消防隊を視認することが出来ないからだ。


 激しい上昇気流が起こっているであろう大火事のすぐ真上を低速で飛び越し、低視界の中で確実に事故現場まで地上の部隊を誘導する。それは間違いなく難易度の高い飛行だった。

 突発的で強烈な上昇気流は、安定して飛行していた機体を完膚無きまでに叩きのめす。一瞬にして機体はバランスを失い、機首は明後日の方向に顔を向け、翼からは揚力を引き剥がす。

 そして、そこから機体を立て直している余裕はほとんど無い。低空飛行という条件が、時間的余裕を極度に圧迫する。

 待っているのは、放り投げた石のように墜落することだけだ。


 この道で二〇年ばかり生きてきた自分だって一瞬躊躇してしまう程のことなのに、こいつらときたら昨日今日飛び始めたばかりのヒヨッコを、しかも実の家族を放り込もうとしているのだ。これを阿呆と言わずして何と言うんだ?


 ───まさか危険に気付いてないって訳じゃないよな。


 だとするなら、ここは何としても止めなければならない。

 最初に手伝いを頼んだのはこちらとはいえ、それに生命の重さまでは勘定に入っていないのだ。


 山岸は、あらためて天羽家の二人に向き直った。


 冬次郎は指揮卓の上に広げられた現場付近の地図を見ている。バイパス南側の街路に指を走らせているのは、タンクローリーがどういう経路で走っていったのかを推定しているのか。

 その視線は切れそうな程に厳しかった。


 美春は、真っ直ぐにこちらを見返していた。いつも通りの柔和な表情。しかしその瞳には強い意志の輝きが瞬いている。

 両手は前に組まれ、きつく握り込んだ右手の手首を左手でしっかりと掴んでいた。


 唐突に、山岸は気付いた。

 美春の手がよく見なければ判らない位、ほんの微かに震えていたから。


 こいつら、これがどれだけ危険なことか判ってやがる。その上で、あの子が無事に成し遂げることを信じてやがる。

 この飛行で、あの子が僅かでも成長することを心から期待してやがる。

 これが、家族ってやつなのか。


「あーもう! 判った、わかったよ。やらせりゃいいんだろやらせりゃ!!」


 山岸は匙を投げた。匙を投げたように振る舞ってみせた。

 防災航空隊の仕事にうつつを抜かし、まともに家にも帰らない中で妻に逃げられた男は、天羽家の人々の姿に少しばかり嫉妬していたのだ。


「いいか夏海ちゃん。今から現場の消防隊に問い合わせて、タンクローリーの元に向かえる奴を選ぶ。君はそいつをきっちりと事故現場まで連れて行くんだ」


 一息に言った。

 驚く夏海が返答するより前に、言葉を継ぐ。


「判ってると思うが、君の機体を目印として消防隊は事故現場に向かうことになる。だから今回の飛行は濃い煙の中でも地上から機体が確認できるように、低空を、しかも失速ギリギリの速度で飛ぶことになるだろう。相当振られることになるから、十分に気をつけていくんだ」

『は、はいっ! 了解です!!』


 背後で三人が笑っている。

 それが悔しくて、山岸はひとつ付け加えることを忘れなかった。


「無事に帰ってきたら、尻を思いっきりひっぱたいてやるからな。覚悟しておけ!」

『やだ、隊長さん。それってセクハラー!』

「やかましい! こっちの言うことをまともに聞かない馬鹿なガキへの教育的指導だ、文句あっか!!」


 無線を叩き切ってやった。

 冬次郎が低く笑いながら、こちらをねめつける。


「ククク……てめえ、家族がいる前で良い度胸してやがんな。あいつのケツに手ェ出しやがったらただじゃおかねえぞ?」

「まだ尾っぽも生えてるようなガキの尻なんぞ興味ないよ、天羽さん。腹が立つから言ってやっただけさ」

「いいのか公務員、こんなヤクザな連中の口車に乗って。何かあったらクビじゃ済まねえぞ」

「そうだよ、それこそ退職金も怪しくなるぞ。どうしてくれんだ、ったく……」


 頭をガリガリと掻きながら舌打ちする。

 やがて、溜息をつきながら手を下ろした山岸は、小さく笑った。


「……まあ、な。確かに俺は、ありがたくも税金で食わせて貰ってる公僕だがね」


 まるで自嘲するように浮かんだ、その微笑み。

 それは、まるで木の洞に隠した蝉の脱け殻を女の子に見せるような、そんな年甲斐もなく悪ガキの笑顔だった。


「この玉幡でのたくってる飛行士である以上、俺も甲斐賊の一員なのさ」

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