第15話 自覚

 河川敷の公園の入り口に停めてあった自転車を解錠してスタンドを上げると僕は、堤防の坂を自転車を押して上りながら篠森さんに問い掛けた。


「送って行くけど、家と工場どっちがいい?」


 篠森さんは足元を見ながら歩いていて、何も答えないので、どうしたのだろうと思う。僕は篠森さんの顔色を窺いながらもう一声掛けた。


「篠森さん?」

「あ、うん。沖原君、もうバイトの時間?」

「いや。送って行くだけの余裕はある」

「それなら自分で帰るからお茶して行かない?」


 これまた篠森さんからのお誘いでもう何度目だろうと思うが、未だに慣れることはない。間違いなく嬉しくて心が弾むので、僕は口元を緩めてそのお誘いに乗るのだ。


 やがて僕達は二人乗りで街中を自転車で走り抜けるわけだが、なぜこうなったのだろうと思う。いや、なぜかはわかっている。効率がいいからだ。しかし、やはりこれで良かったのだろうかと思うが、僕は目的地に向かって自転車を漕ぐのだ。


「もしかして、迷惑だった?」

「そんなことない」


 思わず力を込めて背中からの篠森さんの声に答えてしまったのだが、それで自分が力んでいることを理解して、立ち漕ぎしていた僕はサドルに座り直す。この先平坦な道と下り坂しかないので、問題はないはず。そう、問題はないはずだったんだ。


 河川敷の公園から目的地まで中ほどを過ぎた辺りで途端に温もりを感じる僕の腹回り。そして背中に柔らかな感触とテンプルの硬い感触。焦った僕は自分の腹を見下ろした。するとそこには首から提げたカメラの下で交差された腕が見えるので、一気に脈が早くなる。考えるまでもなくそれは篠森さんの腕で、背中に感じる感触は篠森さんの頬だと妄想する。


「僕、汗掻いてるけど、気持ち悪くない?」

「気持ち悪くない」


 確かに篠森さんは僕の背中でそう答えた。その時の声が背中から腹まで内臓を伝って振動するように僕の全身に響いた。今まで耳に心地いいと思っていた篠森さんの声は、僕の全身に心地良かった。一度信号で止まると僕は天を仰いだ。


 あぁ、そうか。僕は彼女のことが好きになってしまったのか。


 もう誤魔化しの利かない自分の気持ちをはっきりと自覚し、青に変わった交差点を僕は力む全身で自転車を走らせた。汗は気になるのだけど、だけど、どうしても離れて欲しくない感触が背中と腹にあるから、僕は結局汗を流すのだ。


 やがて到着したのは喫茶店パノラマ。僕のアルバイト先だ。駐輪場に着くなり篠森さんは離れてしまい、尤もそれは当たり前なのだが、それを僕が寂しく感じたことは言うまでもない。篠森さんは終始足元を見ていてあまり表情を見せてくれない。

 その篠森さんからお茶をしようと言われて選んだ店が僕のアルバイト先だった。ここから篠森さんの家は遠いもののなんとか歩ける距離である。それに僕は出勤時間になったらそのままエプロンを着けるだけ。効率をということでここに来たのだ。


 ドア鈴の音を聞いて店内に入るとほんのり涼しく感じる。出勤時間より一時間は早い入店だ。


「いらっしゃ……ん? 沖原君?」


 指定のエプロン姿で出迎えてくれたのは男子大学生アルバイト店員の米倉さん。平日ならば主婦のパートさんが働いている時間帯なのだが、この日は日曜日だ。学生アルバイトの誰かがいるとはわかっていたのだが、それが彼だったようだ。

 黒縁眼鏡にセンター分けの髪型の米倉さんは僕の背後を見るなり口角を上げる。僕は気になったので後ろを振り返ると篠森さんがぺこりと小さく頭を下げた。僕が視線を米倉さんに戻すと、その奥にカウンターの中にいるマスターが確認できたのだが……マスターは憎たらしいほど破顔させていた。


「出勤時間まで、ここでお茶して行こうと思って」


 僕が米倉さんにそう言うと、米倉さんは僕と篠森さんを客だと認識してくれてお決まりの質問を口にしようとした。


「テーブル席とカウンター――」

「カウンター!」


 米倉さんが言いきる前に気合いの入った声を上げたのはマスターで、テーブル席のつもりだった僕は思わず頭を抱える。米倉さんは「はっはっは」と声を出して笑いながら僕達をカウンター席に案内した。


「彼女?」


 カウンターの中でマスターがニヤニヤしながら問い掛けてくるのはどうにかならないものか。米倉さんは僕達に水を出すなり注文も聞かずに少し距離を空けて様子を窺っているわけで、傍観するようだ。


「まず僕達の注文を聞いて下さい」

「まず俺の質問を聞いて下さい」

「質問なら聞きましたよ」

「なら答えて下さい」


 全く接客をする様子のない破顔したマスターにやれやれと思いながら、僕はメニュー表を広げて篠森さんに見せた。


「何飲む?」

「えっと、じゃぁ、ホットミルクティーを」

「わかった。マスター、ホットミルクティーとブレンドを」

「はいよ」


 やっと注文を聞いてくれたマスターは実に手際良く作業を進めたのだが、それも数分のことで、ミルクティーとコーヒーを出すなり再び質問を始めるのだ。米倉さんはお客さんに呼ばれて注文を取りに行った。


「で? 彼女?」

「違います。クラスメイトです」


 そう、こういった冷やかしがあるからここは敬遠していたのだ。とは言え、篠森さんからここに来たいと言われ、一度了承した手前それを引っ込めるわけにもいかず、結局ここに行き着いたわけだが、篠森さんは僕の彼女だなんて質問をされて気を悪くしていないだろうか。心配である。


「ふーん、セイが女の子と一緒にいるところなんて初めて見るからさ」


 一向に僕達の正面から離れないマスターだが、尤もここはカウンター席なので当たり前の光景でもある。だから僕はボックス席を選ぶつもりだったのだ。

 すると僕が着ていたアウターの裾が引っ張られた。何だろうと思って視線を落とすと、なんと篠森さんが掴んでいた。篠森さんの口数が少ないことはそもそも当たり前で、この行動はもしかして怯えてしまっただろうかと申し訳なくなる。


「マスター、チョコパお願いします」

「はいよ」


 戻って来た米倉さんがマスターに注文を伝えると、マスターはチョコレートパフェを作るために僕達から離れた。手間の掛かる注文で、且つ、冷凍庫が離れていることに救われる。米倉さんはまた別のお客さんに呼ばれて注文を取りに行ったので、それなりに店はお客さんが入っている。


「なんかごめんね」


 会話を聞かれないこのタイミングにと思い、篠森さんに声を掛けると、篠森さんははっきりと横に首を振ってくれた。それでも僕の服を離さないのだが、僕はこれが嫌じゃない。


「沖原君のバイト先一回見てみたかったから」

「そっか。どう?」

「写真がいっぱい」


 店に入った途端人見知りになって大人しくなった篠森さんだが、なんとか会話はできる。その篠森さんは店内の壁に掛けられた写真を見回している。僕はこの店に来た経緯や、ここでマスターと普段写真についてどんな話をしているのかを聞かせた。

 篠森さんが興味を示すとは思っていなかったのだが、意外にも彼女は穏やかな表情でずっと僕の目を見て話を聞いてくれた。調子を合わせてくれただけなのだろうか、その疑念も消えないが、それでも聞いてくれたことが嬉しかった。


 手の空いたマスターがよく茶々を入れてくるのだが、その時の篠森さんは人見知りをするものの、二人での会話になればそれなりに話を聞いてくれて、少しだが彼女からも話や質問をしてくれた。

 篠森さんが服を離さないのは嬉しくて、篠森さんに自分の大好きな写真の話を聞いてもらえることが楽しくて、時間はあっと言う間に過ぎた。そして裏からカウンターの中に一人の女の子が指定のエプロン姿で出て来た。


「おはようございまーす。って、ん? 沖原君?」

「うそ? もうそんな時間?」


 彼女は僕と同じ時間に出勤の三島さんだ。焦って時計を見てみると確かにもうすぐ出勤時間だった。僕は慌ててカウンター席から立ち上がると篠森さんに言った。


「もう出勤時間だ。清算はこっちでやっとくから。僕着替えてくるね」

「うん、わかった」

「気を付けて帰ってね」


 そう捲し立てると僕は店内をそのまま進み店舗事務所に入ったのだ。

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