第3話 サザエ絶滅事件 (1)

 その日、第二艦橋の三階にある糧食部は異様な緊張に包まれていた。前日の夜十一時から「しきしま」の水産物養殖用水槽の温調装置が故障し、第十七水槽の水温が異様に上昇した状態が止まらないのである。


 水槽の設計時に見落とされていた構造上の欠陥に不運な偶然が重なって起こったトラブルだった。特に厄介だったのは、複数ある水温計にも同時に不具合が発生してしまった事で、通常だったら警報が鳴ってすぐに対応が始まるはずの所を、全く異常が検知されなかった事も状況を悪化させた。

 係員が巡回で異常に気付いた時にはもう異常高温状態が数時間続いており、水槽の中にいた魚介類の半数以上が死滅してしまっていたのである。

 その後、糧食部員たちの夜を徹した必死の作業により、かろうじて生き残っていた魚介類は他の水槽に移されたが、それでも損害額は数千万円にも及ぶであろう事は容易に想像がついた。


「――で。あとは?」

 糧食部の飯田部長は不機嫌そうに言い放った。飯田部長の前には水産課の山脇課長が神妙な顔で突っ立っている。二人とも昨晩、今まさに家で寝ようとしていた所を電話で呼び出され、その後一睡もせず対応に追われていたため、疲労の色は隠しようもない。


「一つだけ、ちょっと困った事がありまして」

「なんだ」

「サザエがね、絶滅したっぽいんですよ」


 飯田部長は、もうこれ以上の厄介事を俺の所に持ってくるなという苦りきった表情になった。

「サザエ?他の水槽にスペアがあるだろう、スペアが」

「いやぁ、何しろサザエですからね。需要が少ないので水槽を分けるのも煩雑ですし、別に絶滅してもそれほど実害はないだろうという事で単一水槽飼いにしていたんですよ。そしたら運悪くその水槽でトラブっちゃいまして」

 山脇課長は他人事のように棒読みで言った。昨晩から何度も飯田部長に怒鳴られ過ぎたせいで、もう人間としての感情が息をしていない。脳がいちいち部長の怒鳴り声を情報として処理しなくなっていた。


「『しきしま水産』と『敷島丸武』の水槽にもサザエ無いのか?」

「少なくとも、出発時の積載水産物リストで申告はありませんね」

「はぁ?誰もサザエ積んでなかったなんてあり得ないだろ。多拠点保有のルールが全然徹底されていないじゃないか!管理はどうなっているんだ!」

 はい、また怒鳴られた。これで昨晩から合計で何回目だろうか。

 そんな事しか頭に思い浮かばない。


「いやでも、サザエですから。多拠点保有のルールを守る義務があるのは水産物区分Ⅰと区分Ⅱの必需食糧品だけです。サザエは区分Ⅲの嗜好品ですから、『しきしま水産』と『丸武』に在庫が無い事で彼らに責任を問う事はできないですよ」

 この人は、自分だって昔は水産課長やってたんだから、そんな事十分に分かっているはずなのに、分かった上で部下に平気でこういう事言って来るんだもんなぁ……と山脇課長はやりきれなくなった。


 輸送船「しきしま」は、内部に一万二千人もの人々を乗せて、四年間の木星―地球往復の旅を繰り返している。その間に必要な食料は地球から持参した分だけで到底まかなえる量ではなく、「しきしま」船内に設置された人工農園、畜産施設、養殖水槽で生産されている。

 木星と地球の往復の旅は、万が一途中で致命的なトラブルが起こったとして、地球から全速力で救助が駆けつけたとしても到着するまでには最長一年弱もの時間が必要になる。そのため、全搭乗者が必ず安全に地球に帰ってこれるよう、安全対策は二重三重に神経質すぎるほどの水準で施されている。

 特に食料と水は、絶対に供給が途絶えないように管理は極めて厳重で、例えば水産物の場合、養殖用の水槽は「しきしま」の艦体のあらゆる場所に分散して全五六基も設置されていて、それぞれの水槽に供給される電源は八つもの系統に分かれている。さらに制御システムや非常用電源も、それぞれ独立して全く無関係な何種類かの系統が存在する。


 そうする事で、例えばある発電機が故障で停電して、その発電機とつながっていた水槽の魚介類が全滅してしまったとしても、その魚介類は別系統の発電機で動いている全く別の水槽でも飼われていて、ある種の魚介類が船内で全滅してしまう事を防げるのである。

 どんなに数が減っても雌雄一匹ずつ残っていれば、そこから繁殖で再び数を増やせる可能性がある。最も恐ろしいのは、一匹残らず死んでしまう「絶滅」だった。


 輸送船「しきしま」の糧食部では、地球を出発時にどんな食材をどこにどれだけ積んだのかを記録したリストを保管している。そしてその後、それらの食材がどれだけ増え、どれだけ消費されてどれだけ残っているのかを常に集計・管理して、食糧供給の安定を保ち、食材の絶滅を何としてでも防ぐのが糧食部の大きな使命の一つである。


 とはいえ、いかに「しきしま」の船体が巨大であろうと、やはり地球上に存在する全ての食材を持ち込むわけにはいかず、非常に珍しい食材だと船内では全く食べられないというものがもちろん存在する。

 また、そこまで珍しくはないものの、それほど多くの人が食べるわけではなく、別に無くても生活に支障の出ない嗜好品食材は、確かに入手はできるが、船に積んである数が少ないために、これらが繁殖や栽培の失敗で絶滅する事は実際それほど珍しい事ではなかった。


 そのような嗜好品の場合、絶滅しても乗員達の生命に関わることではないため糧食部の管理責任はずっと緩く、もし万が一船内で絶滅してしまったとしても、それは申し訳ないけれども地球に帰るまではその食材を食べるのは我慢してください、という程度の扱いで、原則として糧食部の責任は問われないルールとなっていた。


 そして今回、運悪くトラブルが発生してしまった第十七水槽では、そんな嗜好品食材のひとつであるサザエが養殖されていたのだった。

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