ティア~私が王城で過ごした日々~③
×月×日
本気で心臓が止まるかと思った。
あの時のエルシオ様の眼は、間違いなく本気だった。
冗談でもなんでもなく、今まで生きてきて真面目に命の危機を感じたのは初めてだった。
あれから数時間たった今でも、未だに動悸がとまらない。
今日の夕刻。
ネリに言われたとおりに庭園に向かった私は、そこで偶然第一王子にお会いした。
第一王子、エルシオ=ラフネカース=ヴィグレント様のお姿は以前に肖像画で拝見したことがあったから、すぐに彼がエルシオ様なのだと分かった。
城下町にいた頃から、その噂もかねがね伺っていた。
シャルロ様とは別の意味で、彼に関する噂もまた国中に轟いていたから。
曰く、エルシオ様はあの悲劇的な事件によって、自分の心ごと焼失させてしまったのだと。
正直、エルシオ様とあの事件に対して、全く何の恐怖も感じていなかったといったら嘘になる。それでも、報道と人々の噂から表面的に事件について知ったにすぎない私が、勝手に彼に対して偏見を持つのはあまり良くないことだとも思っていた。
だから、お城に行くことが決まった時に決めたのだ。
もしエルシオ様と謁見する機会が訪れた際には、前情報に惑わされることなく、私自身が実際に彼と接して抱いた感覚を大切にしようと。
それなのに。
まさか初対面から、燃え滾るような殺意を向けられるとは思ってもみなかった。
怖かった。
怖すぎた。
本気で殺されるかと思った。
氷の王子様の異名とは何だったのか。
むしろ、燃え盛る火炎の魔王って感じだったよ……。
どうして彼があそこまで焦燥していたのかは全くわからない。
でも、ネリの名前を出した瞬間、彼の顔がハッキリと悲痛に歪んだことだけは確かだった。もしかしてだけど、彼は、ネリのことを探していたんじゃ……?
謎ばかりだけれども、唯一つだけ明確に言えることがある。
触らぬ神に祟りなし。
エルシオ様には関わらないでおくに越したことはないと学んだ。
×月×日
どうしよう……。
もし全部が私の見当違いだったなら、ネリに対して悪いことをしてしまったかもしれない。
私はてっきり、ネリはエルシオ様のことが好きなのだとばかり思っていた。
だって、エルシオ様のことを話すときの彼女の瞳はわかりやすく甘くとろけて、口元は自然と綻ぶ。
私からすると、あのお方をそういう対象として認識できることは俄かに信じがたかった。私にとってのエルシオ様は昨日から完全に恐怖そのものとなったから、ネリの気持ちは正直微塵も理解できない。それでも、身分の差を超えてまであんなにも想うのならば、きっとそれなりの理由があるのだろうって思っていた。
それが全部、私の気のせいだったようにはとても思えなかった。
だからこそすっかり気の緩んでいた私は、ついネリに自分の本心を打ち明けてしまっていた。
『シャルロ様のことが……気になる、かも』
夢中で喋った後、ふとネリに視線を向けた時、びっくりした。
あの時のネリは、幽霊みたいに蒼褪めた顔をして私のことを見ていた。
まさか……ネリが好きだったのはエルシオ様ではなくて、シャルロ様だったの?
一気に分からなくなってしまった。
ダメだ、頭がぐるぐるする。
×月×日
もし、ネリが好きなのがシャルロ様だったとしたら……。
今日の朝、ネリと顔を合わせるまではなんとなく冷や冷やしていたけれど、彼女はいつも通り、いや……むしろいつも以上に明るかった。
自分の仕事をこなすだけでも忙しいはずなのに、私の仕事まで手伝ってくれると言い出した時には目が丸くなってしまった。
急にどうしたんだろう……?
疑問には思ったけれど、手伝ってくれたこと自体はとってもありがたかった。
×月×日
ネリは、今日も元気に私の仕事を手伝ってくれた。
×月×日
悪いなぁ、と思いつつ、今日もまた……。
×月×日
同上。
×月×日
ネリが私の仕事の手伝いを手伝ってくれるようになってから、もう大分日がたった。
流石に心配になってきて、無理はしないでね? と言ってはみたけど、ネリは『大丈夫ですから』と健気に微笑むばかりだった。
本当に大丈夫なのかな?
なんだかここのところ目の下に濃い隈ができているような気がするのだけど……。
×月×日
私がお城に来てから二週間とちょっと経った今日。
あの時できれば現実にならないでほしいと感じた予感が、ついに確信に変わってしまった。
昼間。
私とネリは、私にあてがわれた研究室を目指して一緒に歩いていた。
廊下を曲がった瞬間、シャルロ様が自分の指を凝視しながら痛ましげな顔をして壁にもたれかかっているところに出くわして、心臓が飛び跳ねた。
そうかと思ったらついさっきまで隣にいたネリが風のように駆け出していって、呆然とするシャルロ様の下に駆け寄った。そのまま彼女は躊躇うことなく彼の腕を引っ張って、二人で談話室の中に消えていった。
それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
でも、それで分かってしまった。
ネリはやっぱり……シャルロ様のことが好きだったんだ。
そうじゃなかったら、まるで火でもついたように飛び出していったことに説明がつかない。
それに……遠くからほんの少し見えただけだったけれども、シャルロ様は駆け寄ってきた彼女を視界に入れた瞬間、明らかに動揺していた。
あの時の彼は、妖艶な彼とも、淋しそうな彼とも全然違った。
ぼうっと頬を赤らめて彼女を見下ろしていた彼はまるで……普通に恋する、ただの少年のようだった。
もしかしたら二人は……以前から、秘密の恋を育んでいたのかもしれない。
私には、何も打ち明けられなかったネリのことを責める謂れはなにもない。
きっと、彼女は、私があんな風に想いを打ち明けてしまったから言い出しづらくなってしまったのだと思う。
ネリかしたら呑気に新参者の私から彼への想いを打ち明けられて、本当にいい迷惑だっただろう。知らなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまった。
ネリに、謝らなきゃって思うのに。
いざ彼女の顔を見たら、勝手に傷ついてしまいそうな自分がいて、すこし怖い。
こんな風に思ってしまうのは、自分勝手なんだって分かっていても……やっぱり、少しだけ胸が痛い。
×月×日
あぁ。
結局、ネリに謝れなかった。
それどころか、毎日手伝ってもらっていたのに、急に断ったりなんかして……絶対に不審に思われた。私、本当にダメダメだ。
色々と思い悩みすぎてあまりにも眠れなかった私は、夜風にでも当たろうと思ってさっきまで外に出ていた。
そこで予想だにしない事態が起こるとも知らずに。
満月が冴え冴えと光っていて、綺麗な夜だった。
外に出たら涼しい風が頬を撫でつけて気持ちよかった。落ち着かないこの気持ちをそっと冷ましてくれるようだったから。
こんな遅い時間にまさか誰も外に出ているはずがないって勝手に思い込んでいたから、相当気が抜けていた。だから、庭園に足を踏み入れた瞬間、ベンチに人影が見えた時には驚きすぎて悲鳴を上げそうになった。
宵闇の中でも、その瑪瑙の瞳は埋もれることなく赤く光っていた。
それは……私が、この城の中で最も出くわすことを恐れていたお方だった。
以前お会いした時に完全に恐怖を植えつけられていた私は、幽霊か何かのように暗い雰囲気をまとったエルシオ様がそこに腰かけているのを発見した瞬間、脳髄反射的に逃げようとした。
でも。
『待て』
ぴたりと、逃げ出しかけた足が止まった。
まさか、呼び止められるなんて。
驚きすぎて自分の耳を疑ったくらいだった。
その声は静かだったのに、やっぱり並々ならない威厳に充ちていた。
『…………私は、お前に謝らなければならない。以前、初対面だったにも関わらず、私は自分の勝手な都合で、お前に酷い八つ当たりをしてしまった。あの時の私は……本当にどうかしていた』
まさか謝られるだなんて思いもしていなかったら、唖然としてしまった。
その時、初めて、エルシオ様のお顔をきちんと正面から見ることができた。
エルシオ様は、前にお会いした時とは全然違っていて、氷の彫像のように冴え冴えとしていた。
少しして彼が放った言葉が、さらに私を驚かせた。
『ティア。お前には、酷く勝手なことばかり言っていて、本当に申し訳ないと思う。ただ……もし、知っているのなら、どうか教えてほしい。どうすれば、惹かれてやまない相手への想いを永久に凍結させることができるだろうか』
その一言がきっかけとなり、私とエルシオ様は互いの報われない恋心について打ち明けあることとなった。そして、同じ悩みを共有する、唯一無二の仲間となったのだ。
まさか、少し前まで殺気を向けられていた相手と、こうも自然にお話しできるようになるとは。なんだか不思議な巡りあわせだなぁと思う。
×月×日
聞けば、エルシオ様はずっと昔からネリに恋い焦がれていたのだという。
彼女に想いをきちんと確かめたことはこれまでなかったらしい。
でも、自分を慕ってくれているような言動から、きっと彼女も自分と同じように感じてくれているはずだと信じて疑っていなかった。
つい、数週間程前までは。
ちょうど私がこのお城にやってきた頃あたりから、彼女の不可解な発言や行動が目立つようになり、エルシオ様は不安に苛まれ始めたのだと仰った。
そして、一昨日。
ネリに会いに談話室に向かった彼は、決定的な瞬間に立ち会ってしまった。そこで、エルシオ様も私と同じように確信し、絶望した。
ネリが愛したのは、自分ではなく、シャルロ様だったのだと。
エルシオ様は、私の様子を気遣わしげに見やりながら、哀しそうに呟いた。
『………………シャルロも、昔から、ネリのことが好きだった』
その時、一年前の握手会でシャルロ様が震えながら私に仰った言葉が、ふいに蘇った。
『…………一番聴いてほしかった人が、来てくれなかったんだ』
ようやく分かった。
あれはきっと……ネリのことだったんだ。
もしそうならば、今のシャルロ様は、愛する彼女と一緒になることができて本当の意味で幸せを感じているのだろうか。
難しい顔をして考えていた私の隣で、エルシオ様が狂おしそうに言葉を吐き出した。
『なぁ、ティア。私は、彼らが仲睦まじげにしている姿を見たら……正気ではいられない。この狂おしいほどの想いを早く断ち切らねば……きっと、彼女のことをも愛したが故に壊してしまう。それなのにっ……そう思えば思うほど、彼女のことが愛おしくなって……おかしくなりそうだ。もう、どうしたら良いのか、わからないっ』
聞けば聞く程、エルシオ様のネリに対する想い入れは、並々ならなかった。
こんなにも深く激しく彼女のことを愛しているこのお方が……状況が変わったからといってそう簡単に想いを断ち切ることは、不可能だと思った。
絶望に苛まれるエルシオ様を、少しでも救いたかった。
『そんなに好きなのに突然諦めるなんて、絶対にできませんよ。だから、想い続けても良いんです。感情をぶつけて相手に迷惑をかけてはいけないけれど……深く愛していればこそ、すっぱりと諦めるよりも、穏やかに相手のことを想い続けるほうが楽なのではないですか? たとえ、叶わなくとも』
本当は、まだシャルロ様への想いを棄てきれない自分に対する慰めでもあったのだけれども。
×月×日
今日は数日ぶりに、廊下でネリとすれ違った。
なんだか、すごく痩せたような気がする。
それに、酷く浮かない顔をしていて、私が声をかけても気づいてすらいなかった。
ネリは、シャルロ様と一緒になれて幸せになれたのではなかったの……?
もしかして、彼女は何か、隠し事をして……。
最近は、なんだかみんなが暗い顔をしているような気がする。
唯一の慰めは、国王様のお加減が少しずつ良くなり始めていることくらいだ。
×月×日
日に日に無表情になっていくネリを見ていると、なんだかこっちまで辛い気持ちになってくる。
エルシオ様は気づいていなかったみたいだけれども、私とエルシオ様が庭園で相変わらず互いの片想いを慰めあっていた時に、ネリがバルコニーから私たちの様子を蒼白い顔でうかがっていることに、私は気づいてしまった。
ねぇ、ネリ。
貴方、やっぱり、何か隠し事をしていない?
だって、あの時の貴方はあんなにも焦がれるような瞳でエルシオ様のことを……。
こんな風に考えてしまうのは、所詮、私の報われない恋心か作り出した都合の良い妄想なのかもしれない。だから、私からは、やっぱり何にも言えない。軽々しく無責任なことなんて、言えるはずがない。
これは、他でもない彼女自身が、決めることだ。
×月×日
国王様が、ついにご自身の力で立ち上がられたことは、最近起きた出来事の中で一番嬉しいことだった。
国王様は早速私の働きぶりに敬意を表するための晩餐会を開くと宣言してくださった。
涙が出るほどに、嬉しかった。
辛いこともあったけれど、これまで頑張ってきて、本当に良かった。
×月×日
明日は晩餐会だ。
ネリは、答えを見つけ出したのだろうか。
私の答えは、もうとっくに決まっている。
私は……どんな形であれ、シャルロ様のことをただ密かに想い続けようと思う。
*
晩餐会で、突然踊るように持ち掛けられたときは流石に焦ってしまった。
でも、エルシオ様が堂々とリードしてくださったから、なんとか無事にダンスを踊り終えることができた。
今、私は、同じ思いを共有している彼と共に月を見上げながらぼんやりと庭園のベンチに腰かけている。
ネリのことを今でも深く想っている彼のことだ。
当然、彼女がシャルロ様と一緒にあの場を抜け出したことにも気づかれていると思う。今、隣で月を見上げている彼のお顔は、幾分凪いでいるように見えるけれども……本当のところは、無理をされているのではないだろうか。
「そう、暗い顔をするな」
驚いてエルシオ様の方を見やると、彼は変わらずに月を見上げたまま仰られた。
「勿論、吹っ切れたわけではない。むしろ、あの娘のことを想う気持ちは、以前にも増して強くなったように思う。少し前まではそのことに対して強く焦りを覚えていたが……ティアの言葉を聞いてからは、別に変わらず彼女のことを想い続けても良いのだと思うことができるようになった。ティアには、随分と助けられてしまったな。本当に、感謝している」
エルシオ様が私に向かって微笑みかけたその次の瞬間、遠くからこちらの方へ駆け寄ってくる足音が聞こえて、私たちは一斉に振り返った。
気づけば、泣き腫らした顔をしたネリが私たちの目の前に立っていた。
ネリの瞳に、もう迷いはないように見えた。
彼女がこれまで何に対して葛藤していたのか、私には分からない。
でも、ネリがここまでやって来たということは、きっと彼女なりの答えを見つけたのだと思う。
そしてもう一つ、確実に分かることは……彼女と一緒にダンスホールを抜け出したあのお方は、今頃一人でいるということだ。
私が駆けつけても、ネリの代わりにはなれない。
そんなの、わかりきっていることだけれども……それでも、今はなんだか無性に、あのお方に会いたくてたまらなかった。
立ち上がった私はエルシオ様に手短にお礼を言うと、引き留めようとしたネリの脇をすり抜けて、ただひたすらに駆け抜けた。
向かっていたのは音楽室だった。
確証はないけれど、きっと彼ならばあの場所にいるのではないかって信じて。
夢中で音楽室の扉を押し開いた。
シャルロ様は、独りきりで、静かに泣いていた。
月光にさらされた彼の涙が、私の胸をえぐるように光る。胸が締め付けられるようだった。
シャルロ様は、突然の予期していなかった来訪者に声も出せず、驚いて言葉も出ないご様子だった。驚いたその顔はなんだか、いつ見た時よりもずっと幼く思えた。
だから、だろうか。
今から大胆なことを言おうとしているというのに、なぜだかあまり緊張しなかった。
「…………シャルロ様。ネリに、振られちゃいました?」
「っ。なんなの? 突然来たかと思ったら、人の傷を抉りにきたわけ……?」
驚いた。
まさか、シャルロ様がこんなに子供っぽく怒るお方だとは思っていなかったから。
でも、いつもの艶やかに微笑んでいる彼よりも、今の方がずっといい。
「違います。宣言をしにきました」
「…………は?」
今告白しても、振られることはわかっている。
でも、焦らない。
「私は、いつかきっと、貴方を振り向かせてみせます」
この道は、きっと、決して楽ではない。
長い間シャルロ様の心を占めていた彼女は、きっとそう簡単には彼の中から消え去らないと思うから。
でも、私は、焦らずにこのお方と接していきたいと思う。
誰からも愛されるこのお方が最後に愛するのは……誰よりもこのお方の淋しさを埋めたいと願っていた私だと信じて。
【ティア~私が王城で過ごした日々~ 完】
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