エピローグ
櫛形山
────深夜。
上空を見通せぬほど深い森の中の林道を、一台の自動車が走っている。
街灯など一本も無く、暗闇を照らし出すのはヘッドライトのまばゆい輝きだけ。
夜の森で求愛の歌を合唱していた虫たちは、彼らなりの和音を乱す盛大なエンジン音にしばし口をつぐんで、目の前を疾走していく光を静かに見送っている。
外観こそ古めかしいが、塗装は新車のように光沢を放ち、走りも快調そのものだ。持ち主の手が加えられたエンジンは外観に見合わぬ咆哮をあげ、徹底的に調整された足回りがそのパワーを存分に路面へと伝えている。
林道を登り詰めた先は、三方に開けた広場になっていた。
眼下には甲府盆地のきらびやかな夜景が広がり、それを鏡で映し取ったように頭上には満天の星空が広がっている。
砂利を鳴らしながら軽自動車が停まった。
ヘッドライトを落としエンジンを切ると、聞こえてくるのは吹き抜ける風の音だけだ。
降りてきたのは一人の老人だった。
年齢を感じさせぬ軽い身のこなしで広場に降り立つと、胸のポケットから煙草を取り出し、軍用の大きなジッポーで火を付ける。
夜空に向かって紫煙を吹く。夜景の光にぼんやりと浮かび上がった煙草の煙は、複雑な渦を巻きながら星空に向かって消えていった。
老人は軽自動車の窓から上半身を潜り込ませ、センターコンソールに引っかけられていた無線のハンドマイクを取り出した。
ドアにもたれかかりながら背後の山並みを一瞥すると、老人はマイクの送信ボタンを押し込んだ。
「……おう、北岳の。起きてるか?」
天羽冬次郎はそれだけをマイクに吹き込むと、送信ボタンを放した。
せせらぎのような軽い空電の音が、車内のスピーカーから聞こえてくる。
以前はこの時間によく無線で話し込んだもんだ。あの時の習慣がまだ残っているなら、奴も無線の周波数を合わせてこっちの呼びかけを待っているはず。
冬次郎はじっと返答を待ち続ける。
やがて、電波の向こうから聞こえてきたのは皮肉気に歪んだ
『……誰かと思ったら、冬の字か。お前、まーだくたばってなかったのかよ』
「ぬかせ。オメェもワシとそう変わんねえトシだろ……こうやって話すのは十年ぶりくらいか、
『もうそんなになるか。早いもんだな、
かつて予科練から特攻隊員となり、愛機の故障で九死に一生を得た男───稲葉勇治は、そう言って低く笑う。
「オメェ、いつまでそんな山のてっぺんで仙人決め込んでやがんだ。いい加減、麓に腰を落ち着けようとは思わねえのか?」
『アホウ、俺が山に登るのは五月から十月の半年だけで、麓にはちゃあんと息子夫婦が住んでらあ。それに俺だって元は甲斐賊だったんだ、死ぬなら空に近いとこがいいんだよ。息子にもそう伝えてあるし、俺が骨を埋めるのはこの山の上しか無え』
「ケッ、たかが低空飛行でもガタついてたヒヨッコが、とんだ頑固ジジイになったもんだ」
在りし日の稲葉の姿を思い出しながら、冬次郎は言う。
戦争末期の速成教育で搭乗員となった稲葉の操縦の腕は、お世辞にも上手いものではなかった。甲斐賊となった当初は離着陸すらおぼつかず、その様子を見ていた冬次郎は何度も肝を冷やしたものだ。
だが、甲斐賊として連日の食糧輸送をこなす内に、稲葉の操縦の腕は日を追って上達していった。
やがて彼は一人前の甲斐賊として押しも押されぬ存在となり、玉幡でも指折りのパイロットとなっていったのである。
大空に死線しか見出せなかった男にとって、それは間違いなく栄光の日々だったに違いない。
ずっと以前に飛行士稼業から足を洗った稲葉だったが、なおも空にこだわって高い山の上に居を構えた気分は、冬次郎にも痛いほどよく判った。
『……そういや聞いたぜ。こないだのバイパス火災で、お前んとこの孫が根性見せたそうじゃねえか。山岳訓練に来た消防のガキどもが興奮して話してやがった』
「つまんねえことを言いふらすなって、次来たら言っとけ。ったく……」
『半月前に、ウチの回収へ寄越したのと同じ奴だってのはすぐに判ったよ。よりにもよってド素人を寄越すかってムカついたもんだが……お前の差し金か?』
稲葉の問いかけに、冬次郎はニヤリと笑う。
「ありゃ上の孫が考えたこった。ワシは何もしてねえよ」
『美春か、あいつも元気にしてやがんのか』
「ワシらなんかよりゃずっとピンピンしてやがらあ。こないだ玉幡に自分の会社を作ったばかりでよ、今頃は事務所で今日の業務日誌を書いてるだろうぜ」
『ああ、あのステラなんたらってのは美春の会社なのか。道理でヤクザな甲斐賊どもにゃ似つかわしくねえ社名だと思ってたんだ』
確かに、玉幡で社屋を構えている会社には横文字の会社が無い。
大抵は代表者の名字に〝運送〟だの〝空輸〟だのといった文字をくっつけたお堅い社名がほとんどだった。
仕方ねえだろ、「そんな軽薄な名前にしねえで、もっと
顔に見合わず頑固なところがある孫娘とのやり取りを思い出しながら、冬次郎は溜息をついた。
「まあ名前のことはいいじゃねえか。それで、どうだったんでえ。ウチの夏海は?」
『……驚いたぜ』
無線の向こうから届いた声は、やけに実感のこもった重さがあった。
『気流が乱れる春山の、しかも急峻で大気が安定しない南アルプスでの無着陸回収を、たったの二回で成功させやがった。この時期にはどんな手練れでも、最低三回は失敗するもんだがな』
「フン。芳朗の最初の時はどうだった?」
もう二十年以上も前のことである。その時のことを思い出そうとしているのか、しばらく空電の音だけが聞こえてくる。
突然、スピーカーから
『そうだそうだ、六回だ。七回目で〝今日は気流が悪い〟つって帰っていったよ』
「そうか、あんの馬鹿息子が……」
確かあの時は「行ってみたけど、荷物なんて何処にも無かったよ」と答えたはずだ。
───あの野郎、自分が失敗したこと隠してやがったな……。
国内最高のパイロットと呼ばれた芳朗にも、自分の不甲斐なさを黙っておきたくなる初心者時代があったという事だ。
今は亡き息子の顔を思い浮かべながら、あいつがまだ生きていたら今日の娘の成功をどう言ってのけるだろう、と考える。
きっと口先ではおめでとうとか何とか言いながら、内心では悔しく思うに違いねえ。あいつには、そういう負けず嫌いなところがあったからな。
『……なあ、冬の字よ』
お互いに顔の見えぬ通信であるにも関わらず、その時の稲葉の声にはまるで正面から真っ直ぐに見返してくるような響きがあった。
『お前、あの小娘に息子の跡を追わせようとか考えてんのか? こないだウチの仕事に来させたのは、芳朗が得意にしてた仕事を実際にやらせてみることで、孫の腕前を確かめてやろうと考えたんじゃねえのか』
冬次郎は笑った。やけに買い被られたもんだ、と思う。
夜空を横切る天の川の流れを見上げながら、冬次郎はマイクの送信スイッチを押し込んだ。
「このワシが、んな面倒くせえ事するかよ。ガキは勝手に
『だったら……』
「だがな。手前ェの歩きてえ道ってやつを見つけたんなら、すっ転ばねえように足元くれえは照らしてやりてえ」
じっと見上げていた視線を、再び眼下に向けた。
四方を山脈に囲まれた甲府盆地の夜景は、まるで底の深い器に光の渦を集めたように、一時も休むことなく動き続けている。
彼方を流れる光の川は、中央自動車道を行く車の流れだ。
それに平行して走っていく等間隔に並んだ光点は、中央本線の夜行列車だろうか。
虹色に輝くネオンの光、冷たく無機質な街灯の光、心を温かくさせる家庭の光……無数の人々の想いを乗せて、光は盆地いっぱいに満ちあふれていた。
空の星々よりも遙かにきらびやかに、人々の営みは輝いている。
流星のような閃光を残しながら、人々が紡いだ歴史は次代へと受け継がれていく。
「この先、ワシだっていつまで満足に動けるか判らねえんだ。家族らしいことを何一つやらねえまま、お天道様を見上げてばっかの人生だったが、そう歩いてきた以上は最後まで貫き通してえ。そんなゴロツキジジイでも孫が助けて欲しいってんなら、まだ身体が動く間くれえは手伝ってやるさ」
人生の全てを大空に捧げ続けてきた男は、その晩年に迎えた最後の大仕事を前に、満面の笑みを浮かべて言った。
「それが、甲斐賊の心意気ってえもんだろう?」
*
夏海は、夢を見ている。
純白の大地の上空、永遠に続く蒼穹を、赤い翼を駆っていつまでも、どこまでも飛び続ける。
後ろに美春が座っている。いつも通りの、心から安心できるような柔和な笑顔を浮かべながら。
一番後ろの席に秋穂がいる。むっつりと黙っているけれど、こちらも興奮が隠し切れていない。
右の主翼の支柱に腰掛けているのは陸生だった。眼下に広がる真っ白な地面を見下ろして、反り返らんばかりに歓声を上げている。
左には冬次郎がいた。もっともっとブン回せ、こいつはその程度で壊れるくらいヤワにゃ出来てねえ、そんなことを強面で叫んでいる。
今、夏海は幸せだった。
自らが操る翼にみんなを乗せ、遙かな高みを飛び続けながら、夏海の心は他に
真横をこちらと同じ赤い機体が並んで飛んでいる。
高翼単葉、精悍というより可愛らしいといった方が良いその機体は、見紛うことなく
操縦席に座るパイロットの顔は、微妙な影が差していてよく見えない。
だが夏海には、それが父だとはっきり判っていた。
父さんが手を振っている。白い歯がくっきり見えるほどの笑顔を浮かべて。
ゆっくりと大きく唇を動かして、こちらに何事かを伝えようとしている。夏美は身を乗り出して、その動きを自分の口の中で反芻した。
マ、ツ、テ、ル、ゾ。
待ってるぞ。
ただそれだけを言い残して、父が操る三式連絡機は翼を翻した。
そのまま、遠くの空へと飛び去っていく。
夏海の目に、赤い残像を残して。
「へへ…………とうさん…………」
寝静まる天羽家の、二階自室。
ベッドの上で寝返りを打ちながら、夏海はどこまでも幸せそうな顔で、そんな寝言をぼそり、と言った。
開け放たれた窓から青草の匂いがするそよ風が吹き込んできて、カーテンを柔らかく揺らしている。
家の横に立つ
甲府盆地に夏が訪れるのは、もう間もなくだった。
《ステラエアサービス 曙光行路 完》
ステラエアサービス 有馬桓次郎 @aruma_kanjiro
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