第28話 ひび割れたあの日の記憶
笑顔で必死に促してみたものの、彼はぴくりと肩を震わせるのみで石のように固まっているのでした。
ややもして。
ふるふると首を震わせたエルシオ様は、むっと唇を引き結んだまま薬を突き返したのでした。
『…………やだ。それは飲みたくない』
『ええっ!? どうしてですか! 絶対に効くと評判の高熱薬なのですよ!』
『確かにその薬がよく効くということはこの身をもって知っている…………それでも飲みとうない』
『何故ですか!』
『嫌なものは嫌だ!』
『ダメですよ!』
彼はむうと、唇を引き結びました。
何故エルシオ様がこれほどまでに薬を飲むのを嫌がったのかは分からなかったのですが、こうなってしまっては後には退けませんでした。両者一歩も譲らず、といった空気でした。
少し経って。
私の一度決意を固めたら絶対に揺らぐことのない頑固な性質を知っていたからでしょうか。彼はため息を零すと、その切れ長の瞳を潤ませて私を真剣に見つめるのでした。
『どうしても……飲まないと、ダメなのか……?』
うっ。
熱に浮かされたようなとろんとした瞳で懇するようにそんな風に言うなんてあざとすぎる! 私は高鳴る胸を必死に沈めつつ、こほんと咳払いをして平静を取り戻しました。
危うく、エルシオ様の弱った兎のような視線に『いえ! 飲まなくても大丈夫です! ネリが悪うございました!』と言わされかねないところだった。言いかけたその言葉は喉まで出かかったところで、なんとか押しとどめました。
私は彼のお身体を慮り、心を鬼神の如く冷たくして、目の端を吊り上げたのでした。
『そのような目をしてもダメなものはダメなのです。いくらエルシオ様のお頼みでも、こればかりは聞き入れかねます』
小さく『ちっ』と舌打ちが聞こえた気がしたのは、幻聴だということにしました。びくとも揺れ動かない私の確固たる態度に彼はついに根負けしたのでした。
エルシオ様はふいっと私から顔をそむけると、小さくつぶやきました。
『…………じゃあ、ネリが飲ませてくれるならば、飲まないこともない』
彼の耳は、朱を垂らしたように、じわじわと赤く染まっていくのでした。
私が、飲ませる?
思考が完全に停止しました。
今度は、私が時間が止まってしまったかのように動けなくなる番でした。
エルシオ様はもう一度私の方を振り仰ぐと、すっかり固まってしまった私を見つめ、思いを決めたように言ったのでした。
『その瓶を、私の口に傾けてほしい。それならば、潔く飲もう』
ああ、成程。
一瞬、口移しでという意味かと思った自分を惨殺したい。
たとえほんの一瞬でも邪な気持ちをエルシオ様に対して抱いてしまったことに心の中で血の涙を流しながら、私はその瓶を彼の形の良い唇に傾けたのでした。エルシオ様は琥珀色の液体を口にするや顔をひどくしかめて、目をぎゅっと瞑ったのでした。
彼は肩を震わせながら、中々口に入った液体を咀嚼できないようでした。ものすごく時間をかけた末に、ようやくのことで呑みこむことに成功しました。
そうして、小さくため息をつかれたのでした。
『………………苦すぎる。やはりこれは人間の飲み物ではない』
エルシオ様は、いつになく恨みがましい眼をされて私を見ていました。
苦い?
その時、ある一つの可能性が私に飛来してきて、私は思わず手で口を覆ったのでした。
『エルシオ様。まさかとは思いますが、あれが苦いというだけのことであんなにも嫌がったのでしょう『うるさい!』
噛みつくような勢いで言葉を挟まれてしまったのでした。
私が驚いて見返すと、頬を見る見るうちに林檎のように真っ赤に染めて、しゅんとうつむいてしまわれたのでした。そして、ぽつりと呟いたのでした。
『…………大人げないことを言って、悪かった。でも、ネリが飲ませてくれたから、大分楽になった。ありがとう』
その日は結局、予定していたよりもずっと長く城を抜け出てしまったことによって第一王子が失踪したという噂が駆けめぐってしまい、城中に混乱を招いたことは言うまでもありませんでした。
これが昔からしょっちゅう城を脱走していたシャルロ様であれば城の皆も免疫がついているのでそこまでの騒ぎにはならなかったのでしょうが、普段から大人しく然るべきときにのみにしか外出されることのなかったエルシオ様の城からの脱走は初めてのことでしたので、無理もなかったのでした。
結局、慌てた国王様が一刻も早く息子を見つけようと軍隊を出動させ、城下街中が捜索部隊であふれかえってものものしくなってしまったのでした。城下町の一宿屋に滞在していた私とエルシオ様はあっさりと見つかってしまい、城へと連れ戻されたのでした。私は馬車に揺られて帰る間中、国王様の憤怒のお叱りを想像し、怖くて震えておりました。
エルシオ様の高熱は、翌日にはすっかり引いていたのでした。
それで安堵したのも束の間、私たちは国王様の元へと呼び出されました。
私は、この国王様のお説教が、天にも昇れるようなあの素晴らしく楽しかった時間に対する対価だとするならば、どんなに厳しいものでも耐え忍ぶべきだと心を決めておりました。
しかし、いざ国王様のお部屋に着くと、エルシオ様はあの無表情を浮かべたまま間髪入れずに、『ネリは全く悪くありません。全ての責任は私にあります』と言ってのけたのでした。
『何を仰いますか! たしかに抜け出したきっかけはエルシオ様になるのかもしれませんが、私もエルシオ様とお出かけできたこがあまりにも楽しくて舞い上がり過ぎてしまい、中々帰ろうと言い出せませんでしたし、それに……』
どちらがより悪かったかというあまりにも不毛な議論を繰り広げ始めた私とエルシオ様を、国王様は目を細めながら見つめており、やがてぽつりと呟いたのでした。
『…………エルシオが、自らの望みを口にし、実行したのはいつぶりだろうか』
『『えっ?』』
私たちの素っ頓狂な声が重なった時、国王様はいつになく柔らかい面持をなさりました。それは、永久凍土に差した、あたたかい春の陽だまりのようでした。
『…………本件に関しては、何も咎めまい』
隣に立つエルシオ様からは、昨日二人で城下町に飛び出した時のような色鮮やかな表情は抜け落ちていました。その時は昨日のことは夢か幻だったかのようにすっかり元通りの冷たい無表情に戻っていましたが、国王様がそのようにおっしゃった時だけ、わずかに瞳を揺らしたのでした。
私は首を傾げながら、国王様に向かって微笑んだのでした。
*
これは……遠い日の記憶だ。
九年前のあの日のことは、今までずうっと私の胸の中で宝石のように光り続けていた。たとえ苦しいことや辛いことがあって心が冷えそうになった時にも、その思い出は、いつでもそっと私の心を包みこんで温め続けてくれていた。
でも、今の私はもう、エルシオ様から見棄てられてしまった。
ずうっと彼のお隣を歩いていられたらだなんておこがましいことを思っていたわけではない。彼の凍えきってしまった心を本当の意味で温めなおせるのはティア様だけなのだと分かっていたから、思い上がっていたわけでもない。でも、せめてその御心が冷えきってしまわないためのお手伝いが少しでもできたら、これ以上にはない幸いだと思って、生きてきたのに。
私は、エルシオ様に突き放されるということの意味を、本当には分かっていなかった。
ティア様と結ばれて幸せになられた後も、幸せに満ち溢れたお二人の傍に仕えさせていただければ完全に離ればなれになってしまうことはないと思っていた。エルシオ様の中でティア様に割く時間が大きくなっていき、それが中心になったとしても、私という存在が完全に彼の頭の中から追いやられてしまうことはないのではないかと、楽観的に考えていたのです。
でも、もしかすると、エルシオ様とティア様が結ばれるということは、エルシオ様の中からネリ=ディーンという存在が消えることだったのかもしれない。
今や、あの九年前の記憶にはひびが入って、すっかり輝きを失ってしまった。
あの日の記憶は、もう私を慰めもしてくれないし、温めてもくれない。
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