第4話 変化
必死の抵抗もむなしく、ミルラ様の
「ここから出して欲しければ、ミルラ様に謝罪し、エルシオ様にもう二度と近づいたりしないと誓うことだ。明日になったらまた来る。身の振り方をよく考えることだな」
冷徹無慈悲な言葉を告げた後、力強く背中を押されて転びそうになるのをぐっと堪えていたら、無情にも扉が閉められる音が虚しく響き渡りました。慌てて扉の方に駆け寄りましたが、五歳児の娘が全身全霊の力を込めて押し引きしてもビクともする気配がありません。
一筋の光すらささない薄暗い倉庫の中を、あらためて見回してみました。
太陽が昇っている時間帯であるということすら忘れかける薄暗い闇の中、目を凝らしてよく見ると、ボロボロの古本、かびた食物らしきもの、壊れた椅子などが乱雑に置かれていました。
長年使われていなかったせいか埃っぽく、目にゴミのようなものが付着して涙すら出てきました。気のせいか、腐卵臭のようなものが鼻をかすめた気が……。うう……あまり考えないようにしましょう。
これは……かなりマズイ展開になってしまった。
今頃は、図書館で絵本を借り終えて、エルシオ様のお部屋に向かっているはずだったのに。
このままでは、一か月前にあのお方と交わした約束を破ってしまうことになる。
『貴方様がどんなに嫌がろうと、私は貴方様のお傍を絶対に離れません』
彼はあんな約束のことなんて鼻にもかけていなかったし、覚えているかも怪しいものだけれども。
私自身が、エルシオ様に対して嘘を吐くという行為を絶対に許せない。
それに、もし万が一、少しでもあのお方の頭の片隅にでもあの約束のことが残っていて、今日私が時間になっても訪れないことをほんのちょっとでも気にしてくださっているとしたら……本当に申し訳が立たない。
エルシオ様は、今頃、あの広いお部屋で一人きりなのでしょう。
まだ年端もゆかない男の子が過ごすにしてはあまりにも広すぎる、華美な調度に囲まれた冷たい空間に。
彼がつまらなそうに本に目を落としている彼の姿を思い浮かべたら、胸がぎゅっと締め付けられるようでした。
エルシオ様に会って、絵本を見せてあげたいな。
あの氷の瞳が氷解して、ちらちらと絵本を見つめる時だけに浮かぶ歳相応のきらめくような好奇心を、もっともっと引き出したい。
エルシオ様に、会いたい。
ううん、会わなければならない。
胸の内に生まれた熱い衝動に突き動かされるようにして、私は薄暗い倉庫の中をくまなく点検し始めました。どうにかして外に出るための隠し通路を見つけられないものでしょうか。
服が汚れるのもいとわずに、這ってみたり背伸びしてみたりして、床や壁のあらゆる場所を仔細に見て回りました。視界が暗闇に慣れてきて、光も差さない薄ら寒い物置きの現状を大分把握できるようになってきましたが、特に成果はありません。
しばらく動き回ったせいで、汗で身体がべとつくようです。
扉を背にして、ぺたりと座り込みました。ひんやりとした床から冷たさが伝染してくるようでした。
くまなく見て回りましたが、やはりここから出るには私の後ろに聳え立つ厳めしい扉を外から他の誰かに開いてもらう以外の方法はなさそうです。
膝に顔をうずめました。
抜け道がないと分かった今、いつ出られるかも分かったものではないので、無駄に体力を使ってしまうようなことはやめることにしたのです。
自然と体が震えてしまうのは、この光も差さない物置の薄ら寒い空気の所為だけではなく、自分に嫌気がさしてのことでした。
こうしてただただ誰かに発見してもらえるのを待つことしかできない私はやっぱり、あまりにもちっぽけで無力な存在だ。生まれ変わって、前世にあんなにも憧れていた世界に生まれつくことができて、敬愛するエルシオ様にお会いできた今となっても、私は何も変わっていない。
たとえ生きる世界を違えても、私は変われない、のでしょうか。
膝に顔を埋め込みながらきつく目を瞑っている内に、それまで動き回った疲れがどっと押し寄せてきて、気づけば私は意識を手放していたのでした。
*
『あら! この前テストで一位を取ったかと思ったら、今度は運動会のリレーの選手に選ばれたの?』
『えへへ。お父さんも絶対に見に来てね!』
『もちろんだ。――は俺たちの自慢の娘だ』
寄せ鍋からほのかにわきたつ湯気の向こうで微笑んでいる、お母さんとお父さん。
まただ。
こういう時の彼らの瞳にはいつも、私の隣に座り、鈴を鳴らしたようにころころと笑う愛らしい私の妹しか映っていない。
『本当に、――は勉強だけじゃなくて、運動までできるなんて天才だ』
お父さんとお母さんは、きらきらとした期待に満ちた瞳で、妹だけを見つめている。妹はそんな彼らの熱を含んだ視線を受け止めて、また愛らしく笑うのだ。
こういう時の私はいつも、空気みたいだった。
胸の奥を鋭い爪でザリッとひっかかれたみたいな気持ちになって、それを顔に出すまいと膝の上でぎゅっと拳を握る。嫌な汗が背筋に滑り落ちた。
悪いことをしたわけではないのに、なんだか息苦しいような気持ちになる。
でも、これは仕方のないことだった。
妹は愛されるべくして生まれてきたような子だったのだから。
それに比べて私は――。
*
脳に鈍い痛みが走りました。
ぼんやりとした頭を起こしたとき、まなじりに涙が浮かんでいてぎょっとしました。
あれ。
今、私はどこに……?
そうだ。思いがけなくミルラ様と出会ってしまって、生意気な口をきいたがために、薄暗い倉庫に放りこまれて……まだ鮮明でない頭を必死に働かせてそこまで思い至った時、顔から血の気が引いていきました。
結局出れないまま、寝落ちちゃったんだ……!
一体、今は何時?
私はどれくらい、眠っていたのでしょうか。
窓のないこの部屋は常に薄暗く、時間間隔が全くといっていいほど掴めません。
先ほどまでと何ら変わりのない光景を見て、私の胸は薄ら寒くなりました。
どうすることもできずに、うなだれて縮こまっておりました。
空腹を感じ始めて、いよいよ心細くなってきたその瞬間のことでした。
「ネリ!!」
一瞬、耳を疑いました。
これは、私が心細さのあまりに作り出してしまった幻聴か何かだろうか。
だって、こんなの、本当にありえない。
天地が引っくり返るくらいにありえない、私にとって都合のよすぎる展開だ。
でも。
その声音を、他でもないこの私が聞き違えるはずがない。
だから、私はその尊いお名前を、半ば夢見心地でぽつりと漏らしたのです。
「エル、シオ様……?」
私のぼやきが引き金となったかのように、扉が勢いよく開かれて。
呆然として座り込んだまま、物置の外から溢れてくる光を背負ったエルシオ様を見つめていました。
透ける様に淡い金色の髪も、抜けるように白い滑らかな肌も、柳のようにしなやかで細身の身体も、手触りの良い純白の絹の服も、いつも通りのエルシオ様だった。
でも。
そのビスクドールのように美しいお顔には今、間違いなく、感情というものが浮かんでいた。
紅蓮の瞳にいつになくありありと焦燥の色が浮かんでいるのを目にした時、心臓が止まってしまうかと思いました。
彼が肩で息をしながら私の元へ歩み寄ってくるのを、私は遠い夢の世界の出来事でも見ているかのような心地で、呆然と眺めました。
近づいてきたエルシオ様が屈みこんで、垂れ下がった金の髪が私の頬をかすめるくらいに顔の距離が近づて……って、えええええええっ!?
何これ! 心臓吐き出しそう!
ぞっとするほどに美しいあのご尊顔が、今、少し顔を傾ければ触れてしまいそうなほどに近くにある。昨日まで、まともに会話すらできなかったのに。
信じられなさすぎて、わけがわからなくて、血が奔走して、煮え立って、パニックの脳内大混乱だ。
一瞬にして寒さも眠気も空腹も恐れも不安もすべて吹き飛び、今、私にとっての世界は、目の前にいるエルシオ様だけでした。
彼は、何も言わない。ただ、その真紅の瞳で、私を射抜くように見つめている。
あっ。ええと、心臓を爆発させそうになっている場合じゃなかった。
このお方に、真っ先にお伝えせねばならないことがあるじゃないか。
「申し訳、ございません。約束、破ってしまいました」
「…………ああ。お前は、嘘吐きだ」
「うぐっ……ごめんなさい」
エルシオ様も、覚えていてくださったんだ。
そう思うと、嘘吐きだという憎まれ口ですら、愛おしく思える。
彼は、強く唇を噛みしめていました。
必死に感情を抑え込んでいるようだけれども、抑えきれずに滲み出てしまっている様な。
少しの間待っていたけれども、彼が胸の内に渦巻く思いを言葉にしかねて苦しそうにしているご様子だったので、私の方から再び口を開きました。
「エルシオ様……約束のこと、覚えていてくださったんですね」
そのことがあまりにも嬉しくって、自然と口元が綻んでしまいました。
エルシオ様はハッと目を見開いて、すぐにきつく眉根を寄せました。
油断したら今にも泣いてしまいそうな、そんな弱りきった目でした。
その、次の瞬間。
「…………お前はっ…………罵られようと、蹴られようと、殴られようと私の傍にいると言った」
今まで胸の内に溜め込んできた彼の熱い思いが、堰を切ったように溢れだしてきて。
「それでもっ……無視していれば……いづれは諦めて、私の元を去ると思っていた。でも……お前は、私の予想をはるかに上回っていて、ものすごく諦めが悪くてっ。離れていくどころか、むしろ……その逆でっ」
エルシオ様の涙混じりの声は酷く震えていて、聞いている私の方まで喉が押し塞がるようで。
目頭が熱くなってきました。
無口だった分しまいこんできたたくさんの思いをありったけ乗せたその言葉は、直接、私の心臓に雪崩れ込んでくるようでした。
「何故、あんなに無視されてまで、私にかまうっ……。挙句の果てには、私の傍にいたがためにミルラに目を付けられてこんなところに一人きりで閉じ込められたというのに……何故、お前は、私を憎まないっ! わけが分からない!」
エルシオ様に強く肩を掴まれた時、びくりと身体が震えました。
彼の秘めていた火のように激しい思いが肩に食い込んでくる指からも伝わってくるようだ。
今、その紅蓮の燃えるような瞳には、私ごと焼いてしまうかのような、強く激しい意志が揺らめいている。
「どうすればお前は……私を、嫌いになってくれるんだ」
そんなの、最初から答えは一つに決まっていました。
私は腕を振り上げて、エルシオ様の両肩にやさしく手を置き返しました。
彼はずっと、私という得体のしれない存在に、おびえていたのかもしれません。
今までも全く彼に近づいてくる存在がなかったわけではないのでしょうが、エルシオ様がひとたびツンと顔をそらして無視してしまえば、相手はすぐに恐れ戦いて近づいてこなくなったのでしょう。
エルシオ様が他人をそこまで頑なに遠ざけようとするのは、他人を信頼することにおびえているからだ。
ヒロインのティアに心を開いた後、大人になったエルシオ様はそう語っていた。
人間は裏切る生き物で、誰かを信頼するということは弱みを見せることなのだと教えられて育ってきたのだと。
「それは、無理です」
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