第29話 微かに

 誕生日から一週間後の七月十二日。喫茶店パノラマでアルバイトをしていると、三島さんが出勤して来た。


「おはようございまーす」

「おはようございます」

「おう、おはよう」


 カウンターの中でマスターが、カウンターの外のホールで僕が挨拶を返す。三島さんは肩より短い髪を真っ直ぐに下ろしていて、毛先は縦にすいている。最近変わった彼女の髪型だが良く似合っていて、髪の量が減ったことで涼しげでもある。


「沖原君、今日もお見舞い行くの?」

「うん」


 僕は三島さんと入れ替わりにカウンターの中に身を入れると、シンクに溜まった食器を洗い始めた。一時間ほど前にパートさんが一人早上がりしたので、片付けることなく溜まっていた食器だ。


「そっか……」


 トーンダウンした三島さんの声が耳に届く。彼女にとっては意識的に発している声ではないのだろうが、その声色を耳にすると僕は三島さんを直視できなくなる。

 篠森さんが眠ってから毎日病室に通っている僕だが、三島さんはそんな僕をいつも気遣ってくれる。一度は三島さんが慰めると言い寄ってきたこともあったが、僕はそれを受けることはできなかった。三島さんは三島さんで次の恋へは向かわず、未だ言い寄ってくる男子を振り続けているそうだ。

 他校の生徒ながらも彼女が人気女子なのは知っていることであるし、そんな三島さんから想われることは恐れ多い。


 手元の食器が洗い終わった頃、僕は自分の勤務シフトの時間が過ぎたことを確認すると、タオルで手を拭いた。


「それじゃ、お疲れさまです」

「お疲れさまでーす」

「おう、お疲れさま」


 背中越しに三島さんとマスターの声を聞いて、僕は店舗事務所に身を入れた。そう言えば、この時間は急な欠員が出たので三島さんとマスターの二人体制かと思い出したが、僕がこれ以上残るつもりもないので、身支度を整えると僕は店を出た。


 夕方の太陽は自転車を漕ぐ僕を西から容赦なく照らす。路肩を走るトラウマも幾分軽くなってはきたものの、時々フラッシュバックするので油断はできない。スピードに乗ってはいても神経を使っている。

 暑さで吹き出る汗が目に入らないよう額を腕で拭い、今から向かう先の篠森さんのことを想う。彼女はどんな夢を見ているのだろうか。その夢に僕は出てきているのだろうか。


 篠森さんのお母さんから「もう目を覚まさないかもしれない」なんて医師の言葉を初めて聞かされた時は絶望が襲った。それでもいつか目覚めることを信じて僕は折れなかった。

 篠森さんのお父さんは相変わらず仕事に一生懸命のようで、お見舞いも数えるほどしか来ていない。これは篠森さんのお母さんから聞いた話なので、実はまだ僕はお目に掛かったこともない。


 病院に到着した頃には着ていたシャツが汗で体に張り付いていた。僕は駐輪場に自転車を停め建物に入ると、もう随分と通い慣れた院内を迷わず進んだ。

 篠森さんが眠る個室の病室は明るい雰囲気があるものの、必要最低限の物しか置いておらず無機質にも感じる。人の声がなければ聞こえるのは相変わらず空調と医療機器の機械音だけだ。

 僕はいつものようにベッド脇の丸椅子に腰掛け、篠森さんの手を両手で握る。彼女の寝顔が穏やかで綺麗なのはいつ見ても思う。


「篠森さん、来たよ」


 僕はいつものように決まり文句となった言葉を彼女に掛ける。それに彼女が反応することは一切ない。今までずっとそうだった。


「え……」


 そう、一切反応しないはずなのに。

 僕は微かに感じた手の感触を確かめるために手元を見た。確かに今、動いたような気がした。見ただけでは何もわからない。僕は篠森さんの寝顔を見ながらもう一声掛けることにする。


「篠森さん、僕、来たよ」


 自分の声が震えていたのを実感しながら篠森さんの反応を待とうと思ったが、その感触はすぐに訪れた。篠森さんは確かに、僕の手を握り返した。


 僕は何度も何度も篠森さんに声を掛けた。


「篠森さん、僕、来たよ」


 その度に締まる篠森さんの手。本当に弱くて微かに感じるだけなのだが、間違いなく篠森さんの指は動いていた。僕の目からは涙が零れ、頬を濡らしていた。

 すると涙で霞む視界の中、篠森さんの瞼がゆっくり持ち上がったように見えた。僕は片手だけ篠森さんから離すと、自分の目をしっかりと拭き、改めて篠森さんを見た。


「うぐっ、篠森さん……」


 確かに彼女は微かにではあるが目を開けていた。僕の視界は止まらない涙でまた霞んでいく。しかし今度は視覚ではなく、手元の触覚でもなく、聴覚で篠森さんを感じたのだ。


「お、き……は、ら……くん」


 一気に脈打つ僕の心臓。僕はもう一度涙を拭うと、しっかりと篠森さんの顔を見た。

 篠森さんは眼球だけを動かして僕を見ていた。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 その瞬間、僕は篠森さんに覆いかぶさるようにベッドに突っ伏して声を出して泣いた。静粛に包まれるべき病院で、僕が恥も遠慮も捨てて大声で泣くものだから、ナースコールを押すまでもなく、病室の前を通った看護師が何事かと入室してきた。


 それからこの病室は医師や看護師が入り乱れ、慌しくなった。しばらく席を外すように言われた僕は談話室で待機した。

 やっと病室に入ることを許されたのは、篠森さんが目覚めて二時間ほどが経過した頃だった。病室には既に連絡を受けた篠森さんのお母さんがいた。


「沖原君……」


 声を震わせて涙をいっぱい溜めた篠森さんのお母さんは、僕の姿を捉えるなり僕の名前を口にする。そしてベッド脇の丸椅子から立ち上がった。


「弥生、沖原君と二人がいい?」


 ベッドで横になる篠森さんを見下ろして問い掛ける彼女のお母さんだが、入り口に立つ僕から篠森さんの反応は窺えない。すると篠森さんのお母さんは僕のもとまで歩み寄って来た。


「私、先生とお話してくるわね。時間掛けるつもりだからゆっくりして行って」

「ありがとうございます」


 僕が篠森さんのお母さんに頭を下げると、篠森さんのお母さんは病室を出た。待機中はあれほど気が急いていた僕なのに、いざ病室に戻って来ると怖気づいているようで滑稽だ。それでも僕はゆっくりと、恐る恐る篠森さんのベッドに近づいた。


「沖原君」


 ほんの少し首を動かし、目ははっきりと動かして僕を見た篠森さんは、確かに僕の名前を口にした。込み上げてくるものがあるが、何度泣けば気が済むのだと自分を戒め僕はぐっと堪えた。そして篠森さんのお母さんが空けた席に僕は腰掛けた。


「篠森さん。おはよう」


 そう声を掛けると篠森さんが首を動かして僕を向き、微かに笑った。それを見て僕の胸が熱くなる。すると篠森さんはゆっくり話し始めた。


「沖原君が毎日来てくれたって聞いた」

「うん。毎日来た。鬱陶しかったかな?」


 涙が目に溜まるのは自覚しているが、僕は苦笑いとも照れ笑いとも自分で判断できない複雑な笑みを浮かべて篠森さんに答えた。


「嬉しかった」

「そっか。それなら良かった」


 うまく口が回らないので、単調な言葉しか出てこないのがもどかしい。この興奮と喜びをどう表現したらいいのかもわからない。ただ僕は篠森さんの言葉にしっかりと答えるだけだ。


「私、背中を突き飛ばされた」


 それにはさすがに言葉が詰まってしまい、目を伏せてしまった。覚えているのかと少し暗くなる。もしかしたら誰かに聞いたのかも知れないが、それで思い出したとするならやはりそれは覚えていることに変わりはない。


「けど、沖原君が助けてくれたし、毎日来てくれた」

「うん。篠森さんに会いに毎日来た」


 しかし健気にそんなことを言ってくれるから僕の心はまた温かくなり、ちゃんと篠森さんに言葉を返すことができるのだ。篠森さんとコミュニケーションが取れることに喜びを感じるのだ。


「今日、十二日って聞いた」

「うん、そうだよ」

「沖原君の誕生日……」

「気にしないで」

「一週間も眠ってたなんて……」


 その言葉に僕はショックを受けた。ただ、今はそれが篠森さんに読み取られていなければいいと思う。

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