第9話 打診
篠森さんと連絡先を交換して二日後。まず安心するのは篠森さんが僕に対して工場に来て欲しいと申し出たのは緊急を要する用事ではなかったこと。とは言え、そこまで深い交流があるわけではないのだから、それは当たり前のような気もするのだが。
それなのでこの日の放課後、僕は篠森さんが出入りする工場に出向くことになっていた。昼休みに篠森さんから『今日はよろしくお願いします』とメッセージが届いていたので、彼女は律儀なようだと思う。
そして帰りのホームルームが終わると通学鞄を持った僕は立ち上がるなり篠森さんに声を掛けたのだ。
「行こうか?」
一瞬、唖然とした様子で僕を見上げる座ったままの篠森さん。ここで僕は工場に出入りすることが秘密だったと思い出したのでばつが悪い。もう少し場をわきまえれば良かったと冷や汗を掻いたのだが、篠森さんも通学鞄を持って立ち上がると伏せがちに「うん」と答えてくれた。その様子に僕は胸を撫で下ろす。
しかし僕と篠森さんの様子に気づいたクラスメイトが一人二人と僕達に視線を向ける。やがてそれは肥大し、教室に残っているほとんどのクラスメイトの視線が集まった。
「セイ、どっか行くのか?」
「あぁ、うん。ちょっと先生から頼まれ事があって」
僕は匠から向けられた質問に咄嗟に嘘を吐いた。それは篠森さんの秘密を隠す意図もあるのだが、一番の理由は注目するクラスメイトの視線が痛いからだ。
その視線は篠森さんと言う浮いた存在の生徒と行動を共にしようとする僕を哀れむようでいて、そして僕を物好きだと貶すような視線だ。少し腹立たしくも感じるのだが、そもそも僕もつい最近まで篠森さんに対して同様の印象を抱いていたのだから何も言えない。
その後、一緒に教室を出た僕と篠森さんだが、昇降口を出て駐輪場まで歩く過程で篠森さんが話し掛けてきた。そう、ここまでは一言も会話がなかった。人の密集度が和らいだことで話す気になったのだろうか。それは考えすぎだろうか。周囲の生徒の耳に恐らく僕達の会話は聞こえない。
「別々に行くものだと思ってた」
「え? あ、ごめん。迷惑だった?」
篠森さんの言葉にはっとなって僕は慌てたのだが、その僕の言葉に篠森さんは勢い良く首を横に振った。
「私と一緒に動くと周りから変な目で見られるから迷惑かなって」
遠慮がちにそんなことを言う篠森さんだが、そんなことを気にしていたのかと驚いた。ただしかしそれは悲しくも事実で、それを理解している篠森さんはもしかするとそれがコンプレックスなのかもしれないと思いやる。
「気にしてないよ」
僕はただ一言それだけ答えた。そうして駐輪場に到着し、自転車を押して校門の外に出た僕とそれに付くように歩く篠森さん。もう桜が咲いていない桜並木で一度足を止めると、僕は篠森さんに言った。
「鞄貸して」
「え?」
篠森さんがきょとんとした表情を見せるので、僕は半ば強制的に篠森さんから通学鞄を受け取り自転車の前籠に入れた。篠森さんの通学鞄が上に載ったことで僕の通学鞄が圧迫され変形する。僕は篠森さんの手が空いたことを確認すると言葉を続けた。
「後ろ乗って」
「え?」
今度は困惑の様子を見せる篠森さんだが、僕は彼女に構うことなく自転車に跨り「早く」と言って促した。それでも篠森さんが動かないので、僕は彼女に振り返って言ったのだ。
「二人乗りした方が早いよ?」
「あ、うん。ありがとう」
そこでやっと篠森さんは自転車の荷台に横向きに腰掛けた。僕は「ありがとう」なんだと思い思わず顔が綻ぶが、篠森さんには背中を向けているのでその締まりのない表情を見られることはないだろう。篠森さんの声で「ありがとう」が頭の中を反復する中、僕はペダルに足を掛け、自転車を発進させた。
西日になり始めた太陽はどこか暑さを感じさせるが、自転車で風を切って走ると幾分心地いい。とは言え、僕が風除けになってしまって篠森さんにはそれを感じることはないのかもしれない。僕はそんなことを考えながらも前を見据えたまま篠森さんに問い掛けた。
「篠森さん徒歩通学なの?」
「うん」
僕の背中で篠森さんの声が聞こえる。同じクラス二年目にして、そして隣の席も二年目にして初めて彼女が徒歩通学だと知ったのだが、これは彼女の社交性が原因かと理解する。
「いつも工場まで歩いて行ってたの?」
「うん」
緑の桜並木を折れて幹線道路に出ると、一気に車の交通量が増す。けたたましいエンジン音と嬉しくはない排気ガスの臭いに加えて機械の熱気が纏わりつく。聞こえにくくなったものの、背中の篠森さんの声は何とか耳に届く。
「いつからあの工場使ってるの?」
「高校入学してすぐくらい」
歩けない距離ではないと思うが、それでもそれなりに距離はある。だから一年生の時は工場の脇を通過する僕の方が篠森さんの到着より早く、一度も見掛けることがなかったのかと納得した。二年生になってからは見掛けたことが複数回あったとは言え、それでも片手で数えられる程度だ。
時折背中に柔らかい感触を受けるのは篠森さんの肩だろうか。頭ならもう少し硬い気もするが、頬なわけはないかと無粋な想像までする。そもそも頬が当たるのなら、それより先に篠森さんの縁なし眼鏡のテンプルの方が触れるのに。
幹線道路を十数分真っ直ぐ走り二メートルほどの崖下に『テナント募集中』の看板とその目的の工場が見えた。高低差のため幹線道路から直接はアクセスできない小さな工場なので、僕は脇道に折れて坂を下る。するとやがて生活道路くらいの広さの道路に面した工場の前に辿り着く。
「ありがとう」
工場の敷地に自転車を停めると篠森さんは礼を口にしてくれた。心なしか頬が赤くも感じられ、思いの外風を受けていたのかなと思った。
篠森さんが工場の通用口の鍵を開け、前回見た時と相変わらずの撮影スタジオを抜けると、ハンガーラックがたくさんある衣装部屋の四人掛けのテーブル席に僕は着いた。やがてホットコーヒーを出しくれた篠森さんだが、この時は篠森さんが着替えをすることはなかったので前回より格段に早かった。
僕は出されたコーヒーを一口啜ると正面に座る篠森さんに問い掛けた。少し僕の舌はコーヒーの熱を帯びている。
「えっと、僕に用があったんだよね?」
「うん」
篠森さんはコーヒーカップを置くと答えてくれた。鉄骨の柱と梁が剥き出しの、無機質な工場の一角。窓はあるし、照明も点いているので明るいが、目の前にいるのは前回この場所で見た時の篠森さんではなく、学校でいつも見る化粧っ気のない地味な様相の篠森さんだ。
「沖原君は写真を撮る人なの?」
「あぁ、うん。趣味だけど。よく知ってるね」
「こないだ、沖原君の前の席の……えっと……」
「岡田匠?」
「そう。その人と話していたから」
そう言えばと思った。ゴールデンウィーク明け最初の日に匠とそんな話をして、その時に篠森さんの視線を感じたのだ。つまりは、僕が写真を撮ることに興味を持ったのだとわかった。篠森さんでも他人に興味を持つことがあるのかと思っていると、その篠森さんが言ったのだ。
「それなら私の写真を撮ってくれない?」
「は!?」
僕は驚いてコーヒーカップに伸びていた手が止まった。口をあんぐりと開けたままなのだが、篠森さんが話を続ける。
「報酬も払うから私のカメラマンをやってほしい」
「え? え? え?」
いきなりのことで頭が付いてこない。ひとまず篠森さんがこれ以上しゃべらないように一度手で篠森さんを制した。
僕が篠森さんを撮るのか? あぁ、そうか。なぜ今まで事の関連性に気づかなかったのだろう。撮影スタジオがあるのだから僕が写真を撮ることを趣味にしているとわかれば話は繋がるのか。とは言え報酬なんて言葉も出たのだが、それが解せない。それよりはまずこれかと思い、僕は自分のことを話した。
「僕、人物写真をあまり撮ったことないんだ」
「そうなの? と言うことは無理?」
僕を真っ直ぐに見据える篠森さんは、前回ここで対面した時のような恥じらいの様子はない。あの時の表情と化粧によって麗しくなる顔を少し期待していたことは絶対に言えないのだが、それよりも、どちらかと言うと今は学校で見る時の冷たい視線に近い。
尤も、学校の時よりは幾分柔らかくはあるのだが。せめてこんな感じの表情で、これほどまでに会話ができていれば友達もできるだろうと思うものの、絶対に余計な一言だと思うので口にはしない。
「無理ではないと思うけど……」
「けど?」
その先を促す篠森さんだが、単純にやったことがない故に自信がないだけなので、続く言葉はない。篠森さんを撮るとはあのコスプレの衣装の時のことを言っているのだろうと思うし。それに……。
「報酬ってどういうこと?」
「それはね」
そう言って話し始めた篠森さんの実態に僕は驚いた。報酬に興味があったわけではないし、聞いてからも興味を持ったわけではないのだが、篠森さんがここで何をしているのかを知って、僕は彼女に対する見方が百八十度変わったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます