第30話 眠りの期間
篠森さんが目を覚ましてちょうど一週間のこの日、アルバイトが終わると僕はいつものように篠森さんの病室に行った。
やっと少しずつ体を動かせるようになってきた篠森さんは、運動不足による歩行のリハビリはあるものの、特段後遺症は見られないというのが医師からの診断で、それに大きく胸を撫で下ろす。
この日病室に到着すると篠森さんのベッドテーブルの上には病院食が置かれたままで、彼女はベッドの上で上体を起こしていた。
「ちゃんと食べなきゃダメじゃん」
それに篠森さんは何も答えないので、僕は彼女の顔色を窺いながらベッド脇の丸椅子に座る。篠森さんは俯いていて、この日はまだ僕と目を合わせてもいない。
「沖原君、髪伸びたよね」
「うん、まぁ」
いきなり何の話題だろうと思う。篠森さんはどこか落ち込んでいるようにも見える。
「私も前髪が凄い伸びてる」
ドキッとした。しかし僕はそれに何も答えず、篠森さんの言葉に耳を傾ける。ここで察するものがあって動悸が激しくなるが、なんとか表情には出さない。
「ごめん、何でもない。今日何曜日だっけ?」
「今日は木曜日」
と言った瞬間、僕は頭を抱えた。完全に失言であった。とは言っても、絶対いつかは彼女も知ることだとは理解しているのだが。
「違うよ、今日は沖原君の誕生日からちょうど二週間だから水曜日だよ」
否定の言葉を口にする篠森さんに僕は目を向けられない。思わず溜息が漏れる。
篠森さんのスマートフォンは篠森さんのお母さんが持ったままでまだ篠森さんの手元にはない。この病室のテレビはプリペイドカードを使う有料で、そのプリペイドカードも篠森さんに手渡されてはいない。それでもリハビリのために病室の外に出るようになった篠森さんなら、談話室などのテレビで情報を得ることはできたのだろう。
「やっぱりそうか」
篠森さんもそう言って溜息を漏らす。元気がない理由はやはりこれしか考えられない。
「私、眠ってたのは一週間じゃなくて、一年と一週間だったんだね」
「うん……」
僕は弱々しい声で肯定した。そして続く篠森さんからの質問。
「いつも私服で来てくれるけど、沖原君は学校から帰って着替えてから来てくれてるの?」
僕はそれに対し俯いたまま首を横に振るしかなかった。
「沖原君は毎日ここに来てくれてたんだよね?」
僕はそれに対しても俯いたままだが、首を縦に振って肯定した。
そう、篠森さんは事件の後、一年間眠っていた。だからもう怪我は完治している。その間僕は学校を休学し、アルバイトを昼間に回して、アルバイトの後に毎日病室に通っていた。僕と篠森さんと時を同じくして高校に入学した生徒達は今高校三年だ。しかし僕と篠森さんは高校二年のままである。
それを篠森さんに説明した。
「なんで沖原君までそんなことしたの?」
咎めるように言う篠森さんに対して一向に僕は顔を上げられない。けど説明しなくてはならないので重い口を開く。
「約束したから」
「約束?」
「一緒に卒業するって」
「うぐっ、うぐっ……ばか」
篠森さんは目元に手を当てて泣き出してしまった。初めて見る彼女の泣き顔を見て僕はどうしたらいいのかわからなかった。
ひとしきり篠森さんが泣くと、彼女は話し始めた。
「私はね、恋人はおろか友達も作ってはいけない人間なの」
これは篠森さんのお母さんから聞いて察していたことでもあるし、篠森さんのモモ名義のブログを見て知ってもいた彼女の気持ちだ。
「だから退院するまでに沖原君とも離れるつもりでいた。私が背中を突き飛ばされた時、一歩間違えば沖原君に危険が及んでいたから。それにいじめの時だって沖原君に攻撃が向いた」
篠森さんなら絶対この考えに行き着くだろうと思っていた。いつか言われると覚悟をしていた。ただそれでも篠森さんと交わした約束を一つ一つ守りたかっただけなのだ。打算的な考えはなかったと断言できる。だからこの後こんなことを言われるなんて思ってもいなかった。
「迷惑だ」
「ごめん」
「こんなことされたら私も約束を破るわけにいかないから沖原君から離れられない」
「え……」
「やり方がずるい」
僕が顔を上げると篠森さんは睨むように僕を見据えていた。目に涙を一杯に溜めた彼女を見て僕の体は勝手に動いた。立ち上がった時に丸椅子がカタンと音を立てたかと思うと、僕は篠森さんを抱き締めていた。
「沖原君のばか」
「うん。皆にも同じこと言われた」
「当たり前だ」
篠森さんは僕の腕の中で肩と声を震わせて恨み言を口にする。僕が片手で篠森さんの頭を撫でると、篠森さんはこめかみを僕の胸に当て、そのまま頭を預けた。そして僕の腕を掴み、反対の手は僕の背中に回したのだ。
「工場も沖原君が管理してるって聞いた」
「うん。管理と言っても掃除だけだけど」
「そっか。ブログ再開させなきゃな」
「あ、それもしてたわ」
「え?」
僕が撮り溜めた篠森さんがモデルの服やコスプレの写真は、篠森さんのアトリエのパソコンの中に大量に保存されている。僕は慣れない加工もなんとか覚えてヒナ名義のブログにアップしていた。ただ、篠森さんほど専門的な文章を書けなかったことだけが残念ではあったのだが。
「パスワードわかったの?」
「ううん。ヒナ名義の方はログイン状態だったから難なく入れた」
「それでも定期的にログアウトされるでしょ?」
「あの時は困ったな。ただ、ヒナ名義の方はメールアドレスがわかったし、そのフリーメールもログイン状態だったから、パスワード忘れたことにして再発行してもらった」
「そっか」
篠森さんが大人しく僕に抱かれているので、内心喜んでいる僕は体勢を解かない。大人しくと言ってもどちらかと言うと、篠森さんは体を預けてくれているので、受け入れているようにも思う。僕はそんな彼女の頭を続けて撫でた。
「で? なんでヒナ名義って言い方をしたの?」
「あ……」
はっとなって思わず僕の手が篠森さんの頭で止まった。完全に失言であったと理解し、モモ名義の方を僕が認識していることが篠森さんに知られてしまったと悟った。
「まぁ、工場のパソコンに触ったなら見つけちゃうよね」
「うん。ごめん」
「で? モモ名義の方は見たの?」
「……」
言葉に詰まってしまう。今体勢を解いたら篠森さんの突き刺すような鋭い視線を向けられると僕は察して、浮かれ気分もある中篠森さんを続けて腕で包んだ。
「はぁ……。その無言は肯定ね」
「ごめん」
結局僕には謝ることしかできないわけで、素直に謝意を口にするのだ。すると篠森さんが話題を変えるので彼女は確認したいことが多々あるのだろうと読み取れた。
「旅行はどうしたの?」
「キャンセル間に合ったから全部キャンセルして、キャンセル料も取られてない」
「そっか。今年行く?」
「え?」
その言葉に僕はやっと篠森さんを解放したのだが、彼女の肩に両手は置いたままだ。篠森さんも僕の体に手を触れたままで、真っ直ぐに僕を見上げるのだが、麗々したその瞳に込み上げてくるものがある。
「夏休み明けから復学しよう? 私、学校の先生とそういう話になってるから沖原君も一緒に」
「退院間に合うの?」
「うん。リハビリが今の調子で進めば退院はお盆前後になる見込み。だから八月の後半に去年行けなかった私達の旅行に行こう?」
なんだか無性にぐっと来たので僕は再び篠森さんを引き込み、「うん、うん」と何度か返事をした。たくさん篠森さんがしゃべってくれることも嬉しい。目が覚めてから変化した彼女の一面である。尤も、僕以外の人を前にしてそれがどうなのかはまだわからないが。
「あぁ、でもこうしてるのは手を出さないって言った沖原君の約束違反だからやっぱりなしかな」
瞬間、ガサッと衣擦れの音を伴って勢い良く篠森さんを離した。それなのに僕の腕を掴んだままの篠森さんはやや慌てる。
「嘘。冗談だから、今のもう少しお願い」
顔を真っ赤にして上目遣いで僕を見上げて言う篠森さんに色々と懐かしい思い出が蘇り、やっぱり彼女は篠森さんだと思った。そんな篠森さんが凄く愛らしくて思わず頬が綻び、僕はもう一度彼女を抱き締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます