後日談① 砂糖よりも甘い悩みの種*後編
結局何の解決策も出ないままに翌朝を迎えた私は、考えすぎによる寝不足で朦朧とする頭を抱えながらなんとか朝の仕事をこなしました。ちなみに本日の朝は談話室には立ち寄りませんでした。この状態でまたあのハートブレイカーことエルシオ様に鉢合わせしてしまった日には、いよいよ全く仕事にならないと懸念した為です。
あらかじめ昼食時に食堂で会ったヨルン君に本日のエルシオ様のご予定を伺い、彼と出くわさない時間を狙って談話室に休憩に入りました。
どうしよう……。
あまり考えすぎずに今まで通りに接すれば良いのだと思うけれど、今までと今とでは状況が天地がひっくり返ってしまったほどに違いすぎる。
だって、私は今まで自分がエルシオ様と恋仲になるなんて想像することさえおこがましいことだと考えていたのに、それが突然叶ってしまったのです。こうなった今でも私にとってのエルシオ様はやっぱり憧れそのもので、眩しすぎる存在なのに……。
「やぁ、ネリ。ひっっっどい間抜け面をしているけれど、よほど嬉しいことでもあったんだろうね。僕が入ってきたことにすら気づかないなんて、どうやらよっぽどの重症みたいだ」
「っ!?」
顔を上げた瞬間、意地悪く微笑んでいるシャルロ様が目の前の椅子に腰かけていて、動揺を隠しきれませんでした。
彼とお会いするのは、
つまり……あの晩餐会の夜以来、初めて顔を合わせることになるわけで……。
先ほどまでエルシオ様のことでぎゅうぎゅうに圧迫されて苦しんでいた脳が急速にあの音楽室の夜に引っ張られてゆく。今度は別の意味で悲鳴を上げそうになりました。
あの時の私は自分のことに手一杯で他のことを深く考えている余裕なんてなかったけれど……私は他でもないシャルロ様を、あろうことか振ったのです。
音楽室に差し込む月光にさらされながら涙を流していたシャルロ様が頭を埋め尽くしていき、舌まで乾いてきました。何も言葉を発せずにうつむいてしまうと、彼はそんな私の様子にかまうことなく、すらすらと言葉を続けるのでした。
「そういえば、昨日の昼食時にも信じられない出来事が起こったっけなぁ。あの無表情を貫き通している兄様の口元がなんと緩みっぱなしだったんだよ。正直、気持ち悪いことこの上なかった」
「そ……そう、ですか」
正直、目の前のこのお方には、感謝してもしきれない。
一生をかけても返しきれないのではないかと思ってしまうくらいに。
シャルロ様の後押しがなかったら、私は本当の自分に向き合う勇気を持てないまま、現実から目を背けて弱々しく笑っていることしかできなかったと思うから。
でも、私は……その時に知ってしまった彼の切実な想いには応えられなかった。
シャルロ様は長い脚を組みなおすと、どうにもうまく笑えなくなってしまった私を見据え、叱るようにぴしゃりと言い放ちました。
「言っておくけど、僕に変な気遣いは一切無用だし、むしろ迷惑だからやめてよね」
心のうちに生じ始めていた黒い淀みをあっさりと言い当てられ、肩がびくりと震えました。弾かれたように顔を上げると、彼はそっぽをむいて早口でまくしたてました。
「僕の周りには、君よりも可愛くて色気もある女の子がたっくさんいるんだ。君ごときに振られたことなんて、痛くも痒くもなんっっともないよ。………………しかも、僕の立場からすると、正直今までと何一つ変わってないし」
「えっ?」
首をかしげる私に、シャルロ様は声を低く落としてまるで呪詛のようにぶつぶつと呟き始めたのでした。
「……っていうか、むしろ今までお互い無自覚だったのが信じられない。自覚した今後はどうなっちゃうんだろ、目も当てられないバカップルになるのかな」
「シャルロ様……?」
全く言葉の内容は聞き取れなかったけれども、耳にしたら哀しくなってしまう酷い悪口でしょうか……。
彼は最後にわざとらしく大きくため息を吐いた後、もう一度私に向き直りました。一体どんな酷い罵詈雑言がとんでくるのだろうかと内心怯えていたら、逆に、その瞳と口元はやわらかにほころんでいくのでした。
「でも、やっぱり君は幸せそうな顔をしていた方が、ずっと良いね。だから……その、なんだ。君は何にも考えないで、思う存分兄様に甘えていれば良いんじゃないの」
それは天から降り注ぐマナのような、見返りを求めない純粋な優しさでした。
その真っ直ぐな言葉は心の柔らかい部分をあたたかく包みこんでいくようで、どうしようもなく私の胸を締め付けたのでした。
シャルロ様……貴方という人はなんて、懐が広いお方なのでしょうか。
私の背中を押してくれただけにとどまらず、こういう状況になってすら、私が貴方に対して罪悪感を抱くことがないように仕向けてくれている。
こんな人に好きになってもらうことのできた私は、なんて幸せ者なのだろう。
私は、やっぱりこのお方にも、望んでいる愛を本当の意味で手にしてほしいと痛いくらいに願ってしまう。たとえそれが、私のエゴなのだとしても。
胸が詰まってしまって、また泣きそうになってしまった。
漏らしそうになった嗚咽を慌てて呑み込みました。
「……っ。シャルロ様、貴方のことがっ、大好きです」
「だからっ、そういうところだよ! 全くもう」
再び視線をそらしてしまわれたシャルロ様の頬はほんのり赤くにじんでいて、でも、その瞳は穏やかな海のように凪いでいて。
それは私の大好きな、シャルロ様が気の緩んでいる時の表情なのでした。
かくして。
シャルロ様にまたもや尊いお言葉をいただいてしまって、苦しいくらいに胸を詰まらせたのも束の間。今日の夜も夜とて、私は布団をかぶって思い悩んでおりました。
『だから……その、なんだ。君は何にも考えないで、思う存分兄様に甘えていれば良いんじゃないの』
シャルロ様。甘えるなんて無理です!!
お顔を見てまともにお話しすることすら叶わなくなってしまったというのに、甘えるなんぞ夢のまた夢のまたそのまた夢のお話。果たして辿り着けるのかすら危うい境地です……。
こんなに真剣に悩んでいるのに全く解決策が出てこないどころか、むしろ悪化の一途をたどっていくばかりでした。
今まで通りにしようと思えば思うほど、どんどん症状は酷くなっていきました。
ひとたびエルシオ様をお見かけするだけで心臓が爆発しそうになって、全く直視できない。反射的に目をそらしてしまう。
私の明らかにおかしい挙動を不審に思ったらしい彼が、『何か、悩みごとでも……?』と心配そうに私に触れてくるたびに羞恥心ではちきれそうになり、兎も驚きの速さで脱走。その後、心を埋め尽くすほどの罪悪感で死にたくなるというのをひたすら繰り返していたら、あの晩餐会の夜から一週間も経ってしまいました。
明日こそは、明日こそは、ちゃんとお顔を見てお話ししたいなと切実に願っているのに……。なんて、なんて、私はダメなんだろう。情けなさと不甲斐なさでいっそのこと死んでしまいたい……。
えっ…………?
まさか私、自分の部屋の鍵も閉め忘れるレベルで病んでいた……?
いや、まぁ、盗まれて困るようなものは何も置いていないのだけれど……。
って、そんなことを考えている場合ではないのでは!?
真夜中。
突然の自室への闖入者に頭が一気に真っ白になって、身が強張る。
「……まさか、戸が開くとはな。あまりにも不用心すぎる。関心しないな」
っっっ!?!!
背後から響いたその色香を含んだ声は、今の私の悩みの種そのもので。
「これでは……襲われても、文句は言えまい」
その声のあまりの艶やかさにぞくりと甘い痺れが背中を這い上がった次の瞬間、布団の中にもぞもぞと入りこんできた彼の腕の中にあっさりと捕獲されていました。
布団よりもずうっとあたたかい彼の熱、耳をくすぐる甘い吐息、背中越しに伝わってくるその鼓動が、私の脳をすっかりダメにしてしまうのは時間の問題で。
って、ちょっと……………………!?!?!?!?
このままでは、太陽に照り付けられたアイスクリームのように、脳みそがとろけてなくなってしまう。
生命の危機すらも感じた私が、バタバタと手足を動かしてどうにか私をとらえているその腕から逃れようと全力でもがいていたその時、エルシオ様が震える声で言ったのでした。
「ネリ。……お前は、私に触れられるのが、嫌だろうか」
いつになく淋しさに充ち満ちた声。
力なく私をとらえている腕の力が萎えていった時、胸が鋭く痛みました。
そうか。
私は……愛おしくて愛おしくて仕方のないエルシオ様のことを、自らの心無い行動で、傷つけてしまっていたんだ。
また酷い過ちを犯して、折角手にした大切なものを自らの手で壊してしまうところだった。この人を手放したら自分がどうなってしまうか、私は痛いほどに、思い知ったのに。
「ち……ちがうんですっ!!」
くるりと振り向いた私は、エルシオ様の胸板に自分の頭をこつりと寄せました。
私の大好きな、彼の熱。香り。引き締まった、身体。
彼という存在そのものをあまりにも直に感じて、耳が燃えそうなほどに熱くなる。
ちゃんと、伝えなきゃ。
このはちきれそうなほどに膨らんでいる想いを。
「貴方に触れられるのは……嫌なんかじゃなくて、む、むしろ……幸せなんです。で、でもっ……私にとってのエルシオ様は、長い間ずうっと憧れそのもので、とおい、とおい所にいたお人だったから……こんな風に想っていただけるのが、未だにどうにも信じられない気持ちもあって…………貴方に見つめられるたびに、苦しいくらいに息が上がってしまって……」
頭の上で、息をごくりと呑み込む音が聞こえました。
私は息も絶え絶えになりながら、彼にすがりつくような形で腕を回して、蚊の鳴くほどに小さな声で言いました。
「触れてほしいと思うのに、そのたびにドキドキしすぎて困ってしまう、んです。…………他でもない、エルシオ、様だから」
次の瞬間、エルシオ様の腕が伸びてきて、強く強く抱きしめられていました。
「…………ネリは、ズルい」
「えっ……」
いじけた子供のような言葉に呆けたのも束の間。
次の瞬間、彼は少し熱を孕んだ声でとんでもないことを言ってのけたのでした。
「正直、お前が可愛すぎて欲を抑えるのが苦しいくらいだが…………今日は、その素直さに免じて、抱き枕として眠ることで赦そう」
「はい。………って、えええええええええええええっ!?!?」
「これでも、かなり譲歩したつもりだが」
「う、うううっ……で、でもっ」
この状態で寝るの? 明日も仕事なのに?
致死量のドキドキでいよいよ死んでしまうのでは?
というか、絶対寝れません!!
混乱しっぱなしの私の頭を愛おしむように撫でながら、エルシオ様はいつになくゆるんでいる、とろけたような声で呟きました。
「だって、ネリは……私に触れられると、幸せを感じてくれるのだろう」
「っっ」
そのまま、エルシオ様は充電が切れてしまったかのようにあっさりと眠りに落ちたのでした。
宣言通り、私を抱き枕にしたまま。
こ、これは…………。
羞恥心とときめきとドキドキで死にそうで、どうやっても今日は眠れそうにない。でも、あまりにも幸せそうに眠っているエルシオ様の腕から抜け出すなんてことはできそうにない。
いや、違う。
私自身が……この温かい腕の中から、抜けだしたくないんだ。
結局その夜は、一睡もできずに、カーテンの隙間から零れ落ちてきた朝日によって、私は朝の訪れを把握しました。
私はまだ静かな寝息を立てて眠っているエルシオ様を起こさないように、そうっとその腕から抜け出しました。徹夜後の寝ぼけきった頭でなんとか私が支度をし終えた頃にようやくエルシオ様が起きだして、簡単に身づくろいを整えられたのでした。
しかし……一召使の部屋から、他でもないこの城の第一王子が一緒に出てきたところを誰かに目撃されては色々な意味でマズイ。エルシオ様ご本人は「そう焦ることもなかろう。誰に目撃されたところで、困ることもあるまい」とか呑気なことを仰っているけれども、何故そんなに堂々としていらっしゃるんだ。もっと警戒心を持ってください!
寿命が縮まりそうなほどに冷や冷やしました。滝のような脇汗を流しながら全神経を研ぎ澄ませてドアの向こうの人影を見切り、ようやくのことで誰にも目撃されずに部屋を出ることが叶ったのでした。
エルシオ様が一旦自室に戻られるというので、途中まで見送ることになりました。肩を並べて一緒に廊下を歩いていく間にも、誰かとすれ違うたびに目玉が飛び出そうなほどに凝視されて私はそのたびに冷や冷やしていたのですが、当のエルシオ様はどこ吹く風といったご様子で、むしろどことなく嬉しそうで……。
いよいよここでお別れだという廊下の分かれ道で立ち止まりました。
久しぶりに随分長く一緒にいたせいか少し別れを名残惜しく感じてしまうけれども、ここは明るく見送りださなければ。
「ネリ」
「はい?」
それは、あまりにも一瞬でした。
何気なく彼を見上げたその瞬間。
エルシオ様のやわらかい唇が、私の唇に重なった。
触れるだけの短いキスを交わした後、事態を把握しきれずに固まってしまった私にむかって、彼は心臓破りのゆるんだ微笑みを浮かべていました。
「ネリの気持ちは……よく、伝わった。でも、私は、愛おしくて仕方ないネリに触れずにはいられない。だから、少しずつ、慣れてもらう」
未だに呆然としっぱなしの私を取り残して、エルシオ様が颯爽と去っていく。去っていく姿ですら一枚の絵になりそうなくらいに神々しい。
エルシオ様……………。
どの辺りが、少しずつなのでしょうか!?
誰が見ているかもわからない公共の場で、なんてなんて大胆なことを…………!
一気に、全身から力が抜けていく。
軟体動物になってしまったかのように力が入らず、立っていることすら難しい。突然投下されたそのあまりにもやさしくて甘美な時限爆弾は、ものすごい勢いで私の体内で燃え上がった。
その後、崩れ落ちてしまった私の元に必死の形相で駆けつけた同僚のメイドに死ぬほど問い詰められたことは言うまでもない。
【後日談①砂糖よりも甘い悩みの種 完】
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