第21話 乖離
木下さんは、オープニングで銀髪の男性が妖艶に微笑む映像が画面いっぱいに表示されるたびに、興奮冷めやらぬといった状態で鼻息を荒くさせて、マシンガントークを繰り広げていた。
「ほら! よく見て、小野寺さん! これが私の推しキャラのシャルロ様よ! あぁ……本日もシャルロ様が麗しすぎて、悶え死にそう……。最初はとんでもない遊び人なんだけど、主人公に出逢ってから一途になるところが死ぬほどきゅんきゅんする。なんといっても、あのツンとデレの絶妙な塩梅がたまらないっ。あぁ、シャルロ様よりも可愛くていじらしくて麗しくて尊い生き物は他に存在しな…………ねぇ、小野寺さん。話、聞いてた?」
「木下さん。この、金髪の人のお名前は、なに?」
「えっ? あぁ、ヤンデレ第一王子のこと?」
木下さんが急に真顔になる。まるで、ジェットコースターみたいな人だ。今まで彼女のことを大人っぽくてクールな女の子だと思っていたことが、なんだかおかしくなって笑えてくる。
それにしても、『ヤンデレ』って一体どういう意味だろう?
「そう。まるで……物語に出てくる王子様みたいな人」
「たしかに、見た目だけでいえば正統派王子ね。彼の名前はエルシオ=ラフネカース=ヴィグレントよ。このゲームのメインヒーロー的な立ち位置ね」
エルシオ=ラフネカース=ヴィグレント。
心の中でその名前をそっと反芻した時、なんだか胸がドキドキしてきた。
「オープニング映像を見て一番気になったのは、彼だった?」
「うん」
「ちっ……」
「今、思いっきり舌打ちしたよね!?」
「ええ。折角シャルロ教に入信させようと意気込んでいたのに……いきなり、出鼻をくじかれたわ」
清々しく、堂々と言い切られてしまった。
木下さんがそんなにも熱心に勧めるキャラなのだから、きっとそれ相応の魅力があるのだろうとは思ったけれど……私の心はどうしようもないくらい先ほど見たあの赤い瞳の彼に釘付けだった。
木下さんに譲り渡されたコントローラーを握ぎりしめた時、私はドキドキしながらゲームの世界に飛び込んだ。
ゲームは、主人公のティアの下に王城から使いがやってくるところから始まる。
オープニング映像で見た、あの桃色の髪の可憐な美少女が、主人公らしい。
気づけば食い入るように画面を見つめて、無心で物語に入り込んでいた。
初めて『ときめき★王国物語』をプレイしたこの日は、裏の森でティアとエルシオが運命的な出逢いを交わすシーンまで到達できた。
あの時は、そのいかにも王子様然とした見た目からは想像もつかない冷徹無慈悲ぶりに、動揺したんだった。彼がティアに対して、その見た目から想像される通り紳士的に優しく接していたなら、きっとあそこまでの鋭い衝撃は受けなかったと思う。
彼にあの冷たい目で見られたとき、背筋がぞくりとして粟立った。
無性にドキドキしてきたのと同時に、もっと彼のことを知りたくてたまらなくなった。
森での出逢いのシーンが終わった後も、その余韻に浸ってしばらく呆然としていた。木下さんは「早く進めて! 次は待望のシャルロ様のターンだから!」と急かしていたけれど、そんなことは耳に入らなかった。
間抜け顔でぼうっとしていた時にちょうど木下さんのお母さんが帰ってきて、私は現実世界へ呼びもどされた。気付けば、部屋のカーテンの隙間から覗く空の色は、もうすっかり暮れなずんでいた。
突然押しかけた上に、ものすごく居座ってしまった……!
早く帰らなきゃ、迷惑になっちゃう。
慌てている私とは反対に、木下さんはのんびりとお母さんに返事をしていた。
「お帰り、お母さん」
「ただいま~。あら、お友達が来ているの? 珍しいわね」
スーツ姿で現れた木下さんのお母さんはスッと目鼻立ちが整っていて、木下さんによく似ていた。
わたわたと立ち上がった私は必死で頭を下げて、通学鞄を無造作にひっつかんだ。
「と、突然、押しかけてしまってすみません! お邪魔しました……!」
木下さんのお母さんは、急いでお部屋をあがろうとした私を見つめて、茶目っ気たっぷりに非難の声をあげた。
「ええっ、せっかく来てくれたのに、もう帰っちゃうの? 夜ご飯まで食べていけばいいのに! 勿論、あなたのご家族さえよければだけれども」
驚いて、目を瞠った。
こんなにも長い間居座ってしまっただけで申し訳なくて消え入りたいのに、夜ご飯まで誘っていただけるとは……!
あまりにもびっくりしすぎてカチコチに固まる私を見て、木下さんはくすりと微笑んだ。
「小野寺さん、食べていくわよね?」
また、涙がこぼれ落ちそうになった。
私、まだ、ここにいてもいいんだ。
きちんと居場所を認めてもらえるって、こんなにも心地よくて、あたたかいものなんだ。
私は壊れた人形みたいに、何度も何度も、こくこくと頷いたのだった。
結局その日は初めてあがらせていただいたにも関わらず、夜ご飯までお世話になってしまい、家に帰り着いた時間は夜の八時近くになった。
お母さんは家に帰ってきた私を見るなり、「ああ、帰ってきたの。お帰り」とそっけなく言った。
半分くらい夢に浸かっていた心が、急速に暗い現実に引っ張られていくようで、足が竦んだ。
呑みこまれちゃダメだ。
私は、木下さんのお家で、美しい夢と温もりをもらった。
彼女のお家から帰宅するまでの道すがらも……ずっと、あの金髪の王子様のことが頭から離れなかった。
どうしても……あのゲームが欲しい。
木下さんに頼めばまたお家にあがらせてもらってゲームをさせてもらうこともできるかもしれない。でも、この思いはもはやそれだけじゃおさまりきらない程に膨らんでいた。
胸が熱く震える程に何かを欲しいと願ったのは、初めてだったと思う。
あのゲームを自分の物にするために、私は勇気をふるって、一歩前に踏み出すんだ。
「お母さん。お願い、があるんだけど……」
「えっ?」
「私ね……ゲームを、買ってほしいの」
お母さんはきょとんとした後、私がそこに至るまでの一大決心が馬鹿らしく思える程にあっさりと了承した。
普通の家なら、テストの点数が悪くなった直後に、さらに成績を下降させそうなゲームを買い与える等しぶられたに違いない。事実、お母さんは私の成績が落ちようがどうでもいいから、こんなにもあっさり買ってくれることを承諾したのだと思う。
今までの私だったらきっとそのことでまたショックを受けて、乾いた笑いを浮かべながら、心をひりひりさせていたと思う。
でも、その時の私はそうやって自分が軽んじられていることすら頭の彼方に追いやられてしまうくらいに舞い上がった。
これで、いつでも彼に会うことができるんだ。
『ときめき★王国物語』を買い与えられた私は、熱に浮かされたようにゲームに熱中した。
今まであんなに居づらかったあの家に帰ることが、楽しみにすらなっている自分がいた。
傍から見たらその熱中ぶりは、狂気的とも思えたとおもう。
お父さんとお母さんはどんどんゲームに傾倒していく私に呆れ果てて、もはや何も言わなかった。
「お姉ちゃん、ゲームなんかにそんなに熱中して馬鹿みたい」
今まで恐怖の対象でしかなかった妹の棘のある言葉ですら、痛く感じなかった。
「愛には、一生分からないだろうね」
それまで口応えの一つすらしない従順な姉だった私の、初めての妹への反抗だった。
まさか私が反抗することなど想像もしていなかった愛は驚いて、その後、ゲームをしている私に話しかけてくるのをやめた。
『ときめき★王国物語』は、居場所がなくて傷ついていた私に、正に居場所を与えてくれた。
木下さんとは、初めて家にあがらせてもらったのをきっかけに、学校でも話すようになった。彼女とは日々激しくエルシオ・シャルロ論争繰り広げていたけれども、平行線をたどるばかりでいつも決着はつかなかった。たまに彼女のお家にあがらせてもらって、一緒にゲームの名シーンを鑑賞することもしばしばあった。二人して、悶え唸っていた。
残念なことに、木下さんはその年の秋頃に同ゲームメーカーが新発売した乙女ゲームに熱中しはじめた途端、『ときめき★王国物語』のことは忘れ去ってしまったけれども。
私は、彼のことを、忘れられなかった。
忘れられるわけがなかった。
『ときめき★王国物語』を何度も何度も、繰り返しプレイし続けた。
初めてエルシオハッピーエンドを迎えた時の打ち震えるような感動を、いつまでも忘れられなくて、何度も何度も繰り返した。木下さんの家でコントローラーを握ったあの時の、運命的な予感は、決して間違っていなかった。彼が、ティアを愛し抜くと決め、重過ぎるあの暗黒の過去を振り払う瞬間は、何度見ても涙が止まらなかった。
彼は、それまで夢を見たことのなかった私に、甘い夢を見させてくれた。
空っぽだった私に、何かに熱中するということの素晴らしさを教えてくれた。
彼の火のように激しい心で、あんな風に、強く愛されたなら。
そう考えた時、心に鈍い痛みが走った。
ううん…………違う。
私は、ティアには決してなれない。
乙女ゲームというと、一般的には主人公の女の子を自分の分身と捉え、異なる魅力を持った複数の美男子たちとの恋の過程を楽しむものだと考えられている。乙女ゲームという存在を知識としては知っているというレベルの人々が乙女ゲームに抱いている一般的な印象は、この楽しみ方だと思われる。
でも、何度も繰り返して『ときめき★王国物語』をプレイするうちに、私はティアと自分をどんどん重ねられなくなっていった。
だって、乙女ゲームのヒロインって、性格も顔も一級品の美男子たちに愛されるだけの資格がある本当にすごい子だ。
ティアもまた、その例に漏れずとんでもハイスペック少女だった。
健気、頭が良い、機転がきく、可愛らしい、おっとりしている、天然タラシ、でも芯もきっちり通っていて強さも持ち合わせていて以下略。
天を翔けて高みにのぼりつめていた彼女は、どんどん私から乖離していった。
さようなら、ティア=ファーニセス。
潔く彼女に別れを告げた私は、彼女を自分としてではなく、一人の個性を持った登場人物の一人として見るようになった。
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