第5話 幼き日の約束

 私の肩を掴み、唇を強く噛みしめて身を震わせているエルシオ様に向かって、きっぱりと言い返しました。


「たとえエルシオ様のご命令であったとしても……私は、貴方を嫌いになることだけは、絶対にできません」


 貴方は知らないだろうけれども、私は前世から貴方をお慕いしていたのだから。


 それに、一か月間、目の前にいる実物のエルシオ様と共有した時間は、揺らぐことのないこの思いをさらに強くした。このお方と過ごしたあの時間は、ろくに口すらきいてもらえなかったかもしれないけれども、私たち二人の間に何かを芽生えさせていた。少なくとも私の方では、そう予感しておりました。


 そして、掴みどころのなかったその曖昧な予感は、今やこの手にしっかりと掴める確信へと変わりました。


 呆然としながら私を見つめ返すことしかできない彼に、柔らかに微笑みかけました。


「だって、口で何といおうと、エルシオ様は私のことを探しに来てくれたじゃないですか」


 口でどれだけ強がって冷たい言葉を散らそうとも、彼がこんな薄暗い物置まで、自ら私を探しに来てくれたということが何よりも物語っている。


 態度では私を拒絶しながらも、きちんと心の片隅には置いてくれていたということを。


「っ」


 言い返す言葉が見つからず、喉を詰まらせてばつが悪そうな顔をしたエルシオ様からは、先ほどまでの激しい威勢は削がれておりました。


 やっと、歳相応の幼さを見せてくれた。

 胸がじんわりと温かくなりました。

 出来心から、目の前のあどけない少年をもうすこしだけ苛めてみたい衝動に駆られてしまいました。


「これは……私のことは空気程度にしか思っていないと見せかけて、実は認識してくださっていたということなんですよね?」

「っっ!」


 ギロリと、視線で刺殺されかねない勢いで睨まれて、ぎょっとしました。


 流石にちょっと調子に乗り過ぎたかな……? で、でも、これはやっと歳相応の幼さを見せてくれたエルシオ様が可愛すぎた故の不可抗力で云々……と内心で言い訳をしていたら、目の前の彼が見る見るうちにしょんぼりとした顔つきになっていきました。


 それまで私の肩を掴んでいた手をおずおずと離し、綺麗な弧を描いている金の眉は力なく垂れ下がっていって。ここ一か月間彼に接してきた中でも、いつになく不安そうなお顔をされたのでした。


「私は…………お前のことを、信じても良いのだろうか」


 震える唇から吐き出された声は、風にまぎれて溶けてしまいそうなほどにかすれていて。


 紅玉の瞳に揺れる不安と困惑の色に、心臓を直接揺らされるようでした。


「飼っていた兎は、勉学に差し障るからと引き離された。優しい母上にも……会うのが許されるのは、一週間に一度きりとなった。私が好きなモノやヒトはみんな、私から引き離されてゆく。結局離れてしまうなら……最初から、何も信じない。そう思っていた」


 このお方は、今まで、その小さな身体に一体どれだけの苦悩を閉じ込めていたのだろう。


 たしかに、国を守っていくのは綺麗ごとばかりではないのかもしれない。いざという時には、血なまぐさいことも必要で、国に危機が迫った際には躊躇うことなく兵に死んでも国を守れと命じられるだけの冷徹さも必要なのかもしれない。


 けれども……こんないたいけな子供が、何も信じられなくなってしまう程に追い詰められてしまうなんてことが、あって良いわけがないと思ってしまう。


 そう考えたところで、私のような庶民が国王様の方針に口出しできるわけもないし、そうしたところで即刻遊び相手から外されるのが関の山であることは分かっている。このお方の背負っている大きなものに対して、私という存在はやっぱりあまりにもちっぽけだ。


 それでも、どうにかして、欠片でも良いから目の前のこのお方の役に立ちたい。

 ちっぽけなりに、そんな私にもできること。


「じゃあ、私が、変わらないものもあるということを証明して見せます」


 翳りの差していたルビーの瞳が、恐々と私のことを見返した。


「貴方が望む限り私はエルシオ様のお傍から離れませんし、ずっとずっとお慕いしております」


 だって私はきっと、他でもない貴方に幸福をもたらすためにこの世界に生まれたのですから。


 瑪瑙の瞳に映る私の表情は目の前のお方への忠誠と決意を胸に、晴れ晴れと澄み渡っておりました。


「私の負けだ。ネリ。お前のことを、認めよう」


 彼が、初めて微笑んだ。


 それまで木の一本すら生えなかった絶対的な凍土に、あたたかな日差しが降り注いで、春が訪れたようでした。


 エルシオ様が、初めて私の顔を見て名前を呼んだ瞬間でした。




 エルシオ様と共に物置を脱出した時には、日もすっかり暮れて、冴え冴えと月が浮かんでいる頃でした。


 日が暮れなずんでも一向に部屋に戻ってこない私を、母は血相を変えて探しまわってくれたそうです。


 心当たりの場所のどこを探しても見つからず、途方に暮れて顔色を悪くしていたところに私がひょっこりと部屋に戻ってきた時には張りつめていた気が緩んで泣きそうにすらなっていたのでした。

 しかし、戻ってきた私の隣にエルシオ様が憮然とした顔つきで立っているのを見た瞬間に、母の出かかった涙は勢いよく引っ込み、目を丸くしておりました。

 底冷えのする冬よりも凍てついているように見えたであろうそれまでの私たちの関係性を思えば、母が仰天したのも無理もありません。



 物置事件の翌日。


 エルシオ様から淡々と、ミルラ様との婚約を破棄したとの報告を受けて唖然としました。


 ゲームでのミルラは本来、エルシオの婚約者として、ヒロインのティアを苛め倒す悪役令嬢ポジション。しかし、その手口はあまり賢いものではなく苛め抜いていたことがかなり早い段階で判明し、エルシオから火のような怒りを買って、そのまま婚約破棄を突きつけられる。彼女はものすごく残念な子で、その残念ぶりにはある種のいじらしさすら覚える程です。


 完全なる噛ませ犬ポジションなミルラ様。

 それでも、そんな彼女の意地悪があってこそ、ティアとエルシオの愛はより育まれた。


 それなのに、まさか、ティア様が現れるより前に婚約破棄宣言が下されるなんて……。


 あまりにもゲームから逸れすぎてしまったら、エルシオ様がティア様との幸福なハッピーエンドに向かう上で支障をきたすかもしれない! それはマズい!


 焦りに焦った私は、エルシオ様に詰め寄りました。


「お、お待ちください……! 確かに今回のミルラ様の行動は褒められたものではありませんが……流石に、婚約を破棄してしまうのは、あまりにも早計過ぎるのでは? ミルラ様のお立場からしたら、私を快く思わないのも当然のことですし……」

「元よりあの馬鹿女と結婚する気などさらさらなかった。今回のことは、婚約を破棄する良いきっかけとなったといえよう」

「そ、そんな……っ!」

「というか……何故、あの女の一番の被害者と呼べるお前が、あいつのことを庇う?」


 エルシオ様からねめつけるように視線を投げかけられて、ぐっと言葉がつまってしまいました。


 あまりにもゲームから逸れてしまうと、貴方が運命のお相手と結ばれるうえで支障をきたすかもしれないからで……なんて、口が裂けても言えません。


 本来ならば、ミルラ様に陥れられた私の立場からすると、彼女がエルシオ様から婚約破棄を下された件に関してはむしろ両手をあげて喜ぶべきだ。

 ここで前世やゲーム云々に触れずに言い逃れをするのは、至難の業すぎる。


「う、うーん……まぁ、エルシオ様には、もっとふさわしい方が現れるでしょうし、ちょうど良かったのかもしれませんね」


 ここでミルラ様を庇いすぎた故に他でもないエルシオ様から怪しまれては本末転倒も良いところ。


 ちょっと予想外な展開にはなってしまいましたが、最終的に、ティア様とエルシオ様が結ばれれば何ら問題はありません。多少のシステムエラーも、運命の赤い糸でつながれているお二人ならば乗り越えられるはず!


「…………ん? あらわれ……?」

「あっ! こちらの話ですので、お気になさらず!」 


 彼は首を傾げたものの、私が持ってきた絵本を目にするや、それを早く読もうとせがんできたのでした。

 やっぱり、前から絵本が気になって仕方なかったんだ。

 微笑ましくて、口の端が緩んでしまいました。

 少しからかいたい衝動に駆られましたが、やっと素直になってくださったのだ。

 本日はその素直さに免じて何も言うまい。


 私たちは顔を寄せ合って、同じ絵本を覗きこんだのでした。



 そんな風にして、私はやっとエルシオ様にまともに口を聞いてもらえる存在にまでのしあがったのです。


 彼と普通に会話をかわせるようになったということが夢のようで、今の私は世界一の幸せ者だと胸を張って言えます。会話をするたびに、今、私はこのお方に存在を認めてもらえている……! と実感してつい口元まで緩んでしまい、『何故、にやけている。気持ち悪い』と一蹴されるまでがお決まりのやり取りになっていましたが、そんな冷たいお言葉ですら私にとってはご褒美で、より一層にやけてしまうのでした。


 遊び相手として認めてもらえるようになった今でも、彼は以前と変わらず無表情でいることが多く、口数も少ない方でしたが、話す時はきちんと私に顔を向けてお話してくださるようになりました。


 ある日、一緒に絵本を覗きこんでいる時にそっと彼のお顔を盗み見たのですが、エルシオ様の瞳が星のようにきらきらと澄んで輝いていて、そのあまりの眩しさにドキッとしてしまい、吸い込まれるようにじっと見入ってしまいました。


 急に固まった私を不審に思ったエルシオ様が絵本から顔をあげて、


『む……? 私の顔に、何かついているか?』


 と首を傾げられた時、


『ううん。ただ、夢中になって絵本を読んでいるエルシオ様の瞳があまりにも綺麗で……つい見惚れてしまいました』


 と本心をありのままにこぼしたところ、


『ネリには、もう、何も隠さないと決めたからな』


 と飄々と返されてしまい、年端もゆかぬ子ども相手に本気でどぎまぎさせられたり等しておりました。


 エルシオ様に認めてもらえてからの私は、正に、水を得た魚のようでした。

 そんな、私にとっては正に天国と呼べるような日々を送っていた時のことでした。


 ちょっとした事件が起こりました。



 私とエルシオ様が、図書館に向かって並んで歩いていた時のことです。


 女中さんが掃除したばかりのピカピカに磨き上げられた大理石の床にエルシオ様が足を踏み入れた瞬間、彼の小さな身体が宙に浮き、肝が縮み上がりました。


 エルシオ様にもしものことがあったら死んでも死にきれない! と、脳髄反射的に腕を伸ばしたのですが惜しくも間に合わず、彼は盛大に尻餅をつきました。


 瞬間、私は目を剥きました。


 な、何事……!?

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