第1話 たった一度の憂鬱 (6)

 後日、「しきしま」に帰還した阿部運行管理部長は「あの時、細川さんと二人で部屋に残されて、強面のロシア人たちと向かい合ったまま無言で座ってた三十分は本当に地獄だったよ。」と飲み会の度に笑い話として語ったものだが、結局その三十分間の艦長同士の会談で、輸送船「しきしま」が「アナスタシエフカ」に対して軌道変更補償金として二十万円を支払う事が決まった。


 双方の位置関係と燃料使用量から計算した補償金の目安は三十万円程度だったので、鍋島艦長自らが会談に出ることによって、十万円の補償金削減に成功したという事になる。


 花木航法部長は「あれだけ子供みたいに金払うのが嫌だ嫌だと言っておいて、結局支払うんじゃないか。たかだか十万円減らすためだけにこれだけ多くの人たちを巻き込んで余計な仕事を増やして、まったく、艦長は艦長の仕事に専念して欲しいものだ」と怒りが収まらない様子である。


「『アナスタシエフカ』から、あなたが要求したウォッカ二百本が届きましたよ。」


 木下副長が穏やかな笑顔で鍋島艦長に報告した。鍋島艦長は相変わらず木下副長の方に顔を向ける事もせず、ずっとディスプレイを眺めたままで話を聞く。

「とりあえず糧食部で在庫検収した上で、今月度扱いで『しきしま食品』に払い下げて、売却益は収入金として計上しておきますね。」

 鍋島艦長にとって、この件はもはや興味を失った玩具なのか、「あぁ」と気のない返事をしただけだった。


 木下副長が「どんな方でしたか」と尋ねた。鍋島艦長は答えた。

「まぁ、どこも変わらんな輸送船の艦長なんて。あっちも大変だよ。弱腰だとなめられて下に示しがつかなくなるし、最後は何らかの形で妥協しなくちゃいけないにしても、一応格好はつけなきゃ艦長の威厳が保てなくなる。

 で、いろいろ雑談してるうちに正直どうでも良くなってきちゃってな。俺はウォッカが好きだからウォッカを送ってくれ、俺からは上等の大吟醸を送る。それで手を打とうって事にしたんだが、まさか二百本も送ってくるとは思わなかったよ。」

「ウォッカ二百本で、収入金にしたらちょうど二十万円くらいですよ。先方も気を使ったんでしょうな。」

「だろうよ。あっちは地球への帰り道であと残り数ヶ月だから、二百本くらい渡してもウォッカの在庫は心配ないだろうし。それくらいなら部下を通さなくても、こっそり艦長アカウントで伝票一枚切ればすむ。」

「ホント、大変ですね……」


 と、そこで木下副長はウォッカの瓶を一本取り出して笑顔で言った。

「ちなみにこれ、一本だけ艦長室預かりにしておいたんですが、一杯いかがですか?」


 鍋島艦長はムスッとした口調で答えた。

「いや。いい。ウォッカは別に飲みたいとも思わん。」

 木下副長は軽く微笑むと、失礼しますと言って艦長室を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る