第4話 艦長決裁・部長決裁 (5)
「阿部、ちょっと来てくれ」
逆噴射終了の安堵感に包まれる中央操作室の中で、航法部の一角だけが若干緊迫感を残していた。花木航法部長が、阿部運行管理部長を小声で呼び止めて足早に部屋の外に連れ出した。
「やばい。やっぱり第四エンジンが不調だ。
計器上は百%の出力が出てるって事になっているけど、実際の軌道は狂っていて、その狂い方から逆算してみると、どう考えても第四エンジンの出力が落ちてたとしか思えないんだ。
機関部の奴ら、何やってんだか……」
阿部部長の顔色がサッと緊迫する。
「はぁ? そうは言っても、自律統合噴射管理システムが出力の自動補正入れるはずだろう。普通そんな事ありえないぞ?」
「これは私の推測だけど、おそらく自動補正でも修正しきれないくらい、実際は第四エンジンの出力が落ちてるんだよ。計器上は正常でもね。後でシステムのログは確認する」
しかし、今は原因が何なのか、誰の責任なのかで無駄な議論をしている時間はない。とにかく艦の姿勢を正常な状態に戻さなければならない。
「まぁ、何が起こったのかは後からでも調査できるからいい。それよりも、どれくらい軌道は狂ってるんだ?まずはその修正を急がないと」
「軌道のずれはまぁ無視できるレベルなんだが、船体がヨー方向に右回転している。一時間当たり三度」
その言葉に、花木部長が沈痛な表情をしている理由を阿部部長は即座に悟った。
「随分ずれたもんだな。すぐ修正しないとどんどんひどくなるぞ」
「いま計算してもらったら、第十一サブロケットを鉛直方向に一分くらい噴かせば修正できる」
「第十一か……」
「そうなんだよ。それが一番シンプルで効率的なんだが……」
そこで二人とも頭を抱えてしまった。
輸送船「しきしま」の艦内業務規定では、十二基あるメインとサブのロケットは、艦長の決裁が無ければ噴射させる事はできない。
艦長決裁を得るためには、規定に明記された所定の手続きを踏まなければならず、その中には共生会への通達と住民達への告知といった時間のかかる作業も含まれている。
たとえ艦長から口頭で了承を得て、書類上の手続きは特別に後回しにさせてもらったとしても、それらの作業には最低でも半日は必要になる。
その半日の間に船体の回転はどんどん進んでしまい、修正に必要な費用と手間が一気に膨れ上がってしまうので、両部長としてはできるだけこの場でロケットの噴射を即決し、この想定外の回転が表沙汰になる前に解決してしまいたい所であった。
「一分でなくとも、三十秒だけでもいい。どさくさに紛れて第十一サブロケットをちょっとだけ噴かしてしまえたら、どんなに楽だろうか」
花木部長も阿部部長も、本音では内心そう思っていたが絶対に口には出さなかった。
下を向いたまま微動だにせず、しばらく考え込んでいた阿部部長だったが、ふと頭を上げて花木部長に尋ねた。
「なぁ花木、第十一は使わずに、小型補助ロケットだけで回転を止める事も、物理的に不可能ではないんだよな」
「効率は良くないし物理演算も面倒だが、できなくはない」
「それしか無いだろ。今から艦長決裁取って半日後に第十一を噴かして修正するのと、今すぐ補助ロケットで修正するのと、トータルでどっちが得かって話だよ。そりゃ補助ロケット噴かしたほうが絶対に得だ」
「正確には演算してみないと分からないけど、五億円超えるかもしれないぞ」
艦内業務規定では、運行管理部長が自らの権限で噴射できるロケットの費用は一回五億円までという上限がある。それを超えるようであれば、たとえ使うのが補助ロケットであっても、結局艦長決裁が必要になってしまう。
「それでもやらないよりはマシだ。回転を完全には止められなくても、少なくとも回転速度を落とす事はできる。止まらなかったらその後で艦長決裁を取ればいいし、まずは少しでも状況の悪化を防ごう。もし足りなくても、きっちり五億円分噴かすんだ」
かくして阿部部長の決断は下った。
鍋島艦長と木下副長はすぐに自分の部屋に帰ったので、彼らへの報告は姿勢修正の作業が終わるまでは一旦保留しておく事にした。
メインロケットの噴射が終わった中央操作室は人がすっかり掃けて、人々の体温と呼気で充満した、どことなく息苦しいさっきまでの雰囲気が嘘のようだ。
居残っているのは船体の回転を知る運行管理部員と航法部員の十名程度で、がらんとして涼しくなった中央操作室に、彼らが打ち合わせる緊張した声と端末を操作する音が静かに反響している。
航法部は回転する船体の角度と速度などの諸条件を端末にインプットしていく。「しきしま」の巨大すぎる船体は、諸条件のインプットだけでも膨大な量だ。しかも、このインプットが間違っていると非常に厄介な事になるので、大急ぎで作業しながらも、航法部員たちは必ずインプット結果に対して別の人間が検算を入れる事を忘れない。
熟練した担当者が素晴らしい手際のよさで端末に情報のインプットを完了すると、艦のメインコンピューターがその情報を元に、各補助ロケットが噴射すべき最適な推力、噴射角度を物理演算で割り出していく。
五分ほどで演算が完了した。その結果は、もし計算通りであればギリギリ五億円の費用で回転を止められるという微妙なものだった。
その計算結果をさらに運管部が大まかに検算して、大きな間違いが無い事を確認した上で、阿部部長は端末の前に座っているオペレーターに補助ロケットの噴射命令をインプットするよう自ら直接指示した。
オペレーターが噴射管理システムにロケット噴射命令をインプットすると、阿部部長の個人端末に、その噴射命令を承認するようメッセージが飛ぶ。そこで今度は阿部部長がシステム上で承認操作をすると、それでようやく補助ロケットは噴射される。
「補助ロケット二分十二秒間噴射、開始します」
阿部部長が自分で読み上げて端末の承認ボタンを押すと、船体の各所に設置された無数の補助ロケットが一斉に作動した。
先ほどの十二基一斉噴射の時と違い、今回は全く振動も音もなく、本当に補助ロケットが噴射されているのかも不安になるほどである。
だが、航法部の姿勢監視担当がディスプレイを見ながら、上ずった声で報告する
「しきしまの姿勢、回復しています。正常進行方向に対してヨー右方向に残り誤差一・四度」
その裏で、運管部員がロケット噴射の残り時間を読み上げる。
「補助ロケット噴射完了まで、残り五、四、三、二、一。
補助ロケット全て噴射完了しました。」
部長の決裁権限である五億円を使い切った瞬間であった。
しばらくの沈黙の後、姿勢監視担当者が思わず声を張り上げた。
「しきしま、回転から回復しました。進行方向座標軸に対してヨー正常、ロール正常、ピッチ正常です!」
今度は、先ほどの一斉噴射の時とは一変して、「よしっ」「やった」という歓声がワッと上がった。居残っていた航法部員と運管部員達は一斉にガッツポーズをし、拍手する者あり、肩を叩き合って喜ぶ者あり、生き生きと喜びを発散する声が、がらんとした静かな中央操作室内に反響した。
阿部部長も花木部長と笑顔で握手して、今夜は同期同士で祝杯を上げようなどと言い合っていた。
――と、そこに背後から運管部の芝田君が、申し訳なさそうに首をすくめながら近寄ってきた。
「あの……部長。非常に申し上げにくいのですが……」
「なんだ?」
「先ほどのロケット噴射、きっちり五億円の枠内に収めるように、念のため五百万円の余裕も見た上で四億九千五百万円分を噴射させる設定だったのですが、若干想定よりも噴射が強すぎる部分があって――」
「それが何かしたのか?」
「あの、費用が少し足が出てしまって、集計してみたら結局五億十二万円に・・・これだと艦長決裁です」
阿部部長は、なんだ深刻そうな顔で言うもんだから、一体どんな最悪の事態の報告かと思ったよ、と大笑いすると、あっさりと芝田君にこう言った。
「何とかなるだろ」
え?そんな、もう使っちゃったものを何とかなると言われても、さっぱり意味が分かりません、と芝田君が戸惑っていると、池上係長が横から割って入った。
「大丈夫です、私もフォローして何とかしますんで部長。」
そしてボソボソと小声で芝田君に手早く説明した。
「ホラ、この五億円ってのは、月初に立てた前提為替で算出してる値だろ?でも今月は前提よりも円高気味で推移してるから、実際はこれよりもずっと安くなるはずなんだよ。それで計算し直せば楽勝で五億円以下になるから大丈夫だって。」
経験の浅い若い芝田君は空気を読まない。
「え……でも他の値は全部前提で……」
と、そこで池上係長は不自然なほど元気で大きな声を出した。
「あぁ、まあいいよ芝田。いつも前提で計算してんのは、そうしないとすぐ計算ができないからであって、原理原則からすると――
――とにかく、部長の前でこんな担当ベースで対処するような話をしても仕方ないから、俺達で相談して話を詰めて、後で結果を部長に報告しよう」
そして手早く「それでいいですよね部長?」と聞いた。阿部部長も異論があるはずがない。ああ、任せた池上、とだけ答えて、あとは必要以上に話を聞くのを避けた。
こうして、輸送船「しきしま」の木星到着に向けた第二回目のロケット噴射は、何事もなかったかのように静かに完了した。
後日、鍋島艦長に提出された最終報告書上では、追加で噴射したロケットの費用はちゃんと五億円の部長決裁範囲内に収まっていた。
第四ロケットの不調は相変わらず原因不明のままで、やむなく次回以降の噴射では一~三番のメインロケットの出力をほんのわずかだけ絞り、その分噴射時間を長くする事で対応する事が決まった。
阿部部長が即決して噴射したロケットの費用五億円は、それまでに各部署がコスト削減で地道に貯め込んでいた予算比過達分三億円を一発で吹き飛ばしてしまい、このせいで予算から二億円の赤字となってしまったが、鍋島艦長はその判断を責めなかった。ただ、
「二億の赤字は、お前が自力で何とかできる目処立ってるんだろ?」
と質問しただけだった。
それに阿部部長が力強く静かにうなずくと、ならそれでいいや、と言って鍋島艦長はもうその件については何も触れなかった。
そして今日も、輸送船「しきしま」は何事も無かったかのように粛々と秒速十八kmの速度で木星に向かって進んでいる。その旅は、アクシデントもほとんど起こらない実に退屈で変わりばえしないものだ。
ただ、「アクシデントもほとんど起こらない」というのは事実とは若干違う。アクシデントは日々大小さまざまなものが起こっている。
それを乗務員達が、落胆したり、怒ったり、喜んだりしながら、全力でアクシデントを「無かった事にしている」だけなのだ。
だから、今日も「しきしま」は平和である。
きっと明日も、「何も起こらない」
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