第3話 悪役令嬢ミルラ様
「失礼いたします」
エルシオ様と初めてお逢いした日から一週間が経った今や、彼はドアの開く音に振り返ることすらなくなっていました。相変わらず、ドアに背を向けながらソファにもたれかかり、本に視線を落としているばかりです。
しかし、本日の私はこれまでの正攻法を貫いていた私とは一味違うのです。
私は迷うことなくエルシオ様の座っているソファの前まで回り込み、彼の許可もなく隣に腰かけました。
まぁ、これしきのことで動じる相手でないことは、想定済みです。彼は相変わらず冴え冴えとした無表情を浮かべながら、つまらなそうに本に目を落としています。
私は先ほど王城の図書館で借りてきた、子供向けの絵本をこれ見よがしに膝の上に広げました。
この絵本は、花のように可憐だけれども、実はとっても力持ちなお姫様が身分を隠して旅をするお話です。子供向けといいつつも、意外にも繊細に作りこまれているお話と、水彩画のような淡いタッチの幻想的な絵に引き込まれて、つい読みふけってしまいました。図書館の司書のお姉さんが選んでくれた一押しの絵本ですが、期待以上の面白さです。
私が、目を輝かせて絵に見入り、物語に没入していった時、視界の端で隣に座るエルシオ様の肩がぴくりと揺れたのでした。彼が、おずおずと私が読みふけっていた本に視線を落としたその瞬間、私は内心でほくそえみました。気分は、仕掛けた餌に予想通りに喰いついてきてくれた魚を吊り上げる釣り人です。
絵本から顔をあげてエルシオ様の方を向いた時、彼は逃げるように自分の読んでいた厳めしい本に視線を落としていました。
「この絵本、すごく面白いですよ。エルシオ様も、一緒に読みませんか?」
「…………絵本なんぞ、くだらん」
呆然としてしまいました。
だって。
だってだってだって。
あ、あの私の前では一切の無言を貫いていたエルシオ様が、ついに私に対してお言葉を発された……!
感動と混乱とが頭の中でごちゃ混ぜになって渦巻き、胸が震えました。
どうしよう、嬉しすぎて目が回りそうです。
私があまりにも呆けた顔をしたものだから、エルシオ様はきまりが悪くなったのでしょう。何事もなかったかのようにまた視線を、自分の読みかけの本の上に落としたのでした。
しかし、私は見逃しませんでした。
彼がふわふわの淡い金の髪からのぞく白い耳の先っぽを、薄く紅色に染めていたことに。
その日にエルシオ様から聞いた言葉はそれっきりでしたが、たったそれだけのことがどうしようもなく嬉しくて、彼の傍を離れてからも頬がゆるみっぱなしになり、母から気味悪がられたのでした。
初めてエルシオ様と会話をかわせたこの日の記憶は、私にとって大切な宝物となりました。
それ以降、私と彼との関係性は、少しずつですが確実に変わっていきました。
私は一日一冊、お勧めの絵本を片手に、エルシオ様の元を訪れました。
初めて言葉を交わせたあの日から一週間が経ちましたが、まだ二度目の言葉は交わせていません。
私は、彼の隣で楽しく絵本を読む代わりに、自らエルシオ様に言葉をかけるのをやめました。私本体ではなく絵本に興味を持っていただく作戦に加えて、押してダメなら引いてみる作戦も付け加えてみたのです。精神年齢二十三歳の大人が知力を尽くして八歳児にかまってもらおうとしている様はよく考えるととても滑稽なものでしたが、そんなことは気にしたら負けなのです。
言葉は交わせていなくとも、確実に彼の心の揺れ動きは見て取れました。
私が感心したりうなずいたりしながら絵本を読みふけっている時、彼が絵本を盗み見ることが日に日に多くなっているのに私は気づいていました。
そんな時、私は自分の進んでいる道は間違っていないと確信することができて、キャンドルがぱっと灯ったようにあたたかい気持ちになるのです。
そんなわけで私は司書のお姉さんにお勧めの絵本をせがむ妖怪と化し、王城の図書館内ではちょっとした有名人となっていました。最近では、司書のお姉さんは自ら私がやってきたことに気づいてくださり、たっぷりとお勧めの絵本を用意して待っていてくれるようにまでなってきました。
エルシオ様と過ごしながら絵本を読みふけっている時間は、幸せそのものでした。
この世界の絵本は、私好みのロマンチックで美しい世界観のものがとても多かったのです。
最初はエルシオ様の興味を引きつけるためだけに始めたこの行為でしたが、気づけば私は夢中で絵本に読みふけっておりました。
目の前には色鮮やかで幻想的な絵本、隣には前世あれ程までに敬愛していたエルシオ様がいらっしゃる。
時折、私の読んでいる絵本に向けられる彼の視線がくすぐったくて、そのたびに今私はエルシオ様と同じ本を読んでいるのだという高揚感で胸がいっぱいになるのでした。彼は相変わらず私を空気のように扱っているけれども、段々と無視しきれなくなっていることも伝わってきて、その事実が私を満たしていきました。
そんな風にして、私たちは同じ時を過ごしたのでした。
私とエルシオ様から初めてお会いしてから、実に一か月が経ちました。
今日も今日とて、彼のお部屋で読むための絵本を借りに行こうと、浮足立って図書館に向かっていたその時でした。図書館に向かうために長い廊下を曲がろうとしたその時、後ろから女の子の声に呼び止められました。
「あなたが、エルシオ様につきまとっているという噂の女ね。みすぼらしい貧相な恰好だこと」
くるりと振り返ると、私よりも一回り背丈の大きい貴族の女の子が鋭い目つきで睨んでいました。その身を包んでいる薄桃色の高価そうなドレスは、宝石をちりばめたようにそこかしこがきらきらと輝いています。
あれ……?
この吊り目がちで豪奢な金の縦ロールの女の子、どこかで見たことがある気が……。
思い出せなくてもやもやしてしまい口を噤んでいると、彼女はそんな私の態度にいらついたのか、最初の言葉よりも早口になりました。
「無視なさるおつもり? 他でもない、フェアリラント公爵家の令嬢である私が質問をしているというのに?」
ああっ!
思い出しました!
彼女は、城内でも有力なファリアラント公爵の長女、ミルラ=オルザス=フェアリラント様だ。
こうして実際にお目にかかるのは初めてだけれども、私は前世に彼女の姿をお見かけしたことがありました。
ミルラ様はゲーム『ときめき★王国物語』における、悪役令嬢なのでした。
形式上のエルシオ様の婚約者として分かりやすく典型的な悪役として登場するのです。
彼女は幼い頃より一国の王妃になるという重圧とも呼べる期待を背負い、上流階級における常識や教養を詰めに詰め込まれて育ちます。
実際にミルラ様は国内でも有力な公爵家の長女ということで、国王様からじきじきに、エルシオ様の将来の婚約者として認められています。ミルラ様自身もそのことを誇りに思っており、将来は、次期王妃になるのだと信じて日々懸命に努力を重ねていらっしゃるのですが……彼女のゲーム上における立ち位置は、あくまでも悪役令嬢。ゲームのヒロインであるティアが現れ、エルシオ様の心がティア様に向き始めたことを悟ると、嫉妬の炎にその身を焦がされて自滅の一途をたどるのです。このゲームにおいて、ミルラはヒロインを苛め倒した挙句にあっけなく婚約を破棄されるだけのために存在しているといっても過言ではありません。
そこまで思い当った時には、ミルラ様が今にも噛みついてきそうな形相になっていたのでぎょっとしました。
「ご、ごめんなさい……驚いてしまいまして。いかにも。私が最近エルシオ様の遊び相手を務めることになったネリというものです」
「……ふぅん」
ミルラ様は私のことを品定めするようにすうっとその瞳を細めました。
ちょっと……いや、大分嫌な感じです。
彼女は頭一つ分高い目線から、冷ややかに私を見下ろして高慢に告げたのでした。
「単刀直入に要件を言いますわ。エルシオ様につきまとうのをやめてくれませんこと?」
ああ。
この台詞、すっごく聞き覚えがある。
ゲームの中のミルラも、初登場シーンで、全く同じ台詞を放っていたからだ。
ゲームの中の彼女もまた、ティアがエルシオとお互いに惹かれあい始めた頃、颯爽とヒロインの前に現れてひらひらと波打つ紅いドレスを靡かせながら高慢そのものといった感じで、今のと全く同じ台詞をティアに告げるのです。違いは年齢くらいのものでしょう。ゲームの中の彼女は二十歳だったけど、今、私の目の前に立っているミルラ様はエルシオ様と同い年の八歳です。
私が心身ともにれっきとした五歳でしたら、きっと目の前の彼女の並々ならない気迫に震えあがっていたのでしょうが……今の私は何度も申しました通り、精神年齢はれっきとした大人なわけで困ることも震えあがることもありませんでした。
というか、本来、ミルラ様が嫉妬するべきは私ではなくこの先十年後に現れるティア様なのです。エルシオ様から認識されているかすら危うい私に対して嫉妬も何もないでしょう。
「うーん。それは無理な相談です」
「なっ……! あなた、本気でファリアラント公爵令嬢である私に逆らう気ですの?」
「ええ。私がエルシオ様につきまっとているのは他でもない王妃様からのご依頼ですので」
権力を振りかざす相手には、有無を言わさぬ圧倒的な権力を。
子供らしくもなく冷静に言い返してみると、彼女はあわあわと白い顔を真っ赤に染めていき、唇を噛みしめて私のことを睨みつけました。
「そ、それはっ……何かの間違いですわ! だって、婚約者である私をさしおいて、あなたみたいなみすぼらしい娘があのお方のお傍にいるだなんて、あってはならないことですもの!」
ミルラ様の訴えるような叫び声が廊下に響き渡りました。
たしかに、婚約者である彼女の立場からすると、どこの馬の骨とも知れない私がエルシオ様にお会いすることを許されつきまとっているという今のこの状況は実に面白くないことでしょう。
「ご安心ください。私はあくまでも遊び相手としての自分の立場をわきまえておりますよ」
この言葉に、嘘はありません。
エルシオ様がこれから歩むことになる孤独にして過酷過ぎる十年間。
望まれなくても、突き放されても、私だけはあのお方の味方になろうって決めたのです。
彼がティア様と出逢うまでの間は、欠片でもいいから彼の支えとなることができたら、それこそが私の本望だ。そして、今から十二年後に彼がティア様と出逢った後は、二人が幸せな恋路を歩めるように全力でサポートするのです。
「そ、そんなことは、当たり前ですわ! 私は、あなたがあのお方の傍にいるということ自体が気に入らないと言っているんですのよ!」
「でも……ミルラ様は婚約者なのだから、いつでもエルシオ様にお会いできる立場でしょう。ミルラ様も、彼にお会いなさればよろしいのではないでしょうか」
ぐっと声を詰まらせたミルラ様に、私はわざと、彼女の痛いところを刺激するように言いました。
「それとも、彼にお会いしても無視されるだろうから、お会いすることを躊躇っていらっしゃるのですか?」
ミルラ様の瞳に、ハッキリと痛みと憎悪の色が濃く浮かび上がった時、私はハッとしました。
わざと悪意を込めて放ったその言葉は、正に彼女の抱えていた地雷を見事に踏み抜いてしまったようでした。
「っっ!! 私に生意気な口を聞いたこと、後悔なさい!」
ミルラ様がありったけの憎しみをぶちまけるようにそう叫んだ瞬間、私は突然彼女の背後から現れた大人の男の人にあっという間に後ろから羽交い絞めにされていました。いくら精神年齢は大人であると言えど、身体は五歳児そのもの。この小さな女の子の身体で大人の男性に力勝負で勝てるわけもなく、いくら抵抗を試みたところでびくともしません。冷や汗が頬を伝りました。
「ちょっと! 離してください!!」
もちろん、素直に聞いてもらえるわけもなく、腕はがっちりと拘束されたままで。
もしかしてこれって結構マズイ状況なのでは……? と不安になり始めた私を、ミルラ様は勝ち誇ったように艶やかに微笑んで見つめているのでした。
「この者を、地下の倉庫に閉じ込めなさい」
私を羽交い絞めにしている男がミルラ様の命に従い、じたばたと必死の抵抗を試みる私を力で抑え込んで今来た道と反対方向に引きずってゆく中で、私の心は絶望的な暗闇の中にまっさかさまに堕ちてゆきました。
それは、これから先の自分に待ち受けている、理不尽な罰に対する恐怖ではありませんでした。
むしろ、私はどんな目に遭っても良いし、その覚悟は固まっている。
でも。
私はこれから、エルシオ様にお会いしなければならないのに。
何があっても、絶対にお傍を離れないって、あのお方に約束したのに。
たとえ、一方的な約束だったとしても、それだけは破るわけにはいかないのに。
ミルラ様の意地悪な笑顔とエルシオ様のお部屋がどんどん遠ざかり、彼女の忠実な僕に引きずられていく中、今、私はあのお方との約束を破ろうとしているのだという絶望感に苛まれ、どんどん気分が悪くなっていくのでした。
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