4-6

「あ────も────」


 火災現場を遠巻きに眺めるように、ステラはのんびりとした羽音を立てて飛んでいる。

 その機内で操縦桿を握りながら、夏海はさっきからぶつくさ独り言を続けていた。


「つまらん…………」


 忙しいのは最初だけだった。

 現場に到着した地上の消防隊に向けて、上空から火災の様子を伝えると後はほとんどやることが無くなった。


 素人の夏海よりも遙かに火事場の経験が深い消防士達は、特に上からの報告を必要とすることなく、火災の勢いに合わせて適切に部隊を振り分けて消火活動を始めていた。言われたとおり一〇分おきに状況を報告していたけれど、最初は「了解」とそっけない返答がかえってくるばかり。


 ついには、

『報告はそれくらいでいいんで、後はゆっくり上から見物してて下さいッス』

 と言われる始末だった。


 それなら道に迷った消防車の誘導をしようと、目を皿にして地上を見渡してみても、そういった消防車は影も形も見当たらない。消防官たちは普段から火災警戒も兼ねて街を歩き回っていて、いざという時に備えて街路を隅々まで知り尽くしていたのだ。


 一度、火災現場とは反対方向に動いていた消防車を見つけて上空から呼び出してみたけれど、それは遠く離れたところにある防火水槽から運ばれてくる水を中継するポンプ車だった。恥ずかしながら、遠方から水を引いてくるときには途中でポンプ車に中継させることを、夏海はこの時初めて知った。


 というわけで、勇んで上空支援の任務を始めたはいいけれど、今の夏海は絶賛ヒマヒマ中なのである。


「仕事なのに、こんなことでいいのかなあ……もっとこう、火がどば──っとか、ぶしゃ──っとかあって、そこにあたしが颯爽と現れて解決する、みたいな展開はないの?」


 縁起でもないことを口走って、夏海はふくれっ面を浮かべる。もはやイメージとしては甲府盆地全体が火の海と化すレベルの妄想であった。


 思えば、防災航空隊の山岸隊長はこの任務を指して「それほど大変でもない」と言っていた。普段からこんなに手持ち無沙汰な仕事だとは夏海でも思わない。

 おそらく、火事場素人の自分が担当することをおもんばかって、特に簡単な仕事を回すよう消防隊に伝えたんだろう。

 おかげで火事場をはじめて飛んでいるにもかかわらず、その上空で十分に余裕を持って飛ばすことが出来ている。


 でも、あんなに緊張して臨んだ仕事だったのに、いざ事にあたってみるとこんなにやることがないとは拍子抜けにも程があるってものだった。

 もう少し骨のある仕事の方が、自分としちゃ張り合いが出てくるんだけど。

 有り余る気力体力を発散する機会を失って、体育会系少女・夏海はそんなことを思っている。素人の癖に何を偉そうに言っているのか、という話だった。


 それでも、飛行についてだけは注意しなければならない。


「───おっと」


 機体全体がガタガタと揺れ、しっかりと操縦桿を持ち直す。

 たまに機体が振られるのは、火災現場周辺の乱流のせいだ。バイパス上で盛大に焚き火をしているため、強い上昇気流で気圧が変化しているのである。


 おかげで、気圧高度計がまともに働いてくれない。さっきから針は高度七〇〇mと八〇〇mの間をぶるぶると行き来していた。

 高度計が役に立たない以上、夏海は自分の目で地上との間隔を見て、大体の高度を把握するしかない。

 この辺りの標高は三〇〇mあるから、差し引き対地高度五〇〇mを維持できるように夏海は機体を操っている。あまり現場に近付くと上昇気流で機体の安定が保てなくなるので、ステラは現場から十分な距離を取って飛行していた。


 ぶわっ、と視界が濃い煙に包まれる。


「うわー、やっぱ何にも見えなくなるなあ……」


 甲府盆地の南側に連なる御坂山地の山影が、うっすらと見える程度である。

 笹子峠から吹き下ろしてくる東風によって、火災の煙は主に現場の真東から南西側にかけて流れていた。


 バイパスから御坂山地までは距離が離れているために、煙の中を飛んでも山肌にぶつかる危険は無い。しかし煙の中を突っ切って飛んでいるときは、地上の風景が全く見えなくなってしまう。


「ケホッ……帰ったらパイロットスーツを洗濯しなきゃなあ。臭いがついちゃいそう」


 機内に吹き込んでくるオイルと金属が焼ける臭いに咳き込みながら、夏海はあらためて眼下を見る。


 さっきまでは煙を通してバイパス上の一面に炎がちろちろと見えていたが、今はその面積を半分程に減らしていた。どうやら順調に消火活動が進んでいるらしく、徐々に火災が収まりつつあるのだ。


 玉幡と無線を交わしたところによると、今回のバイパス火災では甲斐救難航空団の出動も考えられていたらしい。

 大規模災害の発生時に編成される救難航空団の出動が検討されるということは、すなわちバイパス火災が手の施しようがないほど拡大する可能性もあったことを意味している。


 おそらく、バイパスの火災が周辺の建物に延焼して燃え広がったところを、空中消火装備を積んだ救難航空団によって一気に空から消し止めることを想定していたんだろう。

 まだ幼かったとき、奥秩父で発生した大きな山火事に救難航空団が出動したのを、今でもうっすら覚えていた。


「でもまあ、これなら救難航空団が出てくるようなことにはならなそうね。ひとまずは安心だけ……ど……?」


 なんだろう。

 何か、変なものが煙の向こうにちらりと見えた、気がする。


 夏海は気配を感じた方向に翼を翻した。

 古い建物と畑が混在するど真ん中を貫いて、バイパスは東西に延びている。その気配はバイパスの南側、少し離れた集落の中から感じた。


 煙に覆われた空域を突き抜け、地上の風景がはっきりと目視できるようになったとき、突然夏海の目にそれは飛び込んできた。


「ありゃ、こっちでも事故?」


 最初に見えたのは、車体前部がグシャグシャになったRV車だった。扉が開けっ放しということは、乗っていた人は無事なんだろう。


 次の瞬間、


「うわ…………ッ!」


 タンクローリーが横倒しになっている。

 どうやらRV車とぶつかってしまったらしい。こちらから見える面を大きく壊したタンクローリーは、車体後部を脇の畑に落とし、土を深々と掘り返して横転していた。


 タンクローリーの脇には、二人の人影が見えた。若い兄ちゃんと頭のてっぺんが禿げたおじさん。どちらかがRV車のドライバーで、もう一方がタンクローリーの運転手だろうか。


 どうも揉めているらしい。おじさんの方は両手を振り上げ、大げさな仕草で兄ちゃんと向かい合っている。

 おじさんの禿げた頭に完全に血が昇っているのが、上空からでもはっきりと判った。


「ありゃりゃ。まあ喧嘩するくらいには元気ってことか」


 どちらが悪かったにせよ、言い合いだけで済めばいいんだけどな、と思う。せっかく事故に遭っても大きな怪我せずに済んだのに、その後の喧嘩で青タンでもこさえたら目も当てられない。


 おじさん達の姿はすぐに建物の陰に隠れて見えなくなった。夏海は視線を前方に向けようとして、


「────?」


 視界の隅にふとしたものを感じて、再び地上を凝視する。何かが太陽の光を反射して、きらりと輝いた気がしたのだ。


 それは道路と畑を分けるように走る側溝だった。

 結構な勢いで水が流れている。


 夏海は奇妙に思った。ここ数日、甲府盆地で雨は一滴も降っていない。

 乾ききって白く見える側溝は集落の中を網の目のように走っていて、そこを黒い染みが徐々に広がり続けている。眼下の風景の中を、細かい罅割れが少しずつ走っていくかのようだ。


 全体としては放射状に広がっていくようにも見えるが、明らかに北方向への勢いが強い。そして、集落の北には今まさに煙を噴き上げるバイパスの火災現場があった。


 夏海はハッとして、改めてタンクローリーの方角を見る。

 そして、その事実に気付いた。


 黒い液体の広がりは、転倒したタンクローリーの辺りから始まっていた。

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