間章 第二王子の憂鬱Ⅰ
昔から、何かを本気で欲しいと思ったことはなかった。
というよりも、望む前から全てを与えられているような人生だった。
突き抜けるような晴天。
風が、綺麗に整えられたエメラルドグリーンの芝生を柔らかに揺らしていく。
僕らのために用意された真っ白なテーブルと椅子は、日の光にさらされて眩しく光っていた。
目の前には、父上が見繕ってきた僕の婚約者候補の令嬢が、恥じらうように微笑んでいる。
「シャルロ様、本日は貴方様のお目にかかれて光栄です。私、今日という日をずっと楽しみにしてまいりましたわ」
「有難う。僕もレリス嬢に会える今日という日を心待ちにしてきたけれど……実際に会ってみたら、想像なんかよりずっと可愛らしい人だったな」
生まれてきてから何百回吐いたか分からない甘い言葉は、もはや思考せずとも自然と僕の口を衝いて出る。仕上げに口角を上げて二コリとすれば、彼女も大概の女と同じように頬を赤らめてうつむいた。
彼女の大きな瞳は長い睫毛に縁どられ、ルージュを引いた唇は男を誘うように光っていた。ひらひらと波打つ淡い黄色のワンピース。栗色の髪にさしている蝶を模した髪飾りは、日差しを浴びて虹色に艶めく。
一目見ただけで、身につけているものは全てこの国における一級品だと分かった。
その染み一つない綺麗な白い手は、彼女が何一つ不自由なく蝶よ花よと愛でられ育てられてきたことを物語っている。まぁ、人のことをそんな風に思えた身分ではないのだけれども、この際、自分のことはとことん棚に上げさせてもらう。
上辺では完璧な笑顔を繕いながら、僕は内心でため息を漏らしていた。
何故、こんな面倒な状況になってしまったのか。
それは十六歳の誕生日を迎えたつい先日、父上から呼び出しをくらったことに始まる。
何事かと恐る恐る父上の部屋を訪ねると、彼はただでさえ厳めしい顔つきをさらに険しくして椅子に腰かけていた。
マズイ。
この顔は、完全に雷が落ちる前触れだ。
僕は、怖々と、彼の目の前に置かれた大きな椅子に腰かけた。
病で弱り始めたとはいえ、その鋭い視線には現国王としての並々ならぬ尊厳とが宿っていた。
父上一人の為にしつらえられたにしては大きすぎる部屋に二人、無言で見つめ合う。
ややもして、父上が重々しく口を開いた。
『お前は、ピアノと女をたぶらかす才能にかけては天下一品だ。前者は誉れ高きもので私も鼻が高いが、後者は高潔なる王族としていかがなものかと思う』
『っ』
たしかに、僕は昔から、死ぬほど女性にモテてきた。
女性の心を掴むことにかけていえば、正直、誰にも負けない自信がある。
父上と母上から恵まれた容姿を授かったことによるものだけではない。
だって、容姿についてのみ言及するならば、兄様もリオンも僕に全く引けを取っていない。
あのとんでもない兄様が、女性から遠ざけられている理由は……説明するまでもないほどに明白だけど。あれは、モテるとかモテないとかそういう次元で語れる範疇を軽々と突き破っている。
そもそも、女性であるか以前に、彼は話しかけることなど畏れ多くて到底できやしない存在なのだろう。あの事件があってからは……ことさらに。
たとえ、死ぬ程勇気を振り絞って声をかけにいく強靭な女性が現れたところで、果たして彼と意思疎通をはかれるのかすら怪しい。絶対零度の一瞥をくれて、通り過ぎていきそうだ。
そのくせ、あいつはひとたびその姿を見せれば、圧倒的なカリスマ性と吸引力によって、知らず知らずのうちに女性の視線を掻っ攫っていく。彼女たちは、畏怖の対象であるとともに、彼に引きつけられることも止められない。息を殺して、気づかれない様に遠くからひっそりと彼を見つめるのだ。奴はきっと、そんな彼女たちの存在を認知すらしていないのに。
ああ。兄様のことを考えていたら、ムカついてきた。これ以上はやめよう。
弟のリオンはといえば、僕程ではないけれども、結構モテている。
リオンの柔らかい笑顔は女性の警戒を解き、安心させる類のものだ。
天使のような容貌と、凪いだ海のように穏やかな気質。少し天然で抜けているところもあるけれど、それも女性から見たら母性本能をくすぐられるのかもしれない。多分、本人は、無意識の内にやっているんだと思うけれども。
リオンは、そうだな……いうなれば、ちょっと惜しい。
男の僕から見ても、女性が彼に惹かれる気持ちはたしかに分からなくもない。
彼は大分良い線をいっているけれど、女性に激しい恋情や、焦がれてやまない気持ちを抱かせるには、刺激が少し足りないように思う。つまり、優しすぎる。
女性の心を捉えて離さないためには、そう。
飴だけでなく、鞭もうまく使い分ける必要がある。
僕が女性と接するときは、最初は、これでもかという程に甘い蜜を振り落とす。
そして、狙った獲物が、自分の望むように甘い言葉を囁く僕にのぼせあがってきたところで、残酷なほどにあっさりと掌を返す。
『ゴメンね。今日は、――と約束しているから、君とは逢えないんだ』
彼女たちの持っている独占欲という奴を、突き刺すように容赦なく刺激する。
すると、状況は一気に引っくり返る。
勝手に嫉妬心を肥大化させた彼女たちが、今度は面白いくらいに僕を追ってくるようになるのだ。そうして最後には、僕の愛を乞い、そのために這いつくばって何でもするようになっている。
女性の望む仕草や言葉、恋愛に必要な駆け引き、それら一連の全てを僕は誰に教わることもなく自然に身につけた。
魔性。
それは父上も仰ったように、たしかに僕に与えられた才能という奴だった。
ほとんどの女は、僕と接すれば次第に魂を奪われたようになり、僕の言いなりに成り下がった。
女って、僕の言うことなら何でも聞いてくれる、本当に馬鹿で、可愛い生き物だ。
たった一人の例外を除いては。
ネリ=ディーン。
彼女は王家と縁の深い家の娘で、彼女の母親は、僕の乳母でもあった。だから、僕らの関係は所謂乳兄妹というやつになる。
彼女と初めて出会ったのは、忘れもしない五歳の頃。
あの堅物兄様に、本人公認の遊び相手ができたらしいと聞いた時は自分の耳を疑った。
しかも、その相手は女の子だという。
本人と実際に会ってみるまでは、一体、どんな超絶美少女が出てくるだろうとそわそわしていたりした。だって、本当に心があるのかと疑問に思ってしまうような兄様が陥落するなんて、そういうことに違いない。
でも、兄様のお部屋でぺたりと座って微笑んでいた彼女は、想像していた絶世の美少女からは大分かけ離れていた。
黒い瞳は星のように澄んでいて、どことなく猫っぽい。
健康的に色づいている白い肌に、一つに結んだ漆黒の髪。
とても、華奢な身体つきだった。
可愛くないとはいわない。
むしろ、そこそこ可愛い方だと思った。
でも、僕が勝手に想像していた圧倒的美少女からは程遠い――所謂、普通の女の子だった。あの兄様を手懐けたというから一体どんな化け物が出てくるのかと思えば……酷い肩透かしにあった気分だった。
『君が、あのとんでもない兄様を、手懐けたという噂の……想像してたより、可愛くないな』
気づけば、本心が唇から漏れ出ていた。
初対面だったにも関わらず、彼女には酷いことを言ってしまったとそれなりに反省している。
でも、それよりも、僕はその後にあの兄様が仏頂面で言い放った言葉を、生涯忘れられないと思う。
『黙れシャルロ。この者を罵って良いのは私だけだ』
すました顔の中に静かに揺らめいている強い独占欲が、僕を制した。
あの兄様が、それほどまでに執着している彼女。
一体、どんな子だろう。
最初にネリに抱いたのは、所謂、好奇心というやつだった。
そんな彼女は一見普通っぽいのに、中身はというと――とんでもない変人だった。
急に、根も葉もないような突拍子もないことを言ったり、行動をしたりして周りをぎょっと驚かせるのは日常茶飯事。それに加えて目を覆いたくなるほどに馬鹿で、間抜けで、能天気。
それでも彼女だけは、僕がどんな手を尽くして構っても他の女の子と違って、僕をトロンとしたような目で見ることはなかった。
他の女の子はみんな、こんなにも僕に夢中なのに。
こんなの、おかしい。
ムキになった僕は、どうにかして彼女も自分に夢中にさせたくなった。
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