第32話 脱走

「ティア、父上を救ってくれてありがとう。私と、踊ってほしい」

「エルシオ、様……! もちろんです!」


 彼らが手を取り合って、歓声がどっとあふれ出た時、私の頬を涙が伝りました。


 ダンスホールの隅に構えたオーケストラの迫力ある演奏を皮切りに、彼らは踊り始めたのでした。


 エルシオ様の堂々とした力強いリードに導かれるようにして、最初はたどたどしかったティア様も力を抜いて彼にその身を任せるごとに、しなやかな動きになってゆくのでした。


 踊るお二人の姿は、まるで絵本の中に出てくる王子様とお姫様そのもので。

 おかしくなりそうなくらいに胸が詰まって、張り裂けてしまいそうでした。


 私はもう何度も、この光景を見たことがありました。

 前世に見た時は、たった一枚の絵にすぎなかったこの光景。

 絵で見た光景が、今私の目の前には、こんなにも鮮やかに繰り広げられている。


 これは、何よりも私の望んでいた光景だった。


 それなのに、他でもないこの目の前の光景が、じわじわと私の首を絞めつけていく。


 美しい絵物語みたいな光景は、残酷なほどに私の眼を厳しくとらえて離さない。


 全身が強い炎で炙られたみたいに熱くなっていき、息をするのも苦しいくらいに絶え絶えになり始めた時、何者かが背後から私の腕を掴んだのでした。


「!?」


 驚きすぎて持っていたグラスを取り落しとしそうになったのを、慌ててつかみなおしました。


 咄嗟に振り向いた瞬間、大きな手でするっと口をふさがれました。


「……声を出しちゃダメだよ。バレないように、中心部から抜け出してきたんだから」


 それは、他でもない、あの艶やかな色香をふくんだ声でした。

 シャルロ様は、私の口から手を離すと、耳元で私にだけ聞こえるくらいの小さな声で囁いたのでした。


「ほら。早く、ここを抜け出すよ」


 それからは、あっという間の出来事でした。


 私が答える隙もないままに、シャルロ様は私の手を引いて軽やかに駆け始めました。


 わけもわからぬまま、ただ目の前の彼だけを頼りに、人並みの間を縫うようにして走って走って走り続けて。風のようにさらりとダンスホールを抜け出した私たちは、いまだ手をつないだままでした。


 もうはぐれることもないだろうし手をつないでいる必要はないはずなのに、なんとなく手離してしまうのは今の私には心細くて、繋いだ手をはなせずにいるのでした。


 目の前のシャルロ様は、無言のまま、ある場所を目指して突き進んでいきました。ダンスホールから遠く離れて、何度か廊下の曲がり角を曲がったところでようやく彼は足を止め、迷うことなくその中に入っていきました。


 月光にあらわれた夜の音楽室には、昼間とはまた違った神聖な空気が流れておりました。


 ここに入るのは、本当に久しぶりでした。


 シャルロ様はドアの近くで呆けたように立ちつくしている私に向き直ると、ため息をついてスッと紺のハンカチを差し出したのでした。


「とりあえずは……そのひっどい顔、どうにかしなよ」


 彼は不機嫌そうに唇を尖らせながら、私の手にぐいぐいとハンカチを押し付けてくるのでした。慌ててそれを受け取り顔に当ててみたら、自分でも驚くくらいに涙でぬれていて、びっくりしました。


 私、こんなに、泣いていたんだ。


「ありがとう、ございます。今度、洗ってお返ししますね」

「……感謝の印として今後は毎日僕にストロベリーティーを淹れること。分かった?」


 彼が大真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、くすっと笑ってしまいました。


「なんだ……ちゃんと、笑えるじゃん。やっぱり、馬鹿ネリは笑ってた方が、ずっと良い」


 そしたら彼がいつになく優しい表情をしたから、胸がドキッとしました。


 あの談話室での一件以来、シャルロ様とも全然お話できていなかったけれど……また以前と同じように、こうして普通に会話を交わせていることがとてもうれしくて、張りつめきっていた心が少しだけゆるみました。


「シャルロ様。ここ最近、全然お話できていなかったですね」

「ホントだよ。廊下で会ったのにシカトされた時は、流石に落ち込んだ」


 ぎくり。


 私、シャルロ様のことを無視しましたっけ? 

 そうだとしたら、いつ、どこで? 

 全く、記憶にありませんでした。思わず目が泳いでしまいます。


 彼はその時のことを思いだしたのか、先ほどまでのほわわんとした柔らかな表情を消し去り、大層不機嫌な顔をなさったのでした。


「……案の定、自覚すらなかったか。まぁ……君はここ一週間ずっと、上の空だったからね」

「そ、それはっ。ここ最近、珍しく高熱を出してしまったりして、風邪すらひいたことないのにいきなり高熱なんて出したから、治ってからもどこか気が抜けていてっ」


 しどろもどろに弁解をする私を見て、シャルロ様また小さくため息を吐いたのでした。


 どうやって言いつくろったらいいものか分からず口を閉じてしまった私に、彼はふいっと顔を横にそらし、瞼を伏せました。長い睫毛が、きれいでした。


 二人ぼっちの静謐な空間に、シャルロ様の、じんわりと熱を孕んだ言葉がぽつりと落ちました。


「言い訳なんて、いらない。でも、もう……いい加減、やめたらどうなの」

「な、なにを……でしょうか」


 シャルロ様の言いたいことが掴めず戸惑う私に、彼は一度うつむきました。


 音楽室の窓辺から差し込む月明かりにさらされた彼の表情は、強く迷い、葛藤しているようでした。


 その狂おしげな表情を見た時、鼓動が高鳴ってしまうのを止められませんでした。


 このお方が、つい先ほどまでダンスホールの中心で華やかに微笑んでいた魔性の彼と同一人物だとは思えない。今の目の前の彼には、触れたら壊れてしまいそうな危うさが滲んでいて……どうしようもなく、胸が締め付けられる。


 シャルロ様のこんなにも思い詰めているような表情を見るのは、これで二度目でした。


 一度は、一週間前、あの談話室で。

 そしてもう一度は、ゲームの中で、シャルロがティアに想いを告白する時に――


 違う、まさか、そんな、それだけは、ありえない。 

 だって相手は、この私なのに。


 まさかと思う一方で、もしかしたらという予感が私の心臓を圧迫し、どんどん速まっていく鼓動をどうにも鎮められない。


 シャルロ様がもう一度顔をあげられたその時には、もうその瞳に迷いは浮かんでいませんでした。代わりに強い決意を宿した焔が静かに揺らめいていて、心臓をぎゅっと締め付けられるようで。


 シャルロ様が、私のことをまっすぐに見つめ返して一度深呼吸をする。


 一挙一動がすごくゆっくりに感じられて、私は、ただただ見入ることしかできなくて。


 彼が、その艶やかな唇を開いた。

 その心に、ずっと秘めていた思いをほとばしらせるように。


「兄様をひたむきに想い続けることを、やめたらどうなのって言ったんだよっ。君が兄様のことを想って泣くのが昔からすっごく嫌だった。君はうんざりするくらいに、いつもいつも兄様のことばかりだっ! いい加減、僕に振り向いてよ!」


 ぴたりと、時間が止まってしまったかのような錯覚に陥りました。

 まるで、魔法にかけられたように。


 ――まさか、そんな、それだけはありえない。そう、思っていたのに。


 毅然と言いきった後、シャルロ様が徐々に今まで見たこともないほどに目の下を赤く染めていき、形の良い耳の先っぽまで朱色にしていったのを見ると、どうやらその意味は……異性としての恋情で間違いないようで。


 そうと明確に認識した瞬間、全身が沸騰したみたいに熱くなりました。


 いま、いったい、何が………………何が、起こってしまったのだろうか。


「ええええええええええええええええええええええええええええええええっ!?」


 私の絶叫が夜のラフネカース城を揺らしたのは言うまでもなかったのでした。 


 シャルロ様が咄嗟にご自分の耳と私の口を塞いだのは、鼓膜が破れないようにするための防衛本能が働いたためであったでしょう。


 他でもないあのシャルロ様が、私なんかのことを一人の女の子として好き?

 そんなのありえない。


 だって、このお方は、望めばなんだって手に入る高みに君臨されているお方なのに。

 

 どうして、私なんかのことを…………?


 突然の思いもよらぬ事態に思考能力すら奪われてしまって、固まることしかできませんでした。


 対するシャルロ様の一度あふれ出した言葉は、堰を切ったように止まりませんでした。


「ずっとずっと、君のことが好きだった。というか、なんで今まで全く気付かなかったわけ? 本当に救いようもないほどに馬鹿なの?」

「うっ……」


 息を荒くして、まくしたてるように私を責めたてるシャルロ様は鬼の形相でした。目は三角に吊り上っており、頭には今にも鬼の角が生えてきそうです。しかし、その瞳はうっすらと涙が滲んでいて、頬はほんのり朱くにじんでいました。


 思い返してみれば……シャルロ様は昔から、私とエルシオ様が並んで歩いている所を邪魔するように割って入ってきたり、私たちが二人で遊んでいるところに出くわすと面白くなさそうに唇を尖らせてばかりだった。


 でも、それは、シャルロ様のプライドが高いゆえに自分だけが仲間外れにされることが許せないだけなのだと思っていたし、一緒に遊びたいけれども不器用だから素直にそうと言えないだけなのだと考えておりました。

 気にかけられているように思わないこともなかったけれど……それだって、私の眼がエルシオ様にしか向いていないことに対する納得のゆかなさに過ぎないと、そう思っていたのです。


 しかし、そのような行動はすべて考えようによっては、私と何かと一緒にいてくださったエルシオ様に焼きもちを焼いていたのだととれないこともない。


 ここ最近は十七歳となり昔よりも大人びた為、あからさまないじめは減ってきていましたが、思い返せばシャルロ様は昔からあの手この手で私をいじめてきたのでした。


 そして、目の前のシャルロ様の赤く染まった頬を見るにつけても、彼が私を好きだということはおそらく紛れもない真実なのでした。


「し、しかし……シャルロ様がよりにもよって私のことを好きだなんて……何かの間違いではないでしょうか」

「本当にそうだったらどれだけ良かったことか。僕だって君みたいなちんちくりんを好きになる予定は毛頭なかったよ!」


 何気にかなり酷くないですか。

 これが仮にも好きな女の子に対する台詞なのでしょうか。


 シャルロ様はそれまで吊り上げていた瞳を、しょんぼりと伏せました。


「全然そんな予定じゃなかったのに…………君には、心を揺らされて仕方なかったんだ」


 彼が震えながら押し出した言葉に、心がびくっと震えたのでした。

 押し黙ることしかできない私に、彼はゆっくりと自分の中にあるものを形にしようとしていたのでした。


「ねえ、ネリ。女の子はみんな、僕の愛を切望した。ずっと、焦がれられるように見つめられて、追いかけられて生きてきた。僕がどんなに酷いことをしても、彼女たちは、ぜんぶぜんぶ赦してしまうんだ。でも、ね……彼女たちをそういう風に仕向けておきながら、僕はホントは……そうされればされるほど、淋しかったんだよ。そんなの、嘘だって思う……?」

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