第2話 予算狂想曲 (5)

 九月になった。

 先月までの円高が、嘘のように元に戻った。


 為替が一ドル三十七円に達した八月二十二日、日銀が大胆な金融緩和策を発表。その後は今までの円高が幻であったかのように、為替は「しきしま」の予算前提でもある一ドル五十五円近くまで一気に円安に戻したのである。

 「しきしま」の船内では、いつもと全く変わらない風景の中で、いつもと全く変わらない経済活動が続けられている。毎月初に艦内に動画配信される月次の艦長メッセージでも何一つ円高には触れられる事はなく、共生会長も何一つコメントはしなかった。


「結局、あの為替三十五円シミュレーション、完全に無駄になってしまいましたね」

 芝田君が笑って言った。

「あのシミュレーション作るために、俺達と関係部署がどれだけ時間を割いて運転コスト試算をやり直したと思ってるんだ」

池上係長は、怒り三割、あきらめ七割といった表情だ。

「まぁ、深刻な問題にならなかったのが一番だけどね」


 と、そこで芝田君が嬉しそうに言った。

「これで為替も元に戻って、上期も無事予算通り着地できますから、円高のせいで先送りにされた工事案件も予定通り実施できますね。

 二五四八地区のソーラーセイルの補修、僕ずっと気になってたから、上期中に実施できて本当に良かったです」


 すると池上係長はサッと顔色を変えて、「やらないよ」とだけ答えた。

「何言ってるんだ芝田。やらないよ」

「は?」

「やらない」

「いや、でも円高は解消して予算も無事達成できる見通しなんだから、予算達成のために先送りされた案件は……」

「元通りになると思うだろ?」

「はい」

「それがそうならないのが、会社なんだよ」


 あまりの暴論に何も言えず茫然としている芝田君に、池上係長は苦笑いを浮かべながら言った。

「コスト削減ってのは、毎回あれこれ立派な理由が付くけど、実は理由なんて結局どうでもいいんだわ。これは現場の余裕を少しでも減らして利益に吸い上げたい上層部と、少しでも余裕を残しておきたい現場の真剣勝負なのよ。

 で、丁々発止の勝負の末に削る量が決まったら、そこでもう話は終わっているんだ。最初からみんなそう分かってるから、誰もこの案件、触れようとしないだろ?」


「あ。確かに……。でも、でもですねこれ、削られる前は普通に必要な経費として予算に入ってたものじゃないですか。単にそれを復活させるだけの話ですよね?何でそれが通らないんですか?」


 池上係長は、ちょっと場所変えようか、と言って机を立つと、オフィスの隅の方にある打ち合わせスペースに移動した。


「芝田、お前こないだ、『しきしま』の燃費も速度も設計の時点で決まってるし、それをさらに向上させる事なんて物理的に無理だって言ってたろ」

「はあ」

「あれは実は正しくない。機械の設計上の性能というのは『機械の調子が悪くても絶対に保証できる最低限の性能』であって、実際には必ず多少の余裕が組み込まれているものなんだ。実際はもっと性能を出せるんだけど、必ず出せるとは限らないから、計算には入れないようになってる。

 そして予算も、この『絶対に保証できる最低限の性能』をベースに計算するから、必ず何がしかの余裕が残ってるんだよ。家計簿の外にあるヘソクリみたいなもんだ。

これは機械だけじゃない。食糧の消費量、乗務員の経費。全部の項目が、そうやって少しずつ少しずつヘソクリを隠し持って運用されてるんだ。

 もちろん、お前の考えている通りで、機械の設計上の性能は最初から決まっていて、それ以上のものは出せない。でも、このヘソクリを削ることはできる」


 芝田君は何の事を話しているのか、いまいちピンときていない。かまわず池上係長は続けた。

「で、会社の上層部が指示してくる時の『コスト削減』ってのはな、つまり『そのヘソクリを差し出せ』って意味なんだわ。

 別に、機械の性能そのものをアップしろとか、そういう無理難題を言っているわけじゃない。」


 そんなの、ヘソクリがあるって事は最初からはみんな分かってるんだし、本質的な意味ないじゃないですか?と芝田君が聞くと、池上係長はしれっと「うん、意味ないね」と即答した。


「機械の性能そのものをアップするとか、そういう根本的な改善はとても時間も手間もお金もかかるし、そうそう簡単にできるもんじゃない。

 そういう本当に意味のある取り組みは、普段の何もない時に地道にコツコツ進めて、数年越しでやっと達成できる事であって、今回みたいな上から突然降ってきたコスト削減指示の時に、思い出したようにやるような事じゃないよ」


 少し前までは「コストを削減してこの船の競争力を高めるのが我々の使命だから、こういう仕事も腐らずに頑張れ」と崇高な理念を私に説いていたくせに、なぜこうも簡単に手のひらを返して身も蓋もない事を言い出すのか。

 芝田君はその態度に、もはや何の反論をする気もしなかった。池上係長は芝田君のげんなりした態度など全く意に介さず、滔々と謎の会社理論を説明している。


「この『コスト削減』の指示って、本質的にはコスト削減でも何でもないんだけど、でも毎年の予算を達成する事だって重要な事だから、苦しい状況になればこういう指示は絶対に降って来るんだよ。

 だから現場は、いつ何時、上が無茶な『コスト削減』を言い出しても大丈夫なように、あの手この手でヘソクリを溜め込もうとする。

 その一方で上は上で、どうせこいつら陰でこっそりヘソクリを溜めてるんだろうなと分かった上で黙認してて、そのヘソクリが不自然なほど大きくなり過ぎないように監視してるんだ」


 そこで池上係長は、芝田おまえ、まだ予算やった事ないんだよな、と聞いた。入社二年目で去年は現場で実習をしていた芝田君は、予算の作成作業は未経験である。

「芝田も来年初に予算やってみるとよく分かるよ。この、現場と上の綱引きが一番はっきり現れるのが新年度の予算作成だから」


 池上係長は続けた。

「予算作成になると現場は、『この程度のヘソクリなら上層部は見逃してくれるはず』というギリギリの線を突いてくるし、上層部は現場の事を全部知ってるわけじゃないけど、外から見て明らかにおかしい所は厳しく削りにかかってくる。

 そうやって各部署で現場と上がドンパチ戦った末に予算ができ上がって、その予算には各部署に少しずつヘソクリが蓄えられてるの。

 で、今回みたいな『コスト削減』の時に、貯めておいたヘソクリを小出しに削って差し出して上に納得してもらう。これが予算なんだわ。

 そこいら辺の事情は上もちゃんと分かってるから、誰も何も言わないけど、『コスト削減指示に従った』イコール『隠し持っていたヘソクリを差し出した』と自動的に解釈される。

 だから、一回削られた費用は絶対に戻ってこない」


 この独特の会社理論に、芝田君の表情には釈然としていない様子がありありと出ていた。

「という事は、このソーラーセイル補修工事もヘソクリ扱いなんですか?」

「まぁ、そうなるな。工事を多少遅らせても実害ほとんど無いし、偉い人に差し出すには手頃な案件だ」

「えー。それじゃ池上さんは、このソーラーセイル補修工事、下期に先送りにしてもいいと思ってるんですか?

 こんなのせいぜい工費二百万円程度で、工務部に頼めば工期二日で何とかなる話なんだから、何とかして戻せないもんですかね」

「普通は戻らないけど、可能性はゼロじゃない。やってみる?」

「やりますよ。当然」


 池上係長は目を細めた。あぁ、俺はいつの間にか、会社の理屈に全く疑問も抱かなくなって、こういうがむしゃらな姿勢をすっかり忘れてたな、と内心深く反省して、芝田君の熱意に付き合うことにした。


「よし。いいねその姿勢、俺は好きだぞ。

 じゃぁまず、削られた時と今とでは状況がどのように変わっていて、なぜ元に戻す必要があるのか、そして取り戻す事で何円のメリットがあるのかを小額補修発案書にまとめてくれ。

 みんなもう、この案件は下期に先送りになったと理解しきっているから、それを敢えて覆すだけの説得力のあるストーリーを完璧に作らないと絶対に突っ込まれるぞ。

 その上でなおかつ、課長の手が空いていて機嫌も良さそうなタイミングを虎視眈々と狙って、『ここぞ!』という絶妙の瞬間を逃さずに提案を上げるんだ」


 ちょ、ちょっと待って、とあわてて芝田君はメモを取り始めた。

「でも、もう上期は残り一ヶ月しか無いから、逆算していくと課長への説明は九月七日までにやらないと間に合わないな。あまり悠長にチャンスを窺ってる時間はないぜ。

 もう時間がないから、課長への説明と同時進行で、裏で工務部にも事前に話を通しておいて、工事二日分の人員枠を空けといてもらうようにしておかなきゃ。あと補修用資材の在庫って工務部に残ってたっけ?これだけ動いても、結局資材の手持ちストックが無かったら全部パーだから、最初に確認しとけよ」


 畳みかけるような池上係長の指示に、芝田君は即座に自分の無謀を悟った。そして後悔した。

「あ……。池上さん。確かにこれ、今からじゃもう間に合わないかもしれませんね……。」


 芝田君から変なモチベーションをもらってしまった池上係長は、生き生きとした目で答えた。

「あぁ、普通にやったら間に合わないな。でもまだ諦めるには早い。工務の今の担当は杉江さんだから、彼は話が早いし、何とかなるんじゃないかな。むしろ問題は課長の決裁を取れるかどうかだ。

まぁ、ダメ元でやってみたらいいよ」


「え……。でも俺、やっと何となく分かってきました、池上さんのおっしゃってた事。

 予算って、確かにちょっと変なところはあるけど、でも皆が不必要な苦労や失敗を背負わないように、それなりの意味があってこういう形になっているんだな、って」

「どういう事?」

「いや、つまりこのソーラーセイル工事の先送りも、皆さんなりの考えがあって決められた事であって、それを私みたいな若造が一人で急に動かそうとしても、かえって皆さんの無駄な仕事を増やしてしまうだけなんだなぁと気付いたというか……」


ここで、普段あまり感情を出さない池上係長が珍しく怒った。


「芝田君。ダメだよそんなんじゃ。君は若いんだ。

 確かにこの修理の先送りは客観的に見て、どう見てもおかしい。だったらおかしいと堂々と言ったらいい。君みたいな若い人が、会社の変な理屈に簡単に飲み込まれて『まぁいいや』なんてすぐに諦めちゃいけないよ。

 多少回り道でも、無駄になってもいいじゃないか。俺はお前を応援するし、課長に説明するときも一緒に行って横でフォローしてやるよ。そんな新人のうちから失敗を恐れてちゃいけない。なあ、頑張ろうぜ芝田」


 いや、諦めたんではなくて納得したんです、と芝田君は言いたかったが、この雰囲気では到底言えそうにない。

 池上係長の心に不必要な火をつけてしまった事に芝田君はようやく気付いたらしく、さっきまで批判精神に満ちていた目からは、みるみる力が失われていったのだった。

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