第18話 彼のみぞ知る
ティア様がこれから薬草の元となる野草を摘みに出かけるというので、私は肩を落として、やむなく彼女のお部屋から引き下がったのでした。
自分に殺意を抱いているらしい相手から、なるべく遠ざかるようにする。
ティア様のご判断は極めて正常で、非難を挟む余地すらありません。
彼女の中では、すっかりエルシオ様に狂人の烙印が押されてしまったようでした。
あの後、とてつもなく焦った私は、彼女の中の彼の悪印象を少しでも払拭すべく、奮闘することにはしたのです。
『で、でも……エルシオ様は本来そのような怖いお方ではないのです。ティア様がお会いした時は、きっと並々ならぬ事態に遭遇された直後で、気が確かではなかっただけで』
『まぁ、確かにちょっと正気ではなさそうだったけど……私はあまりあのお方によく思われていないみたいだし、近づかないに越したことはないかな。それに……私は』
彼女はその細長い指を瑞々しい唇に当てて、一瞬、口ごもりました。
いぶかしんだ私は、眉根を寄せて彼女の言葉の続きをうながしたのです。
『それに?』
しかし、今にして思えば、それこそがティア様の愛らしい唇から悪魔の言葉を引きずり出す引き金になってしまったのです。
徐々に色めきだっていく、桃色の頬。
苺の唇は、かすかに震えていて。開きかけては、引き結ばれる。
ぱっちりと愛らしい大きな瞳がかすかに潤んでいくのを目にしたその時、ものすごい勢いで嫌な悪寒が背中を這い上がりました。
ティア様は、私がちくちくと針で刺されるような痛みを堪える中、私を正に奈落の底へと突き落としたのです。
『シャルロ様のことが……気になる、かも』
それはまさしく、恋する乙女の権化のような顔つきでした。
強烈な眩暈がしました。
誇張でもなんでもなく、そのまま卒倒するかと思いました。
ああ。
これだけは絶対に当たってほしくなかったという予感が、ついに現実のものになってしまった。
弾丸で脳天をぶち抜かれたような衝撃に私がかろうじて気を確かに保っていたのと反比例していくかのように、ティア様は清々しさに満ち溢れていきました。
『私は、あのお方のことをもっと知ってみたい。本当のシャルロ様は……世間で言われているような噂とは、ちょっと違うと私は思うんだ』
ティア様の健気なお言葉はそのままナイフとなり、私の心臓を突き刺しました。
文字通り目の前が真っ暗になっていく中で、私にはもはや言葉を返す体力すら残っていなく、私は心の中で血の涙を流しながら力なく彼女の言葉に力なく項垂れたのでした。
ティア様と分かれた私は、放心状態のまま、なんとか談話室にたどり着きました。そのまま椅子に腰かけることもなく、部屋の隅の方で小さく丸まります。
さながら燃え尽きた灰のようでした。
この世界において、ティア様こそが、エルシオ様を幸福へと導く唯一の希望だった。
その聖女たる彼女が、あろうことか恋に落ちるべき相手を誤ってしまった。
もう、何もかも終わりだ……。
魂を抜かれてもぬけの殻のようになった私が、今にもきのこを栽培し始めんとする勢いでじめじめと縮こまっていた時でした。
急に柔らかいノックの音が響きわたり、びくりと肩が震えました。
恐る恐る視線をあげたら、新緑を閉じ込めた穏やかな翡翠の瞳とばっちり目が合いました。
「ネ、ネリ……?」
そこには、私を心配するように見下ろすリオン様のお姿がありました。
彼の何もかもを包み込むような慈愛に満ちたその瞳を見つめている内に、喉が熱く震え、視界がぼやけてきました。
「リ、リオン様ぁ……」
みっともなくぐすぐすと泣きはじめる私を見るや、彼は静かに戸を後ろ手でしめると、ゆっくりと私の方に近づいてこられました。
私の目の前までこられたリオン様は、子供をあやすみたいにして私に頭を載せました。そうして、何も言わずに優しく撫でてくれました。こうしているとまるで、私の方が、年下みたいです。
リオン様は、とてもお優しい。
彼はいつだって澄んだ慈愛に満ちた御心で、何もかもを包んでくださります。
流石は「ときめき★王国物語」における天使。最強の癒しキャラ設定は、この世界においても健在なのです。昔は私が泣いているリオン様をあやしていたというのに、いつのまにやら立場が逆転してしまいました。
彼の聖人君子のごときお気遣いによって、ようやく私の涙はおさまってきました。
それでもまだひくひくと喉を震わせている私を心配そうに見やりながら、リオン様はぽつりと言いました。
「……エル兄と、なにかあった?」
ドキリとしました。
まただ。
リオン様もまた、彼のことを気にかけている。
やはり、エルシオ様に並々ならぬ事態が起きたのです。
エメラルドの瞳が、私の小さな心の動きも見逃すまいと、探るように見つめています。
「やはり……エルシオ様に、なにかあったのですか?」
リオン様は悲しそうに口を噤みました。
「僕も、詳しいことは何も聞いていないよ」
「そう、ですか」
何か思いつめていることがあったとしても、エルシオ様は全て自分で飲み干して、内に溜め込んでしまうようなお人です。
眉尻を下げる私に、彼は首を傾げました。
「でも、ネリはそのことで泣いていたんじゃなかったの?」
へ?
あどけない子供のようにぼうっとリオン様を見つめていたら、彼はそんなことも分かってなかったの? というように微笑しました。
「昔から、ネリが泣くのは、きまってエル兄に関することだから」
言われてみれば、たしかにそうでした。
私は、いつだってエルシオ様のことで泣いてきた。
傷ついた彼のために私にできることは、泣くことくらいしかなかったから。
でも、そんなものでは、ボロボロに傷ついた彼の心を癒せない。
私がいくら泣いたところで、彼をあの過去から連れ出すことは、できないのです。
「……私がエルシオ様のためにできることといえば、それくらいですから。だからこそ、私はずっと、彼女こそが彼を救い出してくれることを望んでいたのです」
涙腺とともに心まで緩んでしまい、思わずぽろりと本音がこぼれ出てしまいました。
リオン様の眉間にしわがよります。
「どういうこと?」
ティア様の投下した爆弾発言によって燃え尽き灰となった私は、正直なところ、かなり投げやりな気持ちになっていました。
目の前の海よりも広い御心をお持ちの彼ならば、多少のぶっとんだ話でも辛抱強い気持ちで聞いてくれそうです。もし相談するならば、お相手はリオン様しかありえない。
前世だとかゲーム云々についてさえ触れないように話せば、ギリギリアウトにはならないのではないか。
私は決意すると、リオン様の濁りのない瞳を見つめ返しました。
「リオン様。信じてもらえないのは承知で、あなたにはお話ししましょう」
私がいつになく神妙な面持ちでそう告げたところ、その真剣さが伝わったようで、彼は少々おびえたように瞳を揺らしながらもこくりと重々しく頷いてくれました。
こうして誰かに私の真の望みを打ち明けるのは、これが初めてなのでした。
いつになく緊張しました。
すっと小さく息を吸います。
「先日、このお城にティア様というお方がいらしたでしょう。あのお方は実は、エルシオ様をあの悲劇的な過去から救い出す運命の女神様なのです」
「……………………ん?」
驚きました。
リオン様から、そんなにも低い声が出るとは思ってもみなかった。
しかし、この反応もある程度は織り込み済みです。
火のついた私はリオン様が口を挟もうとする前に、畳み掛けるようにして言い切りました。
「十年間エルシオ様を苦しめ続けてきたあの忌々しい事件は、彼と彼女が結ばれることによってこそ、ようやく浄化されるのです。私は十年前、エルシオ様が身も心もボロボロにしてこの国に帰られたあの日から、ずうっと彼女が現れるこの時を、今か今かと待っていたのです」
熱に浮かされたように夢中で語り続ける私を見ながら、リオン様は目を白黒させていました。こんなにも彼が動揺するお姿は、前世でも今世でも見たことがなかった。リオン様は今にも頭を抱えたそうな顔をしていました。
しかし、こんな中途半端に話を終わらせるわけにもいきません。
もうどうにでもなれという気持半分で、切々とリオン様に訴えました。
「そして、先日ティア様はやっと城にお越しになられた。それにも関わらず、彼女が現在ご興味を示されているのは、あろうことか結ばれるべき運命のお相手であるエルシオ様ではなく、シャルロ様だというのです! なんという由々しい事態でしょうか」
私の切迫に満ちた声が、虚しく談話室に木霊しました。
私たちの間に、鉛よりも重い沈黙が落ちます。
元々天使の羽のように白いリオン様のお顔は、今やそのまま透けてしまうのではと心配になるほどに蒼白くなっていました。
彼は一度額に手をやって、表情も見えなくなるほどに深くうなだました。
世界の真実を垣間見てしまった今、彼は敬愛する兄が絶望の淵に立っていることを知り、悲しみに暮れていることでしょう。
まるでお葬式にも匹敵する、重苦しい空間でした。
絶望とは、まさにこのことをいうのだと思います。
ややもして。
リオン様が急にふるふると頭を振り勢いよくばっと顔をあげたものだから、私は驚いてのけぞりました。彼の眼が、いつになく血走っているような気がします。
「ネリ。一つ、確認しても良いかな?」
「はい」
「君は、エル兄のことが好きなんじゃないの?」
「もちろん。私の心臓はエルシオ様だけのものです」
何故今更、当たり前すぎて血反吐が出そうになるようなことを聞くのでしょうか。
リオン様は、さらに頭を抱えました。
「でも、今の話を要約すると、君はまるでエル兄とティアさんに結ばれてほしいと思っているようだけど……」
顔をあげたリオン様が首を傾げます。
「はい。それこそが、彼が過去から解き放たれて幸福になる唯一の道ですから」
彼はまたもや深くうなだれました。
そのオーバーすぎるリアクションに、こちらの眉間が寄ってしまいます。
「…………なるほどね。これで、全ての謎が解けたよ」
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