第6話 運命
一瞬、事態を理解できずに、固まってしまいました。
なんと、彼のズボンのポケットからカラフルな飴玉が滝のように零れだして、冴え冴えと照り輝いていた白い床をあっという間に虹色に染めてしまったからです。
赤、青、ピンク、黄色、紫。
エルシオ様が、無残にも床に散らばってしまった飴玉を眺めて、魂を抜き取られたかのように唖然としている。そんな彼を嘲笑うようにカラフルな飴玉たちはコロコロと涼しげな音を立てて彼の脇を転がってゆきました。
尻餅をつく麗しの王子 フィーチャリング 大量の飴玉。
突然出現した、荒唐無稽にしてシュールな絵図。
もう、限界でした。
「あははっ」
堪えきれずに吹き出してしまった私を、鬼の形相で睨みつけるエルシオ様。
「……何がおかしい」
えっ。
あまりにも衝撃的で、すぐに二の句を告げることができませんでした。
な、なんということでしょう。
エルシオ様が……頬を赤らめて、照れている…………だと!?!?
言葉はいつもの通り尊大ですが、むすっと頬をふくらましてほんのり赤らめている様は本当に珍しくて、何度も自分の目を疑いました。しかも、彼は尻餅をついたままなので、そこには威厳の欠片もありません。むしろ萌え度を爆上げさせているだけでした。
ここが現代日本で私がぴちぴちのJKだったら、すかさずスマホを取り出して、激写していたのに! あああ、手元にスマホがないことがこれほど悔やまれたことは前世を思い返してもありません!
真っ白な大理石の床に七色のキャンディーはよく映えました。
飴玉に囲まれた彼はうつむいて床に視線をやり、蚊の鳴くような小さな声でもごもごと仰いました。
「…………夢、だったのだ」
「夢?」
聞き返すと、エルシオ様はこくりと頷きました。
「ん。甘いものを舌の上でずっと転がしていられたら……幸せだろう」
彼が散らばってしまった飴玉を名残惜しそうに見やって、哀しそうに眉尻を下げた時、完全に心を撃ち抜かれました。
なんなんだ、この生き物は。
かわいすぎる。
私はいつかこのお方に悶え殺されるのではなかろうか。
いまだ尻餅をついたままの彼と同じ目線までしゃがみました。
短時間にときめきすぎて肺が痛いくらいなのですが、そこはなんとか顔に出さない様に抑え込み、大人ぶって微笑みかけました。
「素敵な夢ですね。歯の健康を思うと、褒められたものではありませんけれども」
「ああっ、もう。………………知られたくなかったのに」
エルシオ様が悔しそうに唇を噛みながらそう呟いた時、私はきょとんと首を傾げました。
「どうして、知られたくなかったのですか?」
彼は私の顔を見るや、恥ずかしそうにまた顔をうつむかせてしまったのでした。
「…………だって、甘いものが好きだなんて、男らしくないだろう」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
蚊の鳴くほどの小さい声でそう告げたエルシオ様が可愛らしすぎて死ぬ!
ネリ=ディーン、このまま天に召されて死んでも一生に悔いなし!
私と遊んでいる時は積極的に珈琲を飲んでいたような気がするけれども、もしかしてあれは好き好んでいたのではなく、強がってのことだったのでしょうか。
そうだとすれば、なんといじらしい……!
というか、彼にこんな可愛らしい弱みがあっただなんて、ゲームをあれほどやりこんだ私でもあずかり知らなかった。ゲームでは、ヒロインと出逢う時点で、彼は既に二十歳。彼の幼少期は大人になった彼が過去を回想するシーンでしか出てこないので、まだまだ知らないこともあって当然なのかもしれない。
ということはつまり、私はまだまだ、このお方の知らない一面を垣間見ることができるということだ。
そう思ったら、胸がわくわくして仕方ない。
まるで、宝探しみたいだ。
顔をそむけるようにしてうつむいてしまった彼にむかって、私は彼の頭を撫でたい衝動をどうにか抑え込み、へらりと笑ったのでした。
「ううん。むしろ、もっともっと、好きになりましたよ」
エルシオ様は驚いたように私を見上げた後、またうつむいてしまいました。
でも、その表情はいつもよりも幾分柔らかく、凪いだ海のように穏やかなのでした。
その後、この噂は火が飛び回るよりも早くラフネカース城を走り抜け、事態を聞きつけて急いでこの場に駆けつけた国王様の鉄拳がエルシオ様の頭にくだったのでした。きつくきつく叱られた挙句一か月間甘い物禁止令まで敢行されて、彼は蝋人形のように顔を青白くさせていたのでした。
そんな風にして、私とエルシオ様は同じ多くの時を過ごしてゆきました。
幸運にも王妃様の必死の説得の甲斐があってか、私が彼の遊び相手役を外されることもなく、穏やかで幸せな日々が続いたのです。
その間、第二王子であるシャルロ様、そして第三王子であるリオン様ともご一緒する機会に恵まれるようになりました。
お二人に初めてお会いしたあの日は、皆でエルシオ様のお部屋に集まっておりました。
シャルロ様は私を見るや否や、値踏みするように紫の瞳を細めて、思案してから仰いました。
『君が、あのとんでもない兄様を、手懐けたという噂の……想像してたより、可愛くないな』
シャルロ様、初っ端から失礼すぎませんか?
ネリ=ディーンの黒目がちの瞳は吊りあがっており、どことなく猫っぽいです。
肌は雪のように白く、頬も健康的に色づいていて、体つきはどちらかといえば華奢な方。闇夜を切り取ったように黒くしなやかな長い髪を、頭の高い辺りで一つにくくっております。
自分の容姿を他人のことのように評してしまうのは、やはり前世の記憶があるからなのでしょう。
これでも、ネリとして生まれ変わり、小野寺 鈴子時代よりかは幾らかマシになったと思います。誰もが振り返る美人からは程遠い平凡な顔つきだけれども、どことなく愛嬌のある顔立ちだと自負しております。
まぁ、王子様方やヒロインであるティアの超人染みた麗しさに比べたら、月とすっぽん程の差異があることは火を見るより明らかですが……彼らは乙女ゲームにおける登場人物で、私はその世界の名前すら出てこない脇役。比べる方が間違っているというものです。
これを見ず知らずの男に言い放たれたのだとすれば殴っていますが、相手はあのシャルロ様だ。
エルシオ様にお会いした時程の打ち震えるような感動がありませんでしたが、それでも、お会いできたこと自体が嬉しいということに変わりはありません。
シャルロ様はまだ御年五歳であらせられるけれども、既に女性を靡かせる色香を放っておられるところが末恐ろしい。将来は、女を食い荒らすダメ王子になってしまいますが、ヒロインのティアと出逢ってから一途になる様子にはキュンと致しました。このお方はこのお方で、エルシオ様とは別の苦難を抱えておられるのです。
さて。
まだ幼いシャルロ様に、どのような大人な対応をしようと思案していたら、エルシオ様がシャルロ様に対して憮然とした顔つきで言い放ちました。
『黙れシャルロ。この者を罵って良いのは私だけだ』
なっ!?
突然予告もなしに投下された爆弾発言に、私とシャルロ様が驚きのあまり絶句したのは致し方ないことでしたでしょう。
時間が止まってしまったかのように固まる私&シャルロ様と、何か変なことでも言っただろうかと首を傾げるエルシオ様。三人の間に漂ったなんとも言えない気まずい空気の中で、まだ御年二歳のリオン様はぼんやりとしておられました。
少しして、シャルロ様がアメジストの瞳の端を吊り上げて、『に、兄様の言うことを聞く義理なんてない!』と反抗的な態度を示したものの、当のお兄様は氷の相貌で完スルー。それ以降、シャルロ様は始終面白くなさそうに唇を尖らせていて、私は苦笑いしていたのでした。
あの時のエルシオ様は、一体、何を思ってあのようなことを仰られたのでしょうか。
さしづめ、自分の見つけたおもちゃを他の誰かに傷つけられるのは気に喰わないといったところでしょうが、あのお言葉は私の脳裏に焼き付いて、しばらくの間離れてくれないのでした。
その日以降、エルシオ様だけでなく、シャルロ様やリオン様も交えて一緒に遊ばせていただく機会が増えるようになりました。エルシオ様はいつ何時も無表情でいられることが多かったですが、それでも二人だけで遊んでいる時だけはわずかに表情豊かになってくださるのを、くすぐったい気持ちで眺めておりました。
そんな風にして、エルシオ様と初めてこの世界でお会いした日から、二年が経ちました。
この世界はゲーム通りに進行し、エルシオ様の下に、あの最大にして最悪の災難が降りかかりました。
エルシオ様からあの国に出かけてくると聞いた時、顔から血の気が引いてゆき、眩暈がしました。
私は、その国に訪れたエルシオ様の下に降りかかる残酷な運命を知っていたのです。
『行ったら駄目です! 行かないでくださいっ!』
何度もそう訴えて泣いたけれども、それは彼を困惑させるばかりでした。エルシオ様と王妃様がその国に訪れることは他ならぬ国王様の下した決断であり、私のような一庶民が泣いて喚いたところで揺らぐはずのない確固たる決定事項だったのです。
お二人が皆に見送られて、馬車に乗り込んでゆく後姿を、私は絶望的な気持ちで見ておりました。
お二人が出かけてから三週間後。
その国で王妃様を失ったエルシオ様は、彼を迎えに行った国王様に連れられてどうにかして帰ってこられました。
身も心も極限まですり減らし、ほぼ瀕死寸前だった彼がこのお城に帰ってきた時、様々な思いが渦巻いてこの身が張り裂けそうでした。痩せ細った彼を抱きしめて、喉が枯れる程に泣きました。
私は、前世からあんなにも敬愛していたエルシオ様のために、結局何もすることができなかった。
彼と共に穏やかな日々を過ごしている内に、私は、心のどこかで思い上がっていたのです。
もしかしたら、彼に迫っているあの恐ろしい運命を知っている私ならば、どうにかして彼をその運命の魔の手から逃れさせることができるかもしれない、と。
でも、そんな甘っちょろいふわふわした考えは、無残にも粉々に打ち砕かれました。
私はやっぱり、無力だ。
このお方の背負っている途方もない過酷な運命を、私なんかが変えられるはずもなかった。
知っていたところで、運命に逆らうなんてことは無謀だったんだ。
私は、この時程、自分という存在のみじめさを呪ったことはありませんでした。
あの口にするのも憚られる事件が起きて以来、エルシオ様は感情を凍らせてしまいました。
元より育てられた環境のせいで感情表現が不得意になってしまっていたけれども、それも私という遊び相手ができてからは、少しずつマシになってきているように見えました。しかし、あの事件が彼の心を徹底的に叩き潰した故に、彼は以前にも増して周囲にその御心を完全に閉ざしきってしまったのでした。
その内にエルシオ様は陰でまことしやかに氷の王子と呼ばれ始め、皆から畏れられるようになりました。彼がそう呼ばれているのを耳にする度に、私の胸は針で刺されたように痛むのです。
エルシオ様は義理堅いお方だから、あの事件があった後でも、私に対しては以前と同じように接してくださっています。それでも、ちょっと目を離した隙に一切の感情をそのお顔から消し去ってぼんやりなさることが多くなり、そんなお姿を見る度に胸が切り裂かれるようでした。
私に心配をかけまいと無理をして笑ってくださっているという心中を察すると、私と遊ぶことも、今の彼にとっては重荷でしかないのかもしれないという苦々しい気持ちになるのでした。
心に冬を抱いてしまわれた彼に春をもたらすのは、やっぱりティア・ファーニセスしかいない。
彼女が現れるのは、今から十年後。
それまでに私ができることは、二年前に約束した通り、エルシオ様が望む限りこのお方の傍に居続けることだ。
『エルシオ様……。無理を、なさらないでくださいね。私と会うことが負担になっていましたら、はっきり申し付けてくださいね……?』
不安になった私が、ぼんやりと虚ろな表情をされていたエルシオ様に問いかけたことがあります。
彼はその細い肩を揺らして、今にも消えてしまいそうなご様子で、私を恐々と見返したのでした。
『ネリも……私のことが、怖くなったのか?』
『そんなこと、あるわけないじゃないですか! 私はただ、貴方の重荷になってしまうことが、怖いのです』
『……余計な心配をしてくれるな。ネリは、私の傍にいれば良い。……ううん、違う。言葉を、間違えた』
震える声で、彼は言いました。
『皆が、私のことを、化け物のように扱う。あんなことがあったのだから、無理もない。でも、ネリだけは、以前と変わらなかった。……変わらないで、いてくれた』
『エルシオ様……』
『ネリがいたから……私は、あの時』
その時、侍従のドアをノックする音が響き渡って、彼の言葉はさえぎられたのでした。
あの時、彼が言いかけた言葉の先を、私は未だに聞けておりません。気になって、それとなく聞いてみても『……別に、大したことではない』とはぐらかすばかりで一向に教えてくれる気配ないのでした。
私はあの幼き日の約束通り、以前と変わらずエルシオ様と過ごさせていただきました。
時にはシャルロ様やリオン様も交えて、遊ぶこともありました。
そして、エルシオ様に救いをもたらすティア=ファーニセスの登場を密かに待ち続けました。
それからあっという間に時は経ち、現在、私は十七歳になります。
十五歳で正式にこのお城の召使いとなり、今では日々懸命に働いております。
ディーン家の代々築いてきた王家からの根強い信頼にあずかり、本来ならばお話することでさえ恐れ多いお立場の王子様方と多くの時を共有させていただいたお蔭で、彼らには今でも何かと気にかけていただいています。
三人ともより一層日々学問と厳しい鍛錬に励むようになってお忙しくなられたので昔と同じように毎日お会いすることは難しくなりましたが、そんな彼らに紅茶とお菓子をもてなす時間が私の日々を生きる糧となっております。
そろそろ、王城の庭園に春の花が咲き乱れ、そのかぐわしい香りが王城にまで漂ってくる季節。
『ときめき★王国物語』のヒロインである、ティア・ファーニセス様が王城にやってくるまで、残すところ、あと一日となりました。
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