第28話 献身的な愛

『五月十四日

 突然彼がアトリエに来た。ラインでいるかと聞かれてはいたが来るとは思っていなかった。凄く嬉しいはずなのに、突き返すような言い方しかできなかった。これはもう癖になっているようで少し悲しい。

 それでも午後からは彼と外に出た。お姉ちゃんとの思い出の洋食店に入った。二度目の相手が彼なのも嬉しい。

 彼の趣味の写真に付き合った。凄く楽しかった。足場の悪い所では手を引いてくれた。彼は優しくて手が大きい。自転車の後ろに乗せてもらうと彼が汗を掻いていることがわかったのだが、どうしても我慢できず彼の背中に頬を当ててしまった。凄く大きな背中だった。

 彼のバイト先にも行った。マスターがうるさく冷やかしてくるのには参った。凄く可愛い女の子のウェイターがいた。彼とは仲のいい関係なのだろうか』


 この日も濃い一日だったと思う。僅か二カ月前の話なのに凄く懐かしく感じる。そしてこの日は僕が篠森さんへの気持ちを認識した日だ。


『五月十日

 彼がカメラマンを引き受けてくれた。凄く嬉しい。私が作った服も褒めてくれた。ネットの文字ではなく、耳で褒め言葉を聞いたのは初めてで、むずがゆい。

 この三日間、連絡事項だけだが初めてクラスメイトとラインでメッセージのやりとりをした。その相手が彼なのも嬉しい。楽しかった』


『五月八日

 また教科書が無くなった。やっぱり帰りのHRまでに机の中に戻っていて、嫌がらせだと確信した。

 今回は私からお願いして隣の席の彼に教科書を見せてもらった。その理由は彼が写真を撮る人であるという会話が聞こえたこと。それに興味を持ってしまった。

 私は写真を撮ることは苦手だから撮ってもらえないだろうか。本当はモデルをしてくれる人も欲しいが、こんな時に友達がいないことが悔やまれる。

 カメラマンのお願いをするに先立って連絡先の交換をするのは凄く緊張した』


『四月二十八日

 明日からゴールデンウィークで出校日が少なくなるかと思うと気が楽だ。クラスの子達が友達同士で話しているのを見るのは、やっぱり羨ましいから。秘密がバレた隣の席の彼は秘密を守ってくれているようで、ホッとする』


 篠森さんだって友達が本当は欲しいのではないか。それなのに中学入学から孤独に四年間過ごして来た彼女が居た堪れない。


『四月十八日

 教科書が無くなった。まさかとは思うが、盗まれたのだろうか。嫌がらせだろうか。すると隣の席の彼が私に机をくっつけて見せてくれた。しかも自分が忘れたように装っていた。初めて男の子を格好いいと思った。教科書は帰りのHRまでに机の中に戻っていた。

 すると放課後、隣の席の彼がなんと、アトリエに来てしまった。とうとうバレた私の秘密。しかもメイド服でツインテールの時に見られるなんて、恥ずかしくて死ぬかと思った。もう二度とコスプレ衣装のままゴミ出しになんて出ない』


 この日の放課後は本当に驚いた。その姿の篠森さんは凄く可愛くて、これが僕達の活動の始まりだったのかと思うと感慨深い。


『四月七日

 新クラス。昨年一年間隣の席だった彼がまた隣の席になった。一年間席替えをしなかった担任の先生も同じだ。つまり今年も一年、彼の隣か。

 彼は誰とも話そうとしない私に、昨年のクラスで唯一毎朝挨拶をしてくれた。そんな彼が隣なのは正直嬉しい。もしかしてこれは私の初恋だったりするのだろうか。よくわからない。

 ただ、考えたところで私は、恋人はおろか、友達だって作らない。同じことがまた起きたら耐えられないし、あんな思いはもうしたくない。だったら考えないようにするまでだ』


 こんな時でなければ飛び上がるほどに嬉しい文章だ。篠森さんは一年生の時から僕のことを見てくれていた。それは僕が彼女を意識するようになるよりも前からだ。僕にとっては何気ない毎朝の挨拶だったのだが、彼女にとってはその価値が全然違ったのだ。


『四月六日

 明日から二年生。と言っても感じるところは去年と変わらない。人を陥れる、追いつめるようなことを平気でするような親の娘。そんな私にはもう友達を作る資格はないし、誰とも必要最低限しか話すことはない』


 ブログの記事はまだ続くが、これ以前には僕のことはあまり書かれていなかった。と言うか、書くことがなかったのだろう。月に一回の更新がいいところだった。二年生になってからの更新頻度が格段に上がったのだ。


 僕は冷蔵庫に入っていたカップケーキを食べた。消費期限は昨日で切れているが、あまり気にしなかった。味は美味しく感じた。本当は篠森さんと昨日一緒に食べるはずだったケーキなのに、僕はそれを一人で残すことなく飾りつけの施された休憩室で泣きながら全部食べた。

 その時一緒に口にした自分で淹れたコーヒーはなぜか美味しいと感じることができず、篠森さんの淹れたコーヒーが無性に恋しくなった。誰が淹れても変わらないインスタントのコーヒーのはずなのに。


 そして僕は荷物を持って工場を、いや、篠森さんのアトリエを出た。シャッター脇の通用口の鍵を施錠すると自転車に跨り、風を切って走った。日差しは強い。これは昨日以上かもしれない。それでも僕はスピードを緩めることなく、汗を掻きながらひたすらペダルを漕いだ。

 少し腹が苦しいが、絶対に吐き出さない。僕はこの道のりと暑さが消化にちょうどいいだろうなんて考えられるほどの余裕も出てきた。今会いに行く、君に。


 その道中で、僕の精神には後遺症があったようだと気づく。怖くて路肩を走れなかった。どれだけ狭い道でもひたすら歩道を走り続けた。歩道が整備されていない道は足が竦んだし、脇を抜ける車の距離があまりにも近いと自転車を下りて押して歩いた。

 そうして怯えながらもなんとか目的地に到着して自転車を停め、建物の中に入ると心地いい空調の風が僕の汗を冷やした。僕は迷わず病棟の方に進み、昨日も来た彼女の病室までやって来た。室内に患者以外は誰もいない。


「篠森さん、来たよ」


 彼女は昨日同様、ギブスと包帯と管が体中にあって、無機質な音を発する機械を脇に置いて眠っている。


「ずっと一人でここにいるのは寂しいでしょ」


 眠ったままで何も答えない彼女に問い掛けると、病室内に僕の声が虚しく響く。他に響くのは機械の音だけだ。


「篠森さん、本当は寂しがり屋だもんね」


 僕は折れていない彼女の右腕側に回り込んだ。左腕は折れているので、ギブスで固定されているのだが、それが痛々しい。

 頭をあまり触ってはいけないことはわかっているのだが、そっと、髪にほんの触れる程度に篠森さんの頭を撫でた。篠森さんは頭を撫でられることが好きだから。


「僕、毎日来るから。君に会いに毎日来るから」


 こんなことを以前の篠森さんに言ったら鋭い視線で突き返されそうだが、けどそれは本心ではないのだとブログを見てわかった。ただ、その鋭い視線も懐かしく、今はそれすらも返してくれない。

 彼女の寝顔はやはり天使のように綺麗で、込み上げてくるものがある。僕は篠森さんの頭に手を添えたまま、そっと顔を近づける。


「危ない。もう少しで約束破るところだった」


 思わず僕はギュッと目を瞑る。僕と篠森さんの唇はあと一センチくらいまで近づいていた。彼女への誠意、その約束を守るために僕は自分を戒める。


「せめてこれだけは許してね」


 僕は篠森さんの右手を握って自分の頬にそっと当てた。篠森さんの体温を感じるのはどこか安心する。

 僕は篠森さんの右手を握ったままベッド脇の丸椅子に腰掛けた。両手で彼女の右手を包み彼女を見つめる。


「献身的な愛か……」


 僕はラベンダーの花言葉を口にする。僕にできる献身的な愛の形と言えば、寂しがり屋の篠森さんに寂しい思いをさせないように、毎日ここに来ることだけだ。そしてもう一つ篠森さんと約束したことがある。僕はその約束を頭の中で強く復唱した。


 僕は翌日も、その翌日も、毎日欠かさずこの病室に通い続けた。

 やがて医師から「ここまでくると、もう目を覚まさないかもしれない」という話があったと篠森さんのお母さんから告げられた。けど僕はそんなものに屈しない。

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