第2話 予算狂想曲 (2)
時間は夜の八時、第一艦橋オフィスにはまだ一割くらいの人が残っていた。残業に疲れた芝田君が、再び池上係長に話しかける。
芝田君は入社二年目。一年間の宇宙船実務研修を経て今回が初の木星往復となる若手社員だが、十一歳年上の池上係長に対しても、用もないのに何かと遠慮なく話しかけてくる。
とはいえ、少々失礼な時もあるけど強引に距離を詰めてくる後輩の方が、礼儀正しいけど遠慮して適度に距離を保つ後輩よりは、往々にして可愛く感じたりするものだったりする。池上係長にしてみると、仕事を邪魔されて少々面倒くさい時はあるが、芝田君のこういう所に対して別に悪い気持ちはしなかった。
「――なんか僕達、決められたレールの上をただ走らされてるみたいで嫌になりませんか?」
悩める中学生のような芝田君の台詞に、池上係長は思わず声を出して笑ってしまった。本当に一体コイツは何を言い出すのか。
「予算という決められたレールの上を、ただレールから外れないように走るだけ」
「決められたレールの上を走るのが嫌な奴が、定期便の輸送船に乗っちゃダメだろ」
笑いが止まらない池上係長に対して、芝田君は真顔だ。
「だって、僕達がこれから木星に行って四年後に帰ってきて、持ち帰ってきた重水素を売って何円のお金を手に入れるのかが、もう予算で決まってるんですよ?
どんなに僕らが頑張っても、この船の速度も燃費も設計の時点で決まってるから、予算よりも大儲けできて『ヤッター!』なんて事はまずあり得ないですし。
結局、僕達のやってる仕事なんて全部、あらかじめ予算で決められた将来に向けて、予算とずれないようにずれないようにって、ただ軌道修正をしていく事だけじゃないですか。
で、予算通りに行って当たり前、予算通りに行かないとこっぴどく怒られる。いっつも減点法で評価される。
予算の仕事が回って来るたびに僕、あぁ、この船の仕事なんて、四年後の決められたゴールに向けて敷かれたレールの上をただ走るだけなんだなぁって、いつも嫌になるんですよ」
なるほどな、と笑いながらも池上係長は少し納得した。
確かに、この船は木星に向けて出発した時点、いや、そのさらに一年前に本社で運行計画が策定された時点でもう、四年後に運んできた水素を売ることで何円の売上高を得て、経費が何円かかり、利益を何円得られるかが全て算出されている。
そして、その予算内容に基づいて宇宙輸送船損害保険を掛けるので、万が一「しきしま」が航行中に何らかのトラブルが発生して水素を予定通り運んで来られなかったとしても、実は会社の損害はそこまで深刻にはならない。
つまりこの船は、水素を運ぶ前から運び終えた後の事が全て決まっていて、仮に運ぶ事が出来なくても、その損害の大部分をカバーするだけのお金がもらえる事が確定しているのである。
だったら、自分達が頑張って水素を運ぶことの意味って一体なんなんだろう?
入社後十年以上経った池上係長なら、この問いに即座に「信用を次につなぐためだよ」と答えることができるが、二年目の芝田君にとってはただ、目に見えない不可思議なものを求めて、意味不明な努力をさせられているようにしか見えないのであった。
芝田君のとりとめのない質問と述懐に相槌を打ちながら、池上係長はぼんやりと考えていた。
予算と計画でがんじがらめにされた状況を、芝田は「決められたレールの上を走るだけの簡単でつまらない仕事」と表現していた。
この「決められたレールの上を走る」という言い回し、簡単で退屈な事や、自分の意見を持たずに他人の指示にただ従っているだけの状態の比喩としてよく使われる言い回しだけど、でも、決められたレールから外れずに走り続けるのって、果たして本当にそんなに簡単で、何も考えていない事なんだろうか……?
「池上さん、食います?」
芝田君が机の引き出しから個包装のチョコレートを二三個取り出して池上係長に差し出した。自分はもうムシャムシャと食べている。
こいつ、ホント大物だよな……と内心大笑いしつつ、池上係長は礼を言って芝田君の手からチョコレートを一個だけ拾い上げると口に放り込んだ。そして再び考えた。
まるで太陽の周りを永遠に周り続ける彗星のように、「しきしま」は地球と木星の間を何事もなく往復し続ける。しかし、太陽の引力と自らの遠心力の釣り合いが作り出す強固な軌道に沿って一切ぶれずに進み続ける彗星と違い、「しきしま」の巨大すぎる船体は、さまざまな不確定要素を含んでいる。何もせずにぼんやり眺めていたら、すぐに予算のレールを外れて見当外れの方向に進もうとしてしまう。
それを千人の乗務員達が陰ながら、日々全力でレールの上に押し戻しているからこそ、一見するとこの「しきしま」の航行は、あたかもレールの上をスムーズに走っているように順風満帆に見えているだけの事じゃないかと。
輸送船「しきしま」は決して、頑丈な鉄のレールの上に乗って、レールの方向にしか進まない列車などではない。舵を切れば切った方向に進む船?それとも少し違う。
――そうだ、お神輿だ。
「しきしま」を乗り物に例えるなら、まさにこれは巨大なお神輿のようなものじゃないのか。
輸送船「しきしま」という、全長百kmの巨大お神輿の下には無数の人々が立っていて、各自が少しずつ力を出し合って、そのお神輿を下から支えている。
支える人達全員が、このお神輿はこっちに進むべきだという意見や思惑を持っていて、各自がばらばらに、自分が進めたいと思う方向にお神輿をその手で送り出す。
一人ひとりが送り出す力はとても小さくて、しかも方向性も微妙にずれている。さらにそこに、望まない方向に引きずり込もうとする強力な外部要因がぐいぐいと押し流そうとしてくる事もある。
そのような無数の力のベクトルが合算された方向に向けて、お神輿はゆっくり、ゆっくりと動いてゆくのだ。
担ぎ手の乗務員たちは、お神輿の下のぎゅうぎゅう詰めの人ごみの中にいて、自分と周りの人の肩くらいしか見えない状態にある。一人一人は、どの方向に、今日はどれだけ進めばいいのかすら分からない。
そんな視界の悪い人たちでも目指す進行方向にお神輿を送り出せるように、会社はあらかじめ地面に白線を引いておく。ぎゅうぎゅう詰めの人達は、かろうじて見える地面の白線の向きを自分なりに確かめて、その方向に自らの手でお神輿を押し出す。
この白線が、予算なのではないか。
チョコレートをもぐもぐしながら、そんな事を池上係長はとりとめもなく考えていた。
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