第26話 あの雪の日のこと

 ドアを背に、もたれるようにして座り込んで、目を瞑りました。


 少し経ってハッと目覚めた時、いつもよりもずっと自分の身体を重く感じて嫌な予感がしました。


 何だか、身体が内側から焼かれているかのように、熱い。額に手を当てた時、玉のような汗がびっしょり張り付いていることに気づき、ぎょっとしました。


 ふらふらと、引き出しの中にしまってある体温計をどうにか引っ張り出して、ベッドに腰かける。体温計を脇の下に差し入れて結果を待つ間中、身体のいたるところから汗がしたたり、頭は霞がかったようにぼうっとしているのでした。


 体温計の無機質な音が部屋に鳴り響いた時、恐る恐る取り出してそこに表示された数字を覗きこんだ時、頬をひっぱたかれたようでした。


 三十九度近くもの高熱。

 信じられなさ過ぎて、空いた口が塞がらない。

 眩暈とショックから、ベッドに崩れ落ちるように倒れこみました。


 この世界に生まれてから、これほどの高熱を出したことは今まで一度もなかった。


 まさか、この私に限って高熱を出すなんてありえない。

 今まで常に元気なことだけが取り柄の、自他共に認めるラフネカース城の元気印だったのに。


 部屋の前を通りがかった同僚のメイドを呼び止めて、『申し訳ございませんが高熱が出てしまったため、本日は午後休をいただきます』と現召使長リーダーに伝えてもらったところ、すぐに噂を聞きつけた母が、私の部屋の前まで様子を伺いにやってきました。


 彼女は断りもなくどたばたと私の部屋に入り込ってくると、息も絶え絶えにベッドの上で弱っている私を見るや、あんぐりと口を開けて仰天。


「あんたが高熱!? 明日はひょうでも降るかも……」


 失礼しちゃいますが、母なりにすごく心配してくれていることもよく伝わってきて、心が少しだけ温まったのでした。


 彼女は私の額にそっと手を当てて、目を見開きました。それから、いつになく語気を強めて言いました。


「ひどい熱じゃない! ちゃんと休養室に行って、お医者さんに診てもらわないとダメよ」

「そ、そこまでしてもらうほどでは……」

「ほら。私が運んであげるから」


 彼女はむずがる私を半強制的に立ち上がらせると、軽々と私を横抱きにしました。


「今日一日、部屋でゆっくり休んでいれば、治りますっ」


 そうはいっても、熱によってかなり脳みそがとろかされていたのも事実で、母の気迫に負けた私は大人しく彼女に従ったのでした。


 母に揺られながら休養室に足を踏み入れた時、薬品の独特の匂いが鼻をかすめました。


 ツンと、鼻が痛くなりました。この世界に生まれてからは今までほぼ病気になったことがありませんでしたし、多少の体調不良も睡眠のみで蹴散らしてきたというのに……とても、悔しい思いでした。


 彼女は私を立ち並ぶベッドの内の一つに優しく下ろすと、「お医者さんを呼んでくるから、待っていて」と言い残し、颯爽と出ていったのでした。清潔な白いシーツをぼんやりと見おろし、私はそのままベッドに沈んでゆきました。


 母が出ていってから、彼女が呼んでくれたのであろうおじいちゃん先生がやってきて、容態を診てくれました。診察結果は、高熱を伴う厄介な風邪とのことで、命に別状はないけれどもじっと耐え忍んで眠るほか有効な治療方法はないとのことでした。


「心配せずとも、よく眠れば治る病だ。辛いだろうけれども、じっと耐えて眠りなさい」


 おじいちゃん先生は、「休養室は気のすむまで使っていて大丈夫だよ。お大事にね」と言い残し、他の病人を診るべく立ち去っていったのでした。


 それからは、地獄の業火で焼かれるかのような苦悶と戦い続けました。酷い高熱は、私に眠ることすら、許してくれないのでした。


 人は病を患ってはじめて、健康であることのありがたみを痛い程に感じるのですね。


 失って初めて気づく、かけがえのない大切なもの……。


 一瞬、誰かが脳裏をかすめた気がするけれども、その幻影もすぐに苦渋の波に飲み込まれて、見えなくなってしまったのでした。


 熱い、苦しい、痛い。


 しばらくベッドの上でのたうちまわった後、時間が経つごとに少しずつこの身を焼き滅ぼそうとせんばかりの熱が引いてゆき、ほんのちょっと楽になりました。このまま静かに熱が引いていくことを祈り目を瞑ると、もがき続けて体力を奪われていた分、すぐに眠りの世界へと引き込まれていったのでした。



 降りしきる雪の中。


 白いぼんぼりのついたニット帽を目深にかぶったまだ幼いエルシオ様が、隣を歩いていらっしゃる。


 これは、夢だ。

 九年前のあの日のこと。

 あの日は、一面に雪が降って、ラフネカースの国中を真っ白に染め上げていました。


 その頃は、まだあのシネカで起きた凄惨な事件からそこまで日が経っていなかったこともあり、エルシオ様は今よりもずっと表情が堅かったのでした。お部屋に閉じこもられていることも多く、その御心はかなり塞いでいたように思います。


 それでも、雪の降ったあの日はそんな彼が久しぶりに談話室に訪れてくださったのでした。


 その時の彼は精巧な人形と見紛うほどに無表情でしたが、それでも私は彼がお部屋から出てこられたというだけで心にお日様が降り注いだみたいに嬉しくなって、はりきって特に身体の温まる紅茶を淹れようとしたのです。


 しかし、そこではたと気づき、青ざめました。


 こともあろうに、エルシオ様が久しぶりにお顔を見せて下さった時に限って、お砂糖が無い!


 エルシオ様は、ああ見えて実は大の甘党なのでした。そのことは、あの忘れもしないキャンディー事件が雄弁に物語っております。


 その彼があの事件以降久しぶりに談話室に顔を見せてくれたのだから、たっぷりとお砂糖を入れた甘い紅茶を振る舞わなければと意気込んだはいいものの……こういう大事な時に限って、私としたことがなんということだろう。


『申し訳ございません! 折角、エルシオ様が久しぶりに談話室に遊びに来てくださったというのに、本日に限ってお砂糖を切らしてしまっていて……。私、今すぐに、城下街に出て買ってまいります! エルシオ様はここでお待ちくださいませ』


 彼は無表情をわずかに突き崩して私から視線をそらし、唇を少しだけ尖らせました。


『…………別に、私はそこまで甘いものにこだわっているわけでは』

『嘘は見苦しいですよ』


 私たちの間に、しばし奇妙でなまあたたかい沈黙が流れました。私がじっと目をそらさずにエルシオ様を執拗に見つめ続けた結果、彼は根負けして小さくため息を吐いたのでした。


『むう…………ならば、私も一緒に城下街に出よう』


 仰天しました。

 こともあろうに、エルシオ様が自ら城下町に出られるですと!?

 しかも、よりにもよって、雪が降りしきり凍える程に寒い今日という日に!


 その日は、吐く息があっというまに凍ってしまうほどの寒さなのでした。第一王子という尊いご身分の彼を、そんな切り刻まれるような寒い空間に放り出すわけにはいかない! と、当時の私は、慌てて抗議したものでした。


『そ、そんなっ。本日はとても寒いですし、エルシオ様をこんな些末なことで煩わせるわけにはいきません!』

『久しぶりに、外の新鮮な空気を吸いたい気分なのだが』

『ええっ! で、でも、雪が降っていますし、なにも今日でなくとも良いのではっ』

『ほう。この私に逆らうのか?』


 彼は、ぐっと押し黙った私を見ると、形の良い唇の端をわずかに吊り上げました。私が彼に逆らうことなど天地が引っくり返ってもあり得ないと、分かっていて言っているのです。


 エルシオ様は時に……すごく意地悪です。

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