第2話 予算狂想曲 (4)
「今日の為替、ついに三十円台になっちゃいましたね」
芝田君が池上係長にぼやいた。
「あぁ。これはもう一段追加で費用削減の指示が降りてくるかもしれないなぁ」
池上係長も半ば諦めた様な声で言った。
八月の艦長会議の時点から二週間。その間、インド政府の利下げ発表をきっかけに、もう一段円高が加速したのである。
六月初の時点で一ドル=五十六円程度だった為替が、急激な円高進行で八月初の艦長会議の時には四十三円程度まで円高になっていた。しかしそれでも円高は止まらず、ついに八月中旬には四十円を割り込むという異常事態に陥っていた。
上期予算の達成は、これでほぼ絶望的となった。
一方その頃艦長室では、細川経理部長が鍋島艦長に上期予算の達成状況を報告していた。
「今回の費用削減上積みを全部加味しても、上期予算にはあと二%未達です。
当面は円高傾向が終息する気配も全く見えませんし、このまま今の為替が定着してしまったら、予算為替は五十五円ですから相当厳しい事になりますね」
あぁ、そうだな、と鍋島艦長は気のない返事をした。
「社長からは総合円高対策の指示も来ています。例の、為替三十五円を想定した収支シミュレーション作成の件ですが、これの進め方についてご説明させて頂けますか」
経理部長の言葉に鍋島艦長は、あぁ、あれだろ。新聞でまぁ派手に宣言しちゃって、と再び気のない返事だ。
「記者の前でカッコつけたかったんだろうなぁ。ウチは来るべき超円高時代に備えて、他社に先駆けて体制を整えてますと」
そう言うと鍋島艦長は手元にある新聞配信にチラッと目をやった。そこには日本宇宙輸送株式会社の橋本社長のインタビュー記事が載っていた。
「さも特別な事のように円高対策だとか本社は言うけどね。結局、やる事なんて、ただ現場にコストを削れと指示出すくらいのものさ。そんな事、言われなくても俺達は毎日もう十分すぎるくらいコスト削減やってんだよ」
細川部長は、そんな事私に言われましても、と心の中で思った。
「為替三十五円でシミュレーションしてみて、それで何か解決法が見えるのかねぇ。そんなの、いかにダメな状況かというのが一層ハッキリと見えるだけで、それ以上は何もないよな細川君」
そう言って鍋島艦長は笑ったが、細川部長はハァと言って微妙な笑顔を浮かべるだけだった。
「まぁでも、社長指示だからこれはもう形だけでもやるしかないな。運管部は仕事増えちゃって申し訳ないけど仕方ない」
と、そこで細川部長はスッと鍋島艦長の耳に顔を近づけると、少し言いづらそうに小声で言った。
「共生会への支援要請も、考えますか?」
鍋島艦長はサッと顔色を変えて、「やらないよ」とだけ言った。
「ですが艦長、このまま円高が続いた場合に備えて、電力供給の一%カット程度は十分にあり得ると、事前に共生会長にそれとなく伝えておいた方が後々問題になりにくいのでは?」
「やらないって。そんな態度も一切見せちゃダメだよ」
「一%カット程度なら経済活動に影響はほとんどありません。彼らだって当然ニュースは見ていますから、超円高だから協力してくれという依頼は決して無茶ではないし、事前に我々担当のベースで丁寧に話を通しておけば共生会からも十分理解は得られるはずです。
むしろ、このまま円高で業績が急速に悪化して、突然何の根回しもなく電力カットを通達せざるを得ないような事態に陥ってしまったら、それこそ大混乱が起こるのではないでしょうか」
詰め寄る細川部長の目は真剣だ。
鍋島艦長は銅像のような表情でゆっくりと答えた。
「確かに細川君の言う通りで、共生会はきっと電力供給カットに理解を示してくれるだろうよ。理由は単なる為替の円高だけであって、大したことではないってキチンと事情を説明すれば簡単に済む話だと思う」
そこで鍋島艦長は細川部長の方に向き直った。
「でもな。この『しきしま』で暮らす一般の人達は、そう簡単にはいかねえんだよ」
細川部長は鍋島艦長の鋭い目線に呑まれないよう、下腹に力を込めてその目を見つめ返した。鍋島艦長は言う。
「電力カットなんてやってみろ。それは当然、大きなニュースとして、テレビや新聞で艦内に報道されるはずだ。
で、それを見た人達は、あぁ、この船の景気は悪いんだなぁというイメージを抱くんだ。そして何となく、節約して出費を絞らなきゃいけないなぁという空気になる。
これの怖いところは、誰一人として『節約しよう』なんて思ってないところなんだよ。ただ空気。
ニュースでは電力カットなんて言ってるのに、私一人だけ無駄遣いしてたら将来まずい事になるんじゃないか、みたいな空気が流れ出すと、無意識のうちに財布のヒモが固くなる。
そうすると物が売れなくなり、艦内経済が上手く回らなくなって、不景気になってこの船に乗っている全員が不幸になる」
フワッとした具体性のない説明の割に、随分と自信満々に言い切るもんだなと細川部長は思った。鍋島艦長はゆるぎない目でこう結んだ。
「もともとこの話は、気まぐれな為替のせいで引き起こされた艦の予算未達という、たったそれだけの些細な問題なんだ。それをね、わざわざ艦全体の不景気にまで拡げる事はないよ」
だが細川部長も負けてはいない。彼には彼で責任がある。
「しかしですね艦長、極秘で共生会長にだけ伝える分には――」
鍋島艦長はその言葉を遮った。
「秘密にしてても態度に出る。艦長メッセージの放送の時に、私の顔に絶対に出るよ。本人が言うんだから間違いない」
――いや、艦長ともあろう方に、秘密にしてても顔に出るなんて堂々と言われても……と、細川部長が唖然として一体何を言い返せばいいのやら言葉に詰まっている間に、鍋島艦長は自分の意見を述べ始めた。
「なあ細川君。確かに、何か問題が起こった時に、速やかに万全の対策を打つのはもちろん大事な事だよ。
でもさ、俺は艦長で、君は部長なんだ。
担当者だったら自分一人でこっそり対策をしておく程度で済むけど、我々が対策をやるぞって言い出したら、部下達が一斉にその様子を見て勝手に動き出しちゃうんだよ。
だから、部長くらいの立場になったら、対応の早さももちろん大事だけど、それと同じくらい『焦って馬鹿な指示を出さない』ってのも大事だと俺は思うんだ。
実際、実は大した問題ではないのに、なぜか必要以上に周囲が大騒ぎしている事って、結構たくさんあるだろ。今回なんてまさにそのケースだよ。こんなのに手間と時間かけてどうするんだ」
え、それじゃ本社からの指示は?と細川部長が思わず声を出すと、鍋島艦長は自嘲的に笑った。
「無視したいところなんだがなぁ。
ただ、そうは言っても社長の指示だしなぁ……
仕方ないから、形だけは一応為替が三十五円になった時のシミュレーションも作るし、上期予算も運管部に頑張って数字積み上げてもらうけど、最悪私は予算未達でもいいと思ってる。
その時はもう腹くくるしかないな。私が本社に怒られるよ。だって、今回は理由があまりにも理不尽すぎる」
鍋島艦長のはっきりとした態度に細川部長はようやく納得したらしく、不安げだった目に力が戻ってきた。
「もう一度言うけど、私は一時的な為替の円高ごときで、今すぐ焦って共生会に支援要請はしない。
だから君には、基本的に何も動かず黙っていて欲しいし、もし逆に共生会側から支援要請はしないのかと質問が来たら、艦長は要請はしないつもりだとキッパリ言い切っていいよ」
「了解しました。では、今は共生会に対しては何もアクションしないとして、もし仮にこの円高が下期まで続くようだとしたらどうされます?」
「続かねえよ」
「は?」
「続かない」
「いや、でも今や、為替三十円台がこれからの時代は普通になると……」
「テレビのニュースでそう言ってたろ?」
「はい」
「じゃぁもう大丈夫だ」
あまりの暴論に何も言えず茫然としている細川部長に、鍋島艦長はニタニタと笑いながら言った。
「テレビじゃ最近、『急速な円高で企業の輸出に打撃』という論調で、輸出が多い中小企業の社長とかにインタビューして『いや~苦しいですわ本当に』とかコメント言わせてるだろ」
「はぁ」
「つまり、それだけ社会に歪みが溜まっているんだよ。
歪みが溜まれば溜まるほど、何とかしろという声も強くなる。歪みが大きいほど、対策も本気度が増す。
数年かけてじわじわ進んだ円高ならまだしも、たった一ヶ月で急に進んだ円高が定着するわけがないだろ。どこかで本気の対策が水面下で打たれて、こんな円高、一発で解消するさ」
為替の話なんていつも興味なさそうに聞いてるくせに、経済関係の専門家である私に対して、何を根拠にそこまで自信満々に言い切るのか。細川部長は艦長の態度に、もはや何の反論をする気もしなかった。
鍋島艦長は細川部長のげんなりした様子など全く意に介さず、生き生きと謎の持論をご開帳している。
「テレビは特に、何も知らない素人の一般大衆に向けて発信するものだから、こういう堅苦しい政治とか経済とかの問題に関しては、一般大衆が気付くくらい目に見えて大きな問題になるまでは、ほとんど取り上げないもんなんだよ。
だから逆に言うと、テレビでわざわざ時間を割いて放送されてるような政治や経済の案件なんてのは全部、すでに対策が手遅れになりかけで問題が表面化してる話なのさ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ。テレビで騒ぐほどになってる、って事は、政府はとっくに問題に気付いていて、すでに見えない所では対策は始まってるんだよ。政府だって馬鹿じゃない。
だいたい、官僚なんてのは平穏無事で何も起こらないのが一番という人たちで、問題が表面化するのを極端に嫌うもんなんだから、テレビで指摘されるようになったら、いよいよ本腰で対策するようになるぜ。
為替みたいな変化の激しいものは特に、テレビや新聞で騒ぐ頃にはもう騒動のピークは過ぎてるんだ」
細川部長は「はぁ、そうですか」としか答えようがなかった。
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