第2話 予算狂想曲 (3)

 輸送船「しきしま」は、四年間の航行の末に地球に戻り、木星から採取した莫大な量の重水素を衛星軌道上の貯蔵タンクに移し替えてようやく任務完了となる。

 「しきしま」が一回の旅で木星から運んでくる重水素は、実に日本の電力需要の半年分を賄える量に相当する。その重水素の販売金額たるや、そんじょそこらの国の国家予算では太刀打ちできない程の膨大な額になる。


 輸送船「しきしま」を保有・運用しているのは日本宇宙輸送株式会社で、この会社は今でこそ完全民営化されているが、発足当初は半官半民の国策会社だった。

 というのも、ステラ・バルカー級というバケモノの様な巨大宇宙船は、単一の民間企業の資本力ではそうそう簡単に新規建造・運用などできないからである。


 何しろ、気の遠くなるような巨額の投資をして船を建造しても、まず船を建造するのに約二年間かかり、完成した船が出発してから重水素を持って帰ってくるまで四年かかる。この間六年間、会社には一銭も収入が入ってこないのだ。

 確かに、木星に行って帰ってくれば国家予算級の莫大な額のお金が一挙に手に入る。とはいえ、それは四年に一回の事でしかない。どんなに額が大きくても、収入が四年に一回しか入って来ないというのは、会社経営としてリスクがあまりにも大きすぎる。

 だからこそ、ステラ・バルカー級輸送船が登場し始めた二一三〇年代、その頃に世界各国で続々と設立されたステラ・バルカー級の運用会社は、米国のジュピター・ハイドロゲン社を除く全てが国営か半国営だった。どの会社も、国のエネルギー政策の一環として設立された国策企業だったのである。


 それだけに、ステラ・バルカー級輸送船の一回の木星往還にかかる責任の重さたるや、従来型の船の比ではない。どんな事故やトラブルがあろうとも、絶対に無事に重水素を持ち帰ってくるのがまず大前提だが、赤字も絶対に許されない。もし、四年に一度しか入ってこない収入で赤字など出そうものなら、それだけで会社が簡単に傾いてしまうのである。

 自然と、ステラ・バルカーの旅には神経質すぎるまでに厳密な管理が課せられることになった。艦長は、出発前に本社で細かく計算され構築された運行計画の通りに、一日・一円たりとも遅れや費用超過を起こさない事を要求され、毎日地球の本社に運行状況の報告を上げては、その結果について取締役会から厳しくチェックされるのである。


 今の時代の艦長に、もはや自分でルートや速度を判断して適切に艦を走らせるなどという役割期待はない。そういう「下っ端の」仕事は運行管理の部署とコンピューターが全て問題なくこなして、結果だけを報告してくる。

 艦長には、ただスケジュール全体の進捗状況を眺めて、計画よりも遅れていたら部下たちに命じて未然に対策を打たせるという、スケジュール管理者としての能力が何よりも求められる。そういう時代だった。


 鍋島艦長がまだ二十代、若手の航宙士として現場の第一線にいた頃、木星からの水素採取事業はまだ黎明期であり、多分に大航海時代の危険な冒険旅行と似たギャンブル的な要素を多く含んでいた。

 船のサイズも全長五~十五km程度が主流で、そんな中で登場した全長二十km程度のLHC級が画期的な巨大船と言われていた時代である。その頃であれば、野心的なベンチャー企業が手頃な資金を集めて宇宙船を建造して木星を目指し、無事一往復して帰ってこられたら、それだけで莫大な利潤を得る事ができた。

 その当時は重水素の単価が非常に高かったので、重水素の市場価格が多少変動しても全く問題はなく、誰もが無頓着であった。船の運用者にとって最も重要なテーマは、ただ無事に地球に帰ってくる事だけであって、それさえ達成すればもう、額は多少上下しても、十分すぎるくらいの大もうけが確定していたのだ。


 しかし、そのような夢のある時代は長くは続かなかった。

 世界中が木星からの水素採取事業に注目するようになり、急速に技術革新が進むと、木星への旅の成功率は一気に跳ね上がった。

 そして木星への旅は一攫千金を目指す命がけの冒険旅行から、誰もが安全に行って帰ってこられる事が前提の、ごく普通の定期便となったのだった。

 木星から大量の重水素が安定して届くようになると、重水素の価格は一気に暴落した。


 無事に地球に帰ってくる事がごく当然の話に変わり、以前ほどには重水素が高く売れなくなってボロ儲けができなくなってくると、船の運用者にとっての関心事は、いかに安い運行費で船を飛ばすかというテーマに変わってきた。

 また、単価が下がり利幅が薄くなることで、せっかく木星まで行って帰ってきたのに結局赤字で終わるという事態がちらほらと発生するようになる。

 そんな変化の中、固定費を抑えて運行コストを下げるために、船は一世代ごとに巨大化を続けた。また、最終赤字を防ぐために、長期契約、先物取引や損害保険を駆使して徹底的なリスク分散が行われるようになった。


 現在、「しきしま」は地球を発って八か月目、四年間にもおよぶ全行程の四分の一も終わっていない。木星に向かう往路の途中であるため当然重水素は全く積まれておらず、船体はただの巨大な円筒形のがらんどうである。

 そんな空っぽの状態の「しきしま」が、為替の円高で予算未達だなどと騒いでいるのは、この長期契約と先物取引で値段が決められる重水素の取り分があるためである。


 「しきしま」が持ち帰る重水素は、地球に到着してから売りに出されるのではない。電力会社などの大口顧客とは、すでに地球出発前から長期契約を結んでいて、売買する数量は事前に決まっている。

 この長期契約分は、目先の細かな重水素の市況変動に振り回されず、航行中の四年間の水素市況価格の平均で売買する事をあらかじめ確約し合っている。

またこの他にも、約三年後に到着する水素の価格と数量を今のうちに契約しておくという、先物取引での販売分もある。


 運航リスクをできるだけ減らしたいステラ・バルカー級の場合、重水素の販売数量の七割近くが出発前に締結された長期契約の分が占め、先物取引分も二割程度ある。地球に現物が到着してから売り出される量など、全体のたった一割程度に過ぎないのだ。

 ステラ・バルカー級の運行は、とにかく事前の計画通りに進ませることが第一。現物が地球に着いてから売り始めるなどという、先の読めない行き当たりばったりの悠長なギャンブルなど、恐ろしすぎて誰も打てないのである。


 いま、手元に重水素は一グラムも存在していないが、運んでくる重水素の売り先の七割はもう決まっているし、こうしている間にも新たな先物取引は着々と決まり続けている――「しきしま」が予定通りの数量の重水素を積んで、予定通りの時期に地球に帰ってくるという当然の前提のもとに。


 帰ってくるのが当然。

 帰ってくるのを前提に、すでに成立してしまっている売買。


 素朴な感覚の芝田君の目からすると、自分達「しきしま」の乗務員が必死の思いをしながら、予算に描かれた絵の通りに船を運航しようと苦労しているのなんて結局、本社の偉い人が勝手にポンポンと決めていってしまう「未来」に落とし前を付けて、きっちり「現実」に落とし込んでいくだけの作業としか思えないのだった。

 それを、為替の円高だのといった意味不明な理由で「未来と現実がずれたからお前たちで何とかしろ」と言われても、一向にやる気が奮い立たないのである。

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