後日談② 狂気的な愛、後、心変わり?Ⅳ


 ん…………?

 

 今、私の聞き間違いでなければ、リオン様の清らかな唇から、抱きしめたさでいえば、私の方が勝っていると発せられた気がしたのですが……?


 想定を成層圏まで突き抜けてきた発言を受け止めきれずにうろたえることしかできないでいる私に、リオン様は隙なく更なる追い打ちをかけてきました。


 繋いでいない方の手をすっと伸ばして、そっと壁に手をついて――って、こ、こここここここれは!? 


 もしかしなくても、壁ドン。 

 前世に、夢見る乙女界隈で一世を風靡していたあの壁ドン……!


 えっ、【ときめき★王国物語】における壁ドンの使い手は、シャルロ様だけだったはずでは……?! いや、そんな愚かしいことを考えている場合ではないくらい、リオン様のご尊顔が近い……! 


 よく考えてみたら、この世界に生まれてから、こんなにも間近で彼のお顔を拝むのは初めてかもしれない。


 しっとりと滑らかなミルク色の肌は瑞々しく、程よく厚みのある唇は桃色に熟れていて否が応でも瞳を奪われる。触ったら柔らかそうだな……って、私としたことが、リオン様相手に何を考えて……! 

 

 でも。


 すこし顔を傾けたら触れてしまいそうなほどに近くにいる目の前の彼は今、いつものようにうまく穏やかな微笑を浮かべられなくて、自分自身でも戸惑っているように見えました。

 

「リ、オン様……?」 

「……ご、めん。でも、頼むから、あんまり迷わせないで……っ。どうしていいのか、わかんなくなっちゃうから」


 肩にそっと押し付けられた額から、心の内で燻っている熱をそのまま流し込まれたように、身体が熱く火照っていく。


 微かに震えている息遣いや、心臓の音が、耳を圧迫してくるようだ。


 叩いたら割れてしまうのではないかというほどに危うく張りつめ始めた空気の中で、私にだけ聴こえるくらいの小さなリオン様の声が、ぽつりと滴り落ちました。


「ネリは……僕にとって、妹みたいに手のかかるお姉ちゃん。物心ついた時には、そう決まってた。それは息するのと同じくらいに、当たり前なことだった」


 でもね。


 一度言葉を切って、彼が小さく息を吸う。


 そして、細いけれどもたしかに爆ぜている熱を、吐き出すように言いました。


「……もし、僕に二人の兄がいなかったら……僕にとってのネリは、お姉ちゃんでも妹でもなかったかもしれないって、考えたことがある」

 

 リオン様は、おっとりしているのに意外としっかり者な、癒しの天使だ。

 誰にでも公平で、皆から慕われていて、おやさしい。

 私が泣いている時にも、いつだって慈悲深く手を差し伸べてくれる。

 

 でも、「ごめんね、黙っておくつもりだったのに……」と懺悔をするように声を揺らしている彼は、もしかしたらずっと――


「もちろん、僕は二人の弟で良かったって心の底から思っているし、エル兄が隣にいてこそのネリだってことも充分に分かっている。分かってるけど……あんまり、そうやって無防備になっちゃ、ダメだよ」


 ――かわいい弟であり続けるために、時には自分の気持ちを蔑ろにしてでも、無理に微笑んでいたのかもしれない。


 そうっとお顔を上げたリオン様の、不純物のないどこまでも透き通った翡翠の瞳には隠しきれなくなった微熱が灯っていました。


「それとも、ネリは、エル兄以外の男の人にこんな風に触れられてもいいの?」

 

 リオン様が、壁についていた手をはずして壊れモノを扱うようにやさしく、でも、どこかぎこちなく私の髪を梳く。その指先から伝わってくる思慕の念以上の何かに喉が締め付けられたようになって、息苦しい。


「だめ、です……ごめん、なさい」


 震える声でどうにか言葉を絞り出すと、リオン様はすぐに私から距離を取って、すっとつないでいた手を離しました。


「ううん、謝らないで。僕の方こそ、困らせるようなことをしたりしてごめん」

「っ…………」

「ネリは、間違ってないよ。君はずっと、そうやってエル兄だけを見ていて」


 どうして?


 貴方はどうして、そんなにお優しいんですか。


 自分がふらついて苦しいからなんていう身勝手な理由で都合よく甘えて、結局のところ、突き放すことしかできないエゴにまみれた私を叱ってください。


 貴方の果てのないようにすら思える慈しみの心が、今は、胸に刺さってくるようで痛いです。

 

「大好きだから不安になっちゃう気持ちもわかるけど……エル兄のこと、もっと信じてあげて。だってネリは、エル兄のことを、前世から自分の心臓のように大切に想ってきたんでしょ?」


 リオン様が、時間を巻き戻す様にしていつものやさしい微笑を浮かべた時、心臓がズキリと鋭く痛みました。 


*  


 その夜。

 しんしんと清らかな月光がラフネカース城に降り注ぎ、お城中が寝静まった頃。

 

 心臓を吐き出してしまいそうなほどに高鳴らせながら、私はエルシオ様のお部屋の前で何度も深呼吸を繰り返していました。


 ああ。

 緊張のしすぎで、おかしくなってしまいそうです。


 でも、恥をしのんでヨルン君に頼み込み、ここまで来てしまったからには引き返すわけにはいきません。


『ネリさん……! ここのところ主様とお会いしていないご様子だったので心配していたのですが、随分と大胆になられましたね……! そういうことなら、お任せください。明日の午前中のエルシオ様のご予定はどうにか調整して、なかったことにしておきますね』


 と、にやにやしながらからかわれた時には、恥ずかしさのあまりそのまま死んでしまうかと思ったけれど。


 怖れていないで、ちゃんと向き合わなきゃ。

 前世から大切に想ってきた、誰よりも愛おしいあのお方に。


 もし本当に、エルシオ様の御心がヴィグレント嬢にからめとられていたとしたら、今から私のしようとしていることは酷く迷惑なんじゃないだろうか……と、また心が不安の波にさらわれそうになった瞬間、昼間に見た、リオン様の儚い笑顔が蘇ってきました。

 

『エル兄のこと、もっと信じてあげて』 


 そうだ。

 他でもないリオン様に、あんな顔をさせて背中を押させてしまったからには、もうぐずぐずと迷っていたらダメだ。

  

 震える手で目の前の厳めしく大きな扉を押すと、ヨルン君の計らった通り、本当に開いてしまって身がびくりと震えました。


 そっと忍び足で、彼のお部屋に足を踏み入れました。

 彼のお部屋に来るのは、一体、何年ぶりだろう。昔は毎日のように訪れていたけれど、最近は、全然来ていなかったことを今更になって痛感しました。


 当然のことながら、灯りも何もついていない、暗闇の中。

 段々と目が慣れてきて、昔とほとんど変わっていない家具の配置に、胸をほっと撫でおろしました。


 そろりそろりと、天蓋付きの大きな寝台に近づいてゆく。この心臓の高鳴る音でエルシオ様を起こしてしまうのではないかと冷や冷やしていたらすぐにその前まで辿り着いてしまったので、そうっと、つま先立ちでのぞきこみました。


 綺麗、だなぁ。


 規則正しい寝息を立てて、安らかな眠りにふけっているエルシオ様は、眠っている時ですら麗しい。こうして瞳を閉じていると、長い睫毛がいつもよりも艶めいて見える。ふわふわと光を散らす黄金の髪も、高く形の良い鼻も、お顔を形作っているシャープな輪郭も。全てが女の私よりも綺麗なのに、それでいてきちんと男性的なしなやかさをそなえていて、見つめているだけで息が上がってきてしまう。

 

 赦されるなら、永遠にでも、見つめていたい。


 ううん。


 今までは、たまに眺めさせていただけるだけで一生幸せに暮らしてゆけると信じて疑っていなかったけれど……本当は少し前からずっと、それだけじゃ、足りなくなってしまっていた。

 

 ふらふらと羽毛布団をめくりあげて、すっと彼の隣に忍び込みました。柑橘類系の爽やかな香りが鼻をかすめて、既に狂おしいくらいに高鳴り始めている心臓がぎゅうっと締め付けられたようになる。


 深い眠りに落ちているのか、エルシオ様は未だに侵入してきた私に気づくことなく、すやすやと寝息を立てている。


 ダメ、だ。


 ここに来る前までは、きちんとお話をした上で、彼の本音をちゃんと確かめなきゃって思っていたのに。


 見つめているだけで弾け飛びそうなほどに膨れ上がっていく想いが、そんな悠長なまどろっこしいことを、赦してくれませんでした。


 もしこれが最後になったとしても、今はただ、貴方に触れたくて仕方ない。


 だって、私はもう――あの薄くて形の良い唇が、触れたら驚くほどに柔らかくて甘いことを、知ってしまったから。


 気づけば、私は甘い蜜に吸い寄せられる蝶のようにそのお顔に吸い寄せられ――自然と、彼の唇を奪っていました。


 ずうっと触れたかった唇は、やっぱり蕩けるように甘く柔らかくって……もしかするとこれが最後になるのかもしれないと思うほどに、泣きたくなりました。


「ん…………ネ、リ……?」


 永い眠りから解き放たれた茨姫のように、エルシオ様がそうっと瞼を押し上げて、ルビーを溶かして作ったような切れ長の瞳が、花開くように見開かれる。


 エルシオ様がしてくれた時よりもずっと拙くて、下手な私からのキスを受け止め終えた彼は……まだ夢見心地の中、今にも泣きそうに顔を歪めている私のことをただただじいっと見つめていました。


「勝手なことをして……ごめん、なさい。迷惑なら、もう、こういうのはやめます」


 目の前で起きている事態を呑み込みきれないのか、何度も瞬きをしているエルシオ様に、震える声で胸の内で燻り続けていた熱を浴びせるように吐き出しました。


「……貴方に突き放されてみて、分かった、んです……っ。ほんとは……貴方がどう思っていようと我慢できなくなるくらい触れたくなってしまうくらいだったのに……いつも、逃げようとばかりして、ごめんなさい……っ。もう、もう、遅いんでしょうか……っ」

「…………そうか」


 私の話を聞き終えたエルシオ様が、徐々にその瞳にやさしい光を滲ませてゆく。それから、躊躇うことなくするっと私の背中に腕を回して、私の不安をとかすようにぎゅうっと包み込みました。


 そして、その身を小さく震わせて、秘めていた熱を吐き出すように声を絞り出しました。


「…………っ……やっと、ネリから来てくれた」


『だから…………私からは、もうネリには触れない』


 一週間前、談話室で放たれたあの言葉が、耳の奥から蘇る。


 そうか、あの言葉の真意はもしかして――


 エルシオ様は、細長い指をやさしく私の髪に絡めました。


 それから、何度も何度もくらくらとしてしまうような甘いキスを落とされて……いつもなら、ときめきすぎてすぐに心臓が根をあげて逃げ出してしまうのに、一週間分ためこんできた淋しさがまだまだ足りないと我儘を言って、私をいつになく従順にさせていました。


 自然と彼が離れていったとき、むずがる子供のようにその腕を掴んでしまいました。


「やめないで、ください」

「……驚いた。いつも逃げてばかりだったのに……今日は、まだ、足りないのか?」


 ゆるりと瞳を細めながらおかしそうに微笑んだ彼を見つめた時、息が詰まる程の幸せを感じて、苦しいくらいで。


「……ごめんなさい。……で、でもっ……半分くらいは、エルシオ様のせいです。貴方が、私を、おかしくしたんです」

「……それは、私の台詞だ」


 こつりと、飼い主に甘えたがっている猫のように額を合わせてきた彼は、意を決したようにその唇から核心に迫る一言を放ちました。


「…………一週間前、舞踏会に訪れた時、フィーユ家の令嬢に迫られた」


 その不吉な名前が彼の唇から飛び出た時、それまで甘くときめいていた心臓が、凄まじい勢いで嫌な風に飛び跳ねました。


「っ! な、なにかあったのですか……?」


 ぎょっと悲鳴を漏らした私に、エルシオ様は私の顔をまっすぐに覗き込みながら、徐々にその瞳を据わらせてゆきました。


 あれ、何かマズイことを言っただろうか……? と固まると、エルシオ様は拗ねたように唇を尖らせて、ムッとしたように仰いました。


「まさかとは思うが……この期に及んで、私のことを疑っていたのか?」

「うっ」

「……他の女に腕を絡められたところで、数ミリたりともこの心臓は揺れ動かなかった。それどころか、うっとうしくて不愉快なだけだったから、即座に振り払った」

「え、ええと……そ、その……」


 ヤバイ。

 これは結構、怒っていらっしゃる。 


「なのに。私をそうさせた当の本人に、まだこれほど自覚が足りなかったとはな……」


 浮かび始めた黒い微笑に背中から冷や汗が滲みだした瞬間、途端にエルシオ様がしゅんと瞳を曇らせました。


「……ただ、あの女に、『風の噂でお聞きしましたが、どうやら貴方様の愛は随分と一方的らしいご様子ですね。私は、貴方様にそんな淋しい思いはさせませんよ』と言われた時には、少しばかり不安になった。……いつも、望んでいるのは、私ばかりじゃないかって」


 淋しそうに口にしたエルシオ様に、胸がズキリと痛んで、仕方なくなりました。


「…………子供じみた真似をしてすまなかった。自分で始めたことなのに、ネリに触れられないことが想定していた以上に辛かった。自分で自分の首を絞めて、本当に、滑稽だった」


 小さく嗚咽を漏らした彼が、声を詰まらせながら、涙交じりにその想いを絞り出す。

 

「……で、も……それですら、我慢して良かったと思ってしまった。こうしてネリが甘えにきてくれたことが……情けないくらいに、嬉しくて」


 その瞬間。


 前世からの憧れだとか、絶対なる美の化身だとか、一国の王子様だとか、私がエルシオ様に着せていた何重ものフィルターが一気に剥がれ落ちました。


 そうか。


 随分と、遠回りしてしまった気がするけれど――ようやく、分かった気がする。


 私がエルシオ様のことを望んでやまないと同じくらいに。

 目の前の彼だって、私に望まれることを欲している。


 愛おしくて仕方のない私の心が分からなくて不安になっている、ただの一人の男の子として。


 だから。


 気高くて遠い存在だからとか、麗しすぎるからとか、そんな馬鹿らしい理由であたふたしている場合じゃない。


 かすかに震えているエルシオ様の唇を攫うように、自分から、深く口づける。

 

「ん……っ。ネ、リ……?」

 

 いつになく余裕をなくした彼が、瞳をとろんとさせながら、ぼうっと私のことを見つめ返す。上気しはじめた頬も、潤んできた瞳も、全てが私の心臓をぎゅうっとしめつけて、たまらない気持ちにさせてゆく。


 もう、迷わない。


 ただ純粋にこの人のことを愛することを、躊躇わない。ううん、愛さずにはいられない。


 彼が、私のことを愛してくれているのと同じくらいに全力で。


 目の前のエルシオ様が、もう一生、一人で不安になって苦しむことがないように。

 

「エルシオ様。貴方は以前、自分の感情は持て余してしまう程に強いのだと仰っていましたが……きっと、私の方が、貴方の比にならないくらいに、深く貴方のことを愛しています。だって私は……前世の頃から今に至るまでずうっと、貴方だけを愛してきたんですもの」


【後日談② 狂気的な愛、後、心変わり? 完】

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転生少女は王子様をハッピーエンドに導きたい 久里 @mikanmomo1123

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