後日談② 狂気的な愛、後、心変わり?Ⅱ

 自分の唇から漏れ出た涙声に、ここ一週間のエルシオ様の素っ気ない言動がありありと脳裏にフラッシュバックして、心臓がみっともなく震えました。 


 砂糖菓子よりも甘く身も心も蕩かしてしまような彼の愛に、たじたじになりながらも心臓をドキドキと高鳴らせていた日々は、今にして思えば幸福そのものでした。


 彼の温かい腕の中でまどろんでいられることは、何にも勝る喜びだったのに。身をよじって逃げようとばかりしていたあの時の自分が、今となっては、酷く憎らしい。


 そうなのです。


 夢が、いつかは醒めてしまうものであるように。


 エルシオ様からもたらされる甘美な時間は、一週間前に何の前触れもなく終わりを告げたのです。



 その日、食堂でお昼ご飯を取ってから午後の仕事に一段落のついた私は、談話室で紅茶を淹れておりました。


 白いカップに注いだルビー色の液体から立ち昇ってくる薔薇の香りにうっとりと瞳を細めながら、想いを告げた翌日にこの場所でエルシオ様から不意打ちで抱きすくめられた時のことを思い出して、頬を火照らせたりなんかして。あの時は、今以上に彼から触れられることに慣れていなかったこともあり、突然だったこともあいまって本気で心臓を吐き出してしまうかと思いました。 


 彼に抱きすくめられるとドキドキの過剰摂取で呼吸困難になりかけて、結局じたばたしてしまう。けれども……それすらも強引に抑え込むしなやかな腕と清涼な香りと温もりは、着実に、私の身体を蝕みつつあったのです。


 そのことを苛まれるほどに思い知った一週間前のあの日も、紅茶のかぐわしい香りをかぎながら、エルシオ様は本日も談話室にいらっしゃるだろうかとぼんやりと考えておりました。


 そろそろ、国王様に代わって執りかかられているお仕事が一段落する頃だ。


 ということは、一休憩しにこちらにいらっしゃるかもしれない。


 エルシオ様に、お会いしたい。

 あの艶やかな低い声を聴いて、ドキドキしたい。

 それから……強引に、その腕の中に閉じ込めて欲しい。


 エルシオ様に触れられると、心臓が騒がしくのたうちまわるのに、段々、頭が痺れたようにぼうっとしてきてふわふわする。


 そのうちに全身が炙られているように熱くなってきてハッと我に返り、このままではマズいと憔悴して、ついつい可愛くないことを口にしてしまう。でも……それだって、どんなに私がもがこうが、彼が私を解放することは絶対にないと分かっているからやっているようなもので。あまつさえ、心の片隅ではそのことに安堵していたりなんかして――


 ――って、あれ…………?


 むくむくと入道雲のように浮かび上がってきたとんでもなく大胆な考えに、耳の端がカーッと熱くなって、思わず咳き込んだその時。

 

『ネリ?』


 私の頭のネジをこうも鮮やかに吹っ飛ばした張本人に声を掛けられて、背筋がぞくりとしました。


 即座に振り返ると、エルシオ様は、その日もその日とて完璧な麗しさを従えて立っておられました。


 その日のエルシオ様は、晩餐会の翌日にここでお会いした時と同じように、普段よりも軽装なのでした。


 漆黒のワイシャツは彼の首筋の白さを際立たせ、細身のジーンズはこれでもかというほどに長い脚の形の良さを強調しておりました。


 身に着けている物の品の良いシンプルさが元々エルシオ様のそなえている珠のような輝かしさをより一層引き立てていて、いつものことながらドギマギし始めたのと同時に、妙な違和感を抱きました。


 あれ……?

 どうして、立ち止まっていらっしゃるのだろうか。


 いつもなら、彼の美しさに見惚れる隙すら与えられない程あっという間に距離を詰められているのに。


 次の瞬間、生まれ始めた違和感は、さらに大きなものになりました。


 その日のエルシオ様はためらうように私からルビーの瞳をそらした後、すっと椅子に腰を落ち着けたのです。


 えっ……!


 ど、どうして!?

 なぜ、今日は、近づいてきてくださらないのだろうか……? 


 心に言い知れぬ波紋が広がって、胸が嫌に波打ち始めました。


 いや、本来であれば、これはごく自然な動作でなんら違和感を抱くところでもなんでもない。分かっては、いるのだけれども……。


 内心ではかなり動揺しながらも顔には決して出さないように必死に平静を装いながら二人分の紅茶をトレイに載せ、彼の目の前の席に腰を掛けました。


 エルシオ様はいつなんどきだってお美しいけれど、その日はどことなく浮かないお顔をされていて、その憂いがいつにもまして彼から色香をしたたらせておりました。


 自然と滲み出てしまっているフェロモンにぼうっと呆けてしまったのも束の間、いつも真っ直ぐに私を見据えてくるそ紅蓮の瞳が力なく伏せられ続けていることが、さきほど胸の内に生まれた不安をさらに追い立てていくのでした。


 自然と、口を衝いて出た言葉も心の揺れを映し出すかのように震えてしまいました。

 

『エル、シオ様……?』


 どうして、私のことを見つめてくださらないのですか?


 どうして……抱きしめてくださらないのですか?


 今日は、そういうご気分ではないのでしょうか。


 さみしい、です。

 

 膨れ上がり始めた想いを言葉にするあと一歩の勇気が出せず、喉がからからになっていき、結局言い出せずじまいでごくりと飲み込んでしまいました。


 代わりに、切なく震える心の内を視線で訴えかけるように、じいっとエルシオ様のご尊顔を見つめました。


 この身をちろちろと焦がし始めている熱をどうにかしてほしくて、縋るように。


 しかし。


 エルシオ様は狂おしげに唇を噛むと、ますます私から顔を背けるようにして、苦しそうに仰られたのです。


『っ……。そのようなとろけた瞳で、私を見るな』


 愕然としました。


 この心は、言わずもがな、前世よりエルシオ様だけに捧げてきたものです。


 しかし、まさか……こんなにも早く身体の方にまで異変が現れ始めるだなんて。


 なんということでしょう。


 日夜、甘やかされ続ける中で、この身はいつしかエルシオ様に触れられることを先回りして期待し、その時のことを思い描いて勝手に熱を帯びるまではしたなくなってしまったのだということを、私はこの時、絶望的なまでにまざまざと思い知らされたのです。

 

 私は、そんなにも愛欲にまみれた瞳をしていたのでしょうか。


 恥ずかしい。


 羞恥のあまり顔が真っ赤に燃え上がって、心臓がばくばく鳴り始めました。なにも言えずに泣きそうにすらなっていたら、彼はハッとその瞳を見開いて、狼狽し始めました。


『すまない。強く、言いすぎた…………私は、ただ『も、申し訳、ございません……!』』


 その時の私は何かを口にしかけたエルシオ様のお言葉すらをも遮るほどに動揺しておりました。


 しかし、それでもエルシオ様のいつになく思いつめているような悲しげな表情は依然として変わることはなく、胸をぎゅっと掴まれるようでした。


『……なにも、謝る必要はない。……しかし……不満、ではある』


 不満……!?


 予期していなかった二文字の不吉な言葉が心臓を狂おしく締め付けて、息苦しくすらなりました。


 頭が真っ白になりそうになって、ただただ震えながら、エルシオ様の言葉の続きを待つことしかできなくて。


 沈黙に押しつぶされそうになったその時。


 彼は哀しそうに瞳を伏せたまま、熱い吐息を吐き出すのとともに、私の心臓を揺るがす決定的な一言を口にしたのです。


『だから…………私からは、もうネリには触れない』


 それまで甘やかされ続けてきた私にとって、そのお言葉は、ほぼ死刑宣告にも等しいものでした。


 心が起きてしまった事態をあまりにも受けつけることができず、世界が遠のいていくような激しい虚無感に襲われる中で、悲しそうなお顔をしたエルシオ様が立ち去っていくのを引き止めることもできませんでした。


 これは、きっと悪夢かなにかに違いない。


 惨すぎる現実にはやくも拒絶反応を起こし始めた頭は、すぐにでもこの残酷な夢から醒めて、泣いてしまうほどに安心することを切望しましたが……恐ろしいことに一向に醒める気配がありませんでした。


 それからも変わらずに朝と夜はやってきてました。


 ただ一つだけ、エルシオ様があの宣言通り、ぴたりと私に構わなくなったことだけが変わったのです。



 

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