第4話 艦長決裁・部長決裁 (4)
二百五十億円をたったの八分二十二秒で使い切る決裁申請書に鍋島艦長が印を押し、ロケットの一斉逆噴射に向けた全ての事務手続きが完了した。これを受けて総務部は共生会に逆噴射の通達を正式に行うと共に、テレビ・ラジオ・ネット媒体・艦内放送等で一斉に「噴射警報」の告知が始まる。
ロケットの一斉噴射の際に「しきしま」の内部では震度二~三の地震程度の小さな揺れが発生する。もちろん艦内の全ての構造物は建築基準法に基づき、ロケット噴射に伴う一定の振動には十分耐えられる設計となっているが、食器棚から茶碗が落ちるといった程度の被害については住民たち各自の自己責任となる。
ロケット一斉噴射の日の学校は休校となるなど、住民の生活への影響もあるため、できるだけ早い段階に実施日を確定させて早めに準備できたほうが望ましい。しかし、艦体の軌道や姿勢は、様々な不確定要素が絡み合って常に予測不能に微妙に変化している。
そこで艦内には事前に、噴射予定日周辺の一週間程度を候補期間として告知しておき、その期間中のどこで噴射を行ってもいいように準備を進めておく。
しかし、運管部が一斉噴射の日程を最終決定するのは、噴射実行可否判断の期限である実施三日前のギリギリまでもつれ込む事がほとんどだった。
「噴射六十分前です。最終カウントダウン開始します。」
エンジン関係の操作盤と計器が備え付けられている中央操作室は、普段はがらんとした空間に数人のオペレーターが常駐して計器を監視しているだけで閑散としているのだが、この日は操作盤の前に折り畳みの机とパイプ椅子が何組も窮屈に並べられ、四十人近い関係者がずらっと並んで静かに座っている。
壁一面に配置された灰緑色の計器盤の数字を食い入るように眺めている関係者たちの配置は、一番手前の席が鍋島艦長で、その横に木下副長。
そこから一列下がって、艦長の右斜め後ろが運行管理部、真後ろが航法部、左斜め後ろが機関部の座席である。
一方その頃、「しきしま」の一般人居住区画では、街中の各所に設置された防災スピーカーがひっきりなしに警報を流していた。
「噴射警報、噴射警報。本日、九時○○分よりロケットの一斉噴射が行われます。この噴射によって生じた損害は艦内規則二十四条一項の規定により一切補償されません。落下物や構造物の倒壊に十分にご注意ください。噴射警報、噴射警報、本日、九時〇〇分より……」
ただ、住人達にとってこれはもう日常の一部であり、学校や一部の施設が休止になるとはいえ、商店も営業しているし会社も通常通りで、普段とほとんど変わらない生活が行われている。
「噴射十秒前、九、八、七、六」
ロケットが発射される時の秒読みの独特な緊張感は、二十世紀の昔から変わらない。
「五、四、三、二、一、噴射」
その瞬間、十二基のエンジンが一斉に、超高速に加速された莫大な量の水素を進行方向と正反対の方向に噴射しはじめた。真空の宇宙空間なので噴射の音自体は伝わってこないが、艦の外壁がビリビリと振動し、それが共鳴して発生する低周波のゴウンゴウンという音が艦内に延々と響く。そして弱い地震のような振動と共に、わずかながら進行方向と逆方向に体が引っ張られるような感覚が生じる。
阿部部長の机の上の鉛筆が、コロコロと転がった。
「噴射終了まで残り十秒、九、八、七、六、五、四、三、二、一。
――噴射終了しました。」
その瞬間、中央操作室からは誰からともなく「おお」「あぁ」といった言葉にならない声が出たが、拍手も起こらず、ガッツポーズをしたり、抱き合ったりするような者もいない。
噴射終了を見届けるとすぐに、皆が机の上に広げていた資料を手早くまとめ始め、立ち上がるためにパイプ椅子を引くガタガタという音で室内は一斉にうるさくなった。その淡々とした様子は、ごく普通の会議が終わった時と何一つ変わらない。
木星到着まで、「しきしま」の乗組員達はこの噴射をあと四回繰り返さなければならない。あくまでこれは通過点であり、日常業務の一部なのだ。
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