第8話 そして船はまた走り出す (4)

 驚愕の役員人事が発表されたのは、鍋島艦長が菅原会長の部屋を訪ねた一週間後の事だった。

 退任する南野専務の後任には、橋本社長派の柳沢常務が昇格して就任した。鍋島艦長兼常務は退任、長尾取締役が常務に昇格してその後任を務める。

 そして「しきしま」の艦長は、木下副長が取締役のまま常務に上がることなく就任した。


 常務取締役ではなく平の取締役がステラ・バルカー級の艦長を務めるのは、日本宇宙輸送㈱が創立して以来初めてとなる、極めて異例の事態であった。

 三ヶ月前に行われた、長尾取締役の「しきしま」への長期出張は社内の誰もが知っていて、だからこそ当然、次の艦長は間違いなく長尾取締役だと、疑問を抱く者は誰一人いなかった。それだけに、この意外な人事には社員達の間に激震が走った。


 突然の人事変更の理由について、あれこれと様々な憶測が飛び交ったが、最も信じられたストーリーは、長尾取締役のあの長期出張が菅原会長から問題視されて激しい叱責を受け、鶴の一声で艦長の話が突然立ち消えになったというものだった。

 その結果、棚ぼた式に木下副長に艦長のポストが回ってきたが、木下副長には常務に昇格するまでの功績や能力はないと見なされ、特別に取締役での艦長になった。

 鍋島艦長は、周囲には隠していたが最初から退任する意志があったと噂された。ただ、退任の理由については全くの謎だ。


 新役員人事の発表後、鍋島「元」艦長は、木下「新」艦長に引継ぎをするため、地球上空七百kmの軌道上を周回しながら停泊中の「しきしま」に向かうロケットに搭乗した。

 鍋島艦長は到着するロケットの便名も到着時刻も「しきしま」側に一切伝えてはいなかったが、ロケットの運行会社に手を回して特別に搭乗者名簿でも見せてもらったのか、鍋島艦長が到着すると、ロケットの搭乗口付近には木下新艦長以下、新体制「しきしま」の幹部全員が並んで迎えに来ていた。


 鍋島艦長が木下新艦長に会うのは、鍋島艦長が帰還報告のため地球に出発して以来、約一ヵ月半ぶりのことだ。

 それまでは同じ艦内で暮らす最も気心の知れた同志として、奥さんよりも長い時間を共に過ごしてきた二人だったので、これだけ長期間互いに顔を見ない事はこの四年間一度も無かった。

 その奇妙な懐かしさに、思わず木下副長はこみあげる笑いが抑えられなくなり、たまらず噴き出すと不自然なほどに笑いころげた。


「わははは。木下君。俺もいま同じ事考えてたよ」

そう言って鍋島艦長も眉尻を下げて大きな声で笑った。


 六十代後半の、日本有数の大企業の役員を勤めるほどの地位にいる二人が、まるで悪ガキか恋人同士のように顔を見合わせて無邪気に笑いころげている。

 居並ぶ幹部たちは、なぜ二人が突然何も言わずに笑い出したのかも全く分からず、一体この光景をどういう顔をして眺めていればいいのか内心途方に暮れつつ、くそまじめな顔でずっと突っ立っていた。


 その後、木下新艦長はさっそく鍋島艦長から形だけの引継ぎを受け始めたが、鍋島艦長は最初から何一つ教える気はなかった。艦内の事で鍋島艦長が知っている事は、ほぼ全て木下新艦長も知っていたからである。ただ、毎晩飲みに行っただけだった。


「木下ァ。艦内は狭いからな。

 まぁ、お前がしくじるなんて俺はちっとも心配はしてねえが、あれだ。『市場と牢獄の鍵をお渡しします』ってやつだよ」


 もう連続何日目の夜だろう。木下新艦長も嫌な顔一つせず、鍋島艦長と毎晩遅くまで一緒に飲んでいた。だいたい毎回違う五六人を誘って行く事がほとんどだったが、その日はたまたま二人だけで、鍋島艦長はやけに早く酔い、そして雄弁だった。


「なんですかそれは」

「中国の偉い人の話だよ。誰だったか忘れたがな」


 引継ぎは残り四日間だった。その後「しきしま」はまた木星に向かって旅立ち、二人が再び会えるのは四年後である。


「その偉い人が大臣を辞める時、後任に『市場と牢獄の鍵をお渡しします』って言ったんだよ。で、二つの鍵を渡された後任者が、いや、それ以外にも大事なモンいくらでもあんだろ?って怪しんで聞いたらその偉い人、『市場と牢獄を厳しく取り締まりしすぎなけりゃ、後はまぁ何とかなります』って言ったらしいんだな」

「肝に銘じます」


 その瞬間、前ぶれも無く唐突に、泥酔した鍋島艦長のすわった目が一瞬でギラリと殺気を取り戻した。

「てめえ、『ノヴォシビルスク』を他人事だと思うんじゃねえぞ」


 こういう瞬間があるから油断できないし、大したもんだよなこの人は、と木下新艦長は思い、「はい。肝に銘じます」と繰り返した。


「あれは、下手を打てばウチでも簡単に起こる。日本人だから大丈夫とか絶対に思っちゃいかん。密閉されて隔離された狭い箱舟の中で一つ歯車がおかしくなると、人なんて簡単に狂う」


 鍋島艦長は、ロシア船籍のステラ・バルカー級輸送船「ノヴォシビルスク」船内で起こった、二一三九年の大規模暴動事件の事を言っていた。

「俺からお前への引継ぎなんざ、これさえ伝えればもう、いいや」


 そう言って焼酎の水割りを口に運んだ鍋島艦長の目から、殺気がすっと落ちていった。こんな穏やかな目の鍋島さん、初めて見たなと木下新艦長は思った。そして「はい。肝に銘じます」と馬鹿のようにまた繰り返した。


 そして、翌日からはまた引継ぎらしき引継ぎもないまま、鍋島艦長はただ艦内をブラブラとうろついては、すれ違う乗務員達に「おう」と声をかけたり木下艦長と雑談をしたりして過ごして、とうとう最終日となった。

 翌日が「しきしま」の出航日。四年間の木下新体制が真にスタートする日である。


 地球に帰るロケットの搭乗口まで見送りに来た「しきしま」の幹部一同と、鍋島前艦長は一人ひとり順番に握手をしていく。幹部の中には、鍋島前艦長の下で木星まで行き、次のもう一周に向かう顔見知りの者もいて、特に熱い眼差しで鍋島前艦長と固い握手を交わしていた。


 四年間、絶対に会えない事が確定している別れである。

 会社の公式の場とはいえ、この時ばかりは特別だ。


 最後に、木下艦長が握手をする番が回ってきた。

 木下艦長は事前に、これを言おうと決めていた言葉があった。

 鍋島前艦長の目を見た。


 ひとつも、出てこなかった。

 出てきたのは嗚咽だけだ。


 オウッ、オウッ、と何も言えずしゃくりつづける六十五歳の肩を、鍋島艦長は軽く抱擁すると背中をポンポンと軽く叩いた。とても優しい目をしていた。


「オウッ。なべじばさん……私は……あなたに……」

 涙と鼻水にまみれ、ぐちゃぐちゃに歪んだ汚らしい老人の顔には、もはや艦長の威厳など何も残されてはいなかったが、誰もそれを情けないとは思わなかった。


「なべじばさん……わたしはどうお礼をすればいいのか……」


 鍋島前艦長は木下艦長の肩をガッと強く掴むと、破顔一笑、満面のさわやかな笑顔で力強く言った。


「無事帰って来い。そしたらお前のおごりで飲みに行こう」


 そう言い終えたところで、鍋島前艦長も感極まって涙をこぼした。

 一度涙が出てしまうと、もう止まらなかった。

 六十五歳と六十七歳が、まるで五歳と七歳の男児のように抱き合ってわんわんと泣いた。


 四年間。それは会社にとっては単なる一区切りに過ぎないが、一人の人間にとって、それはあまりにも長い別れだ。



 十九時到着のロケットで地球に帰り着いた鍋島前艦長は、種子島国際宇宙港の到着ロビーで、乗り継ぎの東京行きの飛行機を待っていた。


「明日朝十時、日本のステラ・バルカー級水素輸送船『しきしま』が、四年間の木星への旅に出発します。軌道上の『しきしま』と中継がつながっています。『しきしま』の佐藤さーん?」


 出発ロビーのベンチ脇に備え付けられたテレビでは、夜のニュースが翌日の「しきしま」の出発を報じていた。鍋島艦長はそれを、冬の夜に、温かい明かりが灯る自宅を寒い家の外からじっと眺めているような、どこか寂しい不思議な気分でぼんやりと眺めていた。

 窓から夜空を見上げると、まだ太陽帆は一割も開いていないながらも、「しきしま」の姿は大きな光る点となって、はっきりと見えている。


 さらば、我が家よ。


 中の人は入れ替わっても、「しきしま」は変わらずに地球と木星の間をこれからも回り続ける。

 中の人たちが少しずつ、少しずつ改良を積み重ねて、壊れた部分は補修をしながら、何事も無かったようにまた走り出すのだ。


(おわり)

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輸送船「しきしま」【第11回小説現代長編新人賞 二次選考通過作品】 白蔵 盈太(Nirone) @Via_Nirone7

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