第二章

第8話 連絡先

 二年連続同じクラスで、そして二年連続隣の席の篠森さんの秘密を知ってしまった僕だが、その後は特段何も変化はなく五月になった。

 そう、朝の挨拶以外言葉を交わすことはなく、僕があの工場に立ち入ることもなく、ゴールデンウィークが過ぎて授業が再開されたのだ。工場に立ち入らなかったと言っても、下校途中に篠森さんが出入りする姿は片手で数えるほどだが目撃した。


 朝のホームルームを自席で待つ僕の隣はいつものように篠森さん。そして予鈴が鳴る前に僕の視界の前方を塞いだのは匠で、朝の部活を終えて教室に入って来たところだ。いつものように匠は僕に体を捻って顔を向け、お互いに朝の挨拶を交わすと雑談を始める。


「セイ、焼けたか?」

「あぁ、うん。連休中は山に行ってきたから」

「ふーん。キャンプとか?」

「いや、日帰り。店のマスターが連れて行ってくれた」


 そういう匠も心なしか日焼けしているように見えるのは、部活の試合が原因だろうか。

 僕はゴールデンウィークの休暇中、アルバイト先のマスターに隣県の山へ連れて行ってもらった。キャンプやハイキングなどもできるスポットではあるが、目的は撮影のためで、日帰りだった。


「写真か?」

「うん、そう」


 写真は中学生の時から始めたので、同じ中学出身の匠は僕に対してその認識がある。

 思い出されるのは日帰り旅行から帰って来た夜、真っ直ぐアルバイト先の喫茶店に入った時だ。マスターの不在を埋めていたマスターの奥さんが僕達を迎えるなり言ったのだ。


「男同士っていいよね」


 嫌味のようでありながら、それでもどこか羨むような声と表情で言っていた。その時、僕と同級生で同僚の三島さんが出勤していて、奥さんの言葉を聞きながら口元に手を当ててクスクスと笑っていた。そして奥さんの意見に相槌を打っていたのだ。


「いいの撮れたか?」

「うん。ブログにアップしたからまた暇な時にでも見といてよ」

「おう、そうするわ」


 匠が景気良く答えてくれるので嬉しくもなるが、隣の席から視線を感じるのは気のせいだろうか。それこそ匠が「写真」という言葉を発してからなのだが。幹線道路沿いの工場に入れてもらって以降、下手なことをして秘密がバレることを恐れている僕は、あまり隣の席の主を見ないようにしている。


 すると予鈴が鳴り、匠がその恵まれた体を正面に戻したのだが、その時一瞥するように匠は僕の隣の席を見た。その視線で悟ったのだ。隣から感じた視線はやはり気のせいではなかったと。

 僕はゆっくり隣の席を向くと、目を合わせた篠森さんはすぐに僕から視線を外し、一限目の準備を始めた。まだホームルームも始まらないのに気が早いようにも思うのだが。


 しかし事は起きた。それは移動教室である生物の授業を終えて、現代文の授業が始まる前の休み時間だった。篠森さんは僕よりも早くクラス教室に戻って来ていたのだが、そもそも僕がのんびりしていて授業開始ぎりぎりに席に着いたのだ。


「沖原君」


 僕はドキッとした。間違いなく隣の席からの篠森さんの声で、それは少しキーが高いように感じる耳に心地いい声。記憶の限り学校で篠森さんから声を掛けられるのは初めてで、自分が呼ばれたのだよなと失礼ながらも一瞬疑ったほどだ。

 僕は篠森さんの声に反応して彼女を見たわけだが、篠森さんはいつしか見せたような眉尻を少しだけ下げた表情をしていた。縁なし眼鏡の奥の大きな瞳は曇っているように思う。


「あの……」

「どうしたの?」


 言いにくそうなので、僕はできるだけ穏やかな表情を意識して、篠森さんの先を促した。この時篠森さんは冷たい視線ではないのだが、それでも真っ直ぐ彼女に見据えられると鼓動が落ち着かない。


「次の授業の教科書を見せてほしい」

「え?」


 意外だった。篠森さんには忘れ物をする印象がないのだが、教科書を忘れたのだろうか。先月も一度篠森さんが教科書を忘れたことがあったが、その時も意外だと思った。とは言え、二年生になってから二度目で、僕は迷うことなく了承の返事をし、授業開始のチャイムが鳴ると同時に机をくっつけたのだ。


「ん? また教科書忘れたのか?」


 音に気づいて後ろを振り返ったのは匠で、僕は苦笑いで返す。横目に見える篠森さんは恐縮そうに俯くのだが、それは僕から教科書を見せてもらうことよりも、見せる方の僕がわざわざ机を移動させて、更には僕が忘れたことを装っていることに心苦しさを感じているようだった。

 クラスで浮いている篠森さんがここまで声を掛けられるようになったのは僕だけなのだろうということは理解できる。だから反対隣の女子生徒には言えず、男子の僕にお願いをしたのだろうが、それならば僕が忘れたことにした方こそ体裁がいい。角席の僕が頼れる隣人は一人しかいないと誰しもがわかっていることなのだから。


 教科担当の先生が入室してきて匠が正面に体と視線を戻すと同時に、僕と篠森さんに向いていたクラスメイトの視線も徐々に外れた。廊下寄り前方の席の女子生徒が最後に正面を向くと同時に、クラスメイトの号令があり授業が始まった。


 しかしこの授業で驚いたことはもう一つあった。授業時間も中ほどを過ぎた頃、篠森さんはいつものように時々スマートフォンをポケットから出しては何やらチェックしている。そう思っていた。すると……。


『もし良かったら』


 篠森さんがノートの端にそう記し、そのノートを机の上で僕に寄せて、机の下では自身のスマートフォンを僕に寄せてきた。僕は何だろうと思って、ノートから篠森さんのスマートフォンに目を移すと、そこにはラインのQRコードが表示されていた。僕はこれに驚いたのだ。

 僕は慌てて自分のスマートフォンをポケットから取り出すと篠森さんが示したQRコードを読み取り、そしてお互いに友だち登録した。この時「友だち」という表示に目を奪われ、篠森さんと友達になったのか? と頭の中で反復した。するとすぐに篠森さんからメッセージが届いたのだ。


『いつも教科書ありがとう』


 いつも……。まだ二回目なのだが、と思ったのは僕の中だけで呑み込み、僕は『どういたしまして』と語尾に明るい顔文字を添えて返信をした。ただ、篠森さんからメッセージをもらえるとは期待してなかったので、意外でありつつも温かい気持ちになった。篠森さんから教えてくれたのだから、何もおかしなことではないのだが。

 既読はすぐに付き、篠森さんはポケットにスマートフォンを仕舞うと授業に戻った。心なしかその時彼女の肩には力が入っていたようにも思う。


 この篠森さんとラインで連絡先を交換した一件は僕達の距離を一気に変えた。この日アルバイトが終わって店を出た僕はメッセージの受信に気づきラインを開いたのだ。そのメッセージの送り主が篠森さんで、教科書のお礼以降、メッセージをもらえると思っていなかったのでこれも意外であった。


「ん? まさか彼女?」


 僕のスマートフォンを覗き込みながらそんなことを言ってくるのは、この日の勤務を同じ時間に終わった三島さんだ。朗らかでその可愛らしい顔は目をジトッとさせて、更にその顔を近づけてくるので僕の鼓動が早くなるから敵わない。


「ち、違うよ」


 僕は何を慌てて否定しているのだろう。否定そのものは間違いではないのだが、もう少し冷静に言えないものかと肩を落とす。

 五月の夜はまだ肌寒く、道幅の広い片側一車線の道路は時折大型トラックが通過する。市内の機械工場の夜勤の人達は勤務中なのだろう。歩道脇の草むらからは虫の鳴き声が聞こえてくる。


「でも今の女の子だったよね?」

「違うよ」


 なぜ否定したのか。三島さんは他校の生徒なのだから学校で浮いている篠森さんのことをわざわざ隠すこともないのに。

 恐らく、冷やかし半分で面白がっている三島さんに詮索されることを僕が嫌ったのだろうが、尤も、詮索されたところで言えることはほとんどない。そう思うのは篠森さんの秘密と、それほど僕が親しくしているわけではないことが要因だ。


「沖原君。今日送ってってよ?」

「あぁ、うん。いいけど」


 店の駐輪場に到着したところで徐に三島さんがそんなことを言うので、僕は自転車を解錠しながら承諾した。三島さんの家は通り道ではないが、それほど大きく外れるわけでもないし、遠くもない。然して問題はないので、僕は自転車の荷台に三島さんを乗せて三島さんを家まで送って帰ったのだ。


『明日の放課後にでもまた工場に来れないかな?』


 さて、篠森さんからのメッセージに何と返事をしようか。と言っても、明日は出勤日だからそれは叶わないわけで、緊急の用事なのかはわからないが、明後日にできないかお伺いを立てるしか選択肢はなさそうだ。

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