【SS③欲しいのは、ただ一つ】


 あの忘れもしない倉庫事件から、もう一年近くも経ったのだということがにわかに信じがたいです。


 晴れてエルシオ様から人権を付与していただけた私は、目がくらんでしまいそうなほどに光り輝く幸福の最中におりました。


 皆さん、考えてもみてください。


 お部屋を訪ねてゆけばきちんと振り返ってくださり、その高潔なる視界の中に入れていただける。


 それだけにとどまらず、この前、やむえをえない理由により訪ねていくのが遅れてしまった際には、


『大丈夫、だったか? ネリの都合であれば一向に構わないのだが、またミルラのような者に苛められたりはしてはいないよな……?』


 と、気遣ってすらくださりました……! 


 一召使見習いにして遊び相手にすぎぬ私にすらこれほどまでの慈悲をかけてくださるなんて、感涙の果てに身体が干上がりそうでした。


 ああ、エルシオ様はやはり空より広大にして、海より深い御心をお持ちです。



 エルシオ様ご本人から直々に遊び相手として認めていただけたあの日から、もう一年という月日が過ぎ去ってしまったなんて、どうにも信じられません。


 そこそこの月日が経ったように思いますが、未だに彼のお部屋を訪ねるまでの道のりは胸がどきどきと高鳴りますし、そわそわしてしまいます。

 この冷めやらぬ敬愛の念は慣れて色褪せてしまうどころか、日々、小さな雪の塊が雪道を滑り降りて大きくなるように膨らんでいくばかりです。



 でも考えてみれば、それは至極当たり前のことなのです。


 だって、エルシオ様は、前世の私にとって生きる意味も同然でしたから。


 その他でもない彼と、ほとんど毎日同じ時を共有させていただけている。


 彼とご一緒できるという何にも増して尊い時間が日常の一部になりつつある今の私は、前世の私が見たら発狂して嬲り殺しにかかるほどの幸せ者でしょう。



 たとえば。

 

 今、神さまに天国に連れて行ってあげようといわれても私は首を横に振ると思います。


 天国そこがありとあらゆる苦痛や悲しみから逃れられ、永遠の安寧を約束されている場所なのだとしても、そこにエルシオ様がいらっしゃらなければ、その場所は私にとって何の価値も持たない。


 私は綺麗で優しいものだけに包まれて微睡まどろむことよりも、時には目を背けたくなるほどに苦しいことや哀しいことも起こりうるこの世界で生きてゆくことを選びます。


 私の幸いは、エルシオ様なくしては生まれないのです。


 彼への篤い信仰心だけは、誰にも負けないつもりです。


 こんなにも彼のことを深くお慕いしている私です。


 エルシオ様に眩いばかりの幸福を掴んでいただくためにも、万全を期して全身全霊でサポートをする所存でございます。



 さて。


 今日もまた新たに誓いを立て直して彼のお部屋に向かっていたところで、ふと廊下の曲がり角の方から、ただならぬ視線を感じて足が止まりました。


 恐る恐る、私の様子をうかがうように曲がり角から半分だけ顔を出していたのは、栗色の瞳が庇護欲をそそる感じの可憐な女の子。


 穴が開きそうなほどにじいっと私のことを見つめている彼女。


 シンプルだけれども品の良い若葉色のドレスを身にまとっているところを見るとお嬢様のようですが…………それにしても、異様なまでに熱烈に見つめられています。


 一体、だれ…………?


 突然の熱烈な凝視に圧倒されて立ち尽くしていると、彼女は意を決したようにすっと小さく息を吸い込んで、おどおどと私の前にその姿を現しました。


 肩上あたりで揺れているふわふわの髪。か細い身体は、こちらにまで緊張していることが十二分に伝わってくるぐらいに震えています。


 正に、守ってあげたくなる系の女の子。

 とってもキュートです。


 彼女は震える唇で、見ているこっちの方が応援したくなってしまう雰囲気を醸しながらおずおずと口にしました。


「あ、あなたが、噂のネリさん……ですか? あのエルシオ様のに抜擢されたという……」 


 げ、下僕…………!


 可愛らしい唇から飛び出た突然の問題発言に、フリーズしました。固まりつつも、思考だけは忙しく飛び回っていました。


 下僕…………?


 もしかしてそれって……間違ってないどころか、むしろ大正解では?

 

 だって、


 遊び相手といわれるよりも、ずっと腑に落ちてしっくりきてしまいましたもの。


 よく考えてみれば、見上げても霞んでしまって見えないくらいの高みに君臨していらっしゃる彼と、ちっぽけな私が一応のところは対等な立場に立っているという考えの方がおかしかったのでは……?

 


 それにしても、エルシオ様の下僕、とは――


 ――なんて、なんて背徳的な香りのする甘美な響きなのでしょうか!? 


 いけない。なんだか、ドキドキしてきてしまいました。


 目の前の彼女が意図して発言したかどうかはともかく、この発想の転換は目から鱗でした。こんなの、私にとってはむしろご褒美以外の何物でもありません。



「そ、そうですっ! 私こそがエルシオ様の下僕のネリでございます!」

「ひうっ……」


 あ、あれ、後ずさられてしまいました。


 目を爛々と光らせて、突如、叫び気味に発言してしまったのがいけなかったのでしょうか……心なしか、彼女の怯えが大きくなったような気がして、切ないです。


 こほんと咳払いをして身を引くと、首をかしげました。


「それはそうと、私になにか用事ですか……?」


 私の言葉にハッと息を呑んで、身を固くする彼女。


 私の下にやってきた本来の目的を思い出したのか、明らかに目を泳がせて、呼吸すらもおぼつかないほどに焦燥していくその様子は見ているこっちが心配になるほどでした。


 な、なに……?


 見ているこっちが緊張してしまうほどの凄まじい緊張っぷりに呑み込まれそうになった、その時。


 ついに決意を固めた彼女が私の近くまでやってきて、両手でバサッと何かを差し出したと思った次の瞬間、彼女はとんでもなく嚙み噛みで、息も絶え絶えに早口で言葉を押し出したのでした。


「え、えっと……! こ、ここここここれをっ……エルシオ様に、渡してほしいんです! そ、それ、だけでしゅっ」


 手に握らされたそれは、淡い桃色の可愛らしい便箋。


 こ、これは………………!


 封をするのに赤いハートのシールが貼られているのをみて、確信しました。


 これは、所謂世間でいうところので、ほぼ間違いない――


 ――これこそ、噂に名にし負う、恋文ラブレター!?


 突然の予期せぬ事態に、固まること数秒間。


 目の前の彼女の様子をそうっと伺うと、瞳にうっすらと涙をにじませた彼女は熟れた林檎もびっくりの真っ赤な顔をしていて。


「で、ではっ! そ、それだけなんでっっ!」


 声をかける間もなく、嵐のように去っていったのでした。



 な、なんということでしょうか。


 あれは……どう見ても、恋する女の子以外の何物でもありませんでした。


 しかし、もともと美しくて気高いエルシオ様であらせられます。しかも、最近の彼は以前にも増して柔らかい表情をなさることが多くなりました。


 このような事態は、いつ起きても全くおかしくなかったのです。


 むしろ、今まで起こらなかったことのほうが不思議なくらいです。以前はそれほどまでに剣呑なオーラを張り巡らせていたということでしょうか。



 唖然としながら、手元に残された桃色の手紙を見つめました。


 エルシオ様には結ばれるべき定めし運命の乙女がいらっしゃるので、残念ながら彼女のことを心の底から応援することはできません。


 でも……エルシオ様に惹かれた彼女の気持ちは、痛い程に分かります。


 それに、相手に想いを伝えるというのはものすごく勇気のいることです。


 あの臆病で気弱そうな彼女が、これだけの行動を起こすのには一体どれほどの勇気が必要だったことでしょうか。きっと死に物狂いで、私にこの手紙を託したに違いありません。


 成就を願うことはできないけれども、せめて想いは伝えなければ。

 


 かくして。


 彼は私がお部屋の扉を叩くなり、ぱたぱたと駆け寄ってきて開いてくださりました。


「ネリ……! 遅かったな」

「じ、じつは……これを、エルシオ様にお渡ししなければならなくなりまして……」


 やってきたエルシオ様の前に、先程、彼女から受け取った恋文を差し出した瞬間、彼は瞳を丸くして、ハッと息を呑みこみました。私から手紙を受け取るその手は、かすかに震えているような気がしました。


 おずおずと私に視線を定めた紅蓮の瞳は、いつになく戸惑いが揺れているように思えました。


「……手紙、か?」  

「そ、そうです」

「ふ、ふむ。お前が私に手紙とは……珍しいことも、あるものだな。…………後で、じっくり読むことにするか」


 うつむいてしまれたのは、動揺して顔に熱が集まり始めたことを悟られまいとしたためでしょうか。


 金の髪からのぞく白い耳が、うっすらと朱色に滲んでいく……。


 思いがけないその初々しい反応に、まるで私自身がラブレターを差し出したかのような錯覚に陥りそうで。


 本来自分が味わうべきではないドキドキと動揺を隠すべく、私は慌てて、言いました。


「そ、そうですね……! 、その方が良いかと思います」


 へらりと笑顔を浮かべたその瞬間。


 形の良い耳が、見ているこちらが驚くほどにぴくりと反応しました。


 ゆらりとあげなさったそのご尊顔は……気のせいかどこか引き攣っているような気がする。


「…………?」

「実は……先程お会いした女の子に、この手紙をエルシオ様に渡すように頼まれたのです。とっても愛らしい感じのお方でしたよ。どこか、高貴な家柄のお嬢様だと思います」

 

 しばし、居心地の悪い沈黙が落ちました。


 ややもして。


 その沈黙は、容赦なく桃色の恋文とともに引き裂かれたのでした。


 あろうことか、しれっと乙女の想いのこもった尊い手紙を破り去いたよこのお方…!! 


 鬼なんですか!?


「ああああああああああっ! エルシオ様!? 女の子の手紙をちゃんと読みもしないで破り捨てたらダメじゃないですか!?」


 無残にも床に舞い落ちた恋文の亡骸を見つめて悲鳴をあげると、肩を震わせたエルシオ様がもごもごと聞き取れない程に小さな声で何か呻いていました。


「………………一瞬、淡い幻想を抱いた私が大馬鹿者だったということか」

「へっ?」


 心配になって覗き込もうとした瞬間、がっくりと項垂れていたエルシオ様が勢いよくそのお顔をあげなさって、びくりと身が震えました。くっ。毎日見ているとはいえ、この至近距離だと、心臓に悪すぎる麗しいご尊顔だ……!


「たった今、決めたことがある」


 不敵に微笑むエルシオ様。


 形の良い唇の端が、綺麗に弧を描くように吊り上がっていて。


「な、なんでしょうか……?」

「今後、女からの私的な手紙は受け取らないことにする」

「ええええええっ!?!? ど、どどどどどうしてですかっ」

 

 えっ!?

 それって、ティア様がエルシオ様ルートを辿るうえで重大な障害をきたしたりはしないですよね? 


 唐突なとんでも発言に頭をぐらぐら混乱させながら、必死に前世の記憶を掘り起こして手紙のやり取りはなかったかと検証し始めたのも束の間。


 不意にエルシオ様がそのご尊顔を私の方に近づけてきて。


 緊急事態に、思考回路が本気でショートする寸前で。


 驚きのあまり、魔法にでもかかったようにぴたりと静止した私は、暴れ始めた心臓を抑えつけることすらもままならぬまま、ただただ立っているということがやっとな状態。


 エルシオ様は少しでも動いたら触れてしまいそうなほどに近距離までその唇を私の耳元に近づけると、あまりにも甘美な声音で囁いたのでした。


「ネリはいつだって、口に出して真っ直ぐに伝えてくれる。手紙に美点がないとはいわないが……私は欲張りだから、やっぱりネリがその声で直接伝えてくれる言葉が、いちばん欲しい。ネリがそうしてくれる限り、お前の声も笑顔も届かない手紙なんて要らない。そうだろう?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る