第三章
第16話 後悔
篠森さんは僕の勤務開始後すぐに店を出た。やはり仕事があるので僕は彼女に付きっ切りになるわけにはいかないし、それにマスターから絡まれることを篠森さんが嫌ったのだと思われた。
「彼女なの?」
カウンター越しにホールからジトッとした目を向けてくるのは三島さんで、いつものふわっとした雰囲気はなく心なしか機嫌が悪いようにも見える。普段から愛想のいい彼女にしては珍しいことなので、恐らく気のせいだとは思うが。
「違うよ」
「ふーん」
そう言って丸いトレーを抱え込む三島さんはそっぽを向いた。僕はカウンターの中で、同じくカウンターの中にいるマスターを見る。マスターは片側の口角を極端に上げて締まりのない表情をしていた。
「地味な感じなのに可愛らしい子だったね」
「本当!?」
そっぽを向いたままの三島さんがそんなことを言うものだから、僕の声は思わず弾んだ。学校では耳にすることのない篠森さんに対しての褒め言葉が嬉しかったのだ。僕の篠森さんに対する印象もここ最近で随分と変わったものだと思う。
「何で沖原君が喜んでんのよ」
「う……、ごめん」
むすっとした表情を向けてそんなことを言う三島さんになぜか一歩引き、気圧されてしまった僕は恐縮の念が口を吐く。やはり彼女はご機嫌斜めのように感じる。
「別に謝らないでよ。褒めたのは本当だし、それは服装が可愛らしいのもあるのかな」
結局僕の頬は綻ぶ。洋裁を趣味にしている彼女の服装を褒めてもらえることも嬉しい。尤も、そのことは秘密事項なので公には言えないのだが。特に学校では口を堅くしているので、彼女のことを知って欲しいと内心思っている僕は、アルバイト先でそんな感想を耳にして嬉しいのだ。
「沖原君の好きな人だったりするの?」
「まさかそんな!」
しまった、営業中に大声を出してしまった。数人のお客さんが何事かとこちらを向く。するとカウンターの中でマスターが寄って来て、締まりのない顔のまま僕の肩を叩いた。
「お前、わかりやすいな」
かぁっと顔が熱くなって僕は俯く。この日気づいたばかりの僕の気持ち、初めて女の子に対して抱いた恋心なのに、いきなり人に知られてしまうとは恥ずかしいことこの上ない。
僕は自分でも赤面しているのがわかりつつも顔を上げたのだが、すると三島さんが目を見開いていた。自分から聞いといて何を驚いているのだろうと思うが、三島さんは僕と目が合うとすぐに視線を逸らした。
「お前、モテるんだな」
「は?」
今度は僕の肩を二回ポンポンと叩くとマスターは裏に消えた。マスターの表情はずっと締りがなかった。マスターの言った意味がよくわからず、僕はその言葉を頭の中で周回させた。
この後マスターは事務所でずっと仕事をしていて、閉店までホールに出てくることはなかった。それはよくあることなので何もおかしくはないのだが、ずっと三島さんが素っ気無いのでこの日の勤務はやりづらかった。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様でーす」
「おう、お疲れさん」
僕と三島さんはマスターに挨拶をすると二人揃って店を出たのだが、今日の三島さんの態度から話し掛けてもいいのか僕にはわからなかった。
街灯やヘッドライトで明るい夜空の下を僕と三島さんは肩を並べ駐輪場までたどり着く。と言うことは、徒歩で通っている三島さんは僕に付いて来たことを意味するわけで、話し掛けてもいいのかと前向きになった。
「えっと、乗ってく?」
「当たり前」
そっぽを向いて答えてくれた三島さんだが、その態度をどうにか正してほしいと願う。とにかく怖くてうまくしゃべられないのだ。それでも一緒に帰る気があるとわかって、避けられているわけではないと思うのだが。
自転車を解錠して三島さんを荷台に乗せると僕はグッとペダルに力を与えた。夜風は肌寒いのだが、彼女にとっては僕が風除けになるだろう。
三島さんは荷台を跨いで座るのでその座り方だから左右のバランスはいい。けど昼間にずっと感じていたよりも重量感がある。三島さんの名誉のために言うと、彼女も細身ですらっとしている。ただ、篠森さんより身長はあるし、篠森さんの方がより細身だということだ。
「今日来てた沖原君の好きな人って名前なんて言うの?」
「篠森弥生さん」
「認めた……」
しまったと思った。しかし三島さんの声はどこか元気がなく僕はうまく言葉を繋げない。マスターが言っていたことも頭の中でぶり返すが、あの時は冷やかしだと思っていたし、まさかな、と思う。いちいち勘違いで浮かれる自分が滑稽だ。
「学校の子?」
そう言えば篠森さんをクラスメイトだと紹介した時、まだ三島さんは出勤していなかったのだと思い出した。
「うん。クラスの子」
「そっか……」
やはり元気がない様子の三島さんの声。背中に感じるので表情を窺い知ることはできないが、気のせいではないような気がする。すると背中にとんと小さな衝撃を感じた。恐らくそれは三島さんの額だろうと思った。ただ、わかったところでどうすることもできないので、僕は夜の道を進むのだ。
「いつからなの?」
その声は背中に直接振動が伝わった気がしたので、この時三島さんが額を僕の背中に預けているのだと確信した。
「二年になってから気になってはいたんだけど、確信したのは今日一日一緒にいてかな」
「はぁ……」
三島さんが大きな溜息を吐くので、アウター越しにもその温もりが背中に伝わってくるような錯覚を起こす。
朗らかで、笑顔が可愛いらしく、愛想のいい三島さんは万人共通に受けがいいと思う。学校での彼女のことは知らないが、モテてもおかしくないと思っている。それなのになぜ僕の色恋を聞いて元気をなくすのだろうか。
「そんな最近のことだったんだ……」
「うん、まぁ」
「何やってんだろ、私」
背中に感じる三島さんの額の重みがより強くなった。僕はなんで三島さんがそんな言葉を発するのかもわからず、思ったことを素直に口にしてしまった。
「どういうこと?」
「もしさ、一年の時に私が沖原君に告ってたらどうしてた?」
「は!?」
思わずバランスを崩しかけて自転車を小さく左右に振ってしまい、三島さんの額が僕の背中で転がるように動いた。
「もしもの話だよ」
いつものように穏やかな声色なのだが、どこかやはり元気がない三島さん。僕は動悸が激しくなっていて、自分を落ち着けることに精一杯だが、何とか考えて声を絞り出す。
「三島さんみたいな人に告られるなんて恐れ多いよ」
「だからもしもの話だって」
声量は大きくないし、言い方も刺々しくはなかったのだが、どこか声色がきつく感じた。僕は三島さんに言われたことを妄想してみて、思ったことを素直に答えた。
「たぶん、浮かれてたと思う」
「へー。それはそれで嬉しいけど、浮かれた後は?」
続けて質問をしてくる三島さんの声色は、今度は少し明るくなったように感じる。三島さんの言った浮かれた後のことも妄想ができていた僕はまた素直に答えた。
「たぶん、受けてたと思う」
「そっか、そっか」
より明るくなった感じのする三島さんの声。まさか三島さんが僕のことをなんてと今でも思うが、やはり浮かれる気持ちも捨てきれない。けど脳裏に浮かぶのは篠森さんの恐らく僕にしか見せてくれない表情の変化だ。
「もし今ならどうする?」
「それはさすがに受けられないかな」
「だよね……」
また元気のない声色に戻った三島さん。自転車の後ろに乗ってからは表情が見えないものの、低空飛行ながらも感情の起伏が激しいように感じる。
「だから何やってんだろって……」
「どういうこと?」
「ここまででいいよ」
「え?」
三島さんは僕の質問に答えることなく僕に自転車を止めるように言った。三島さんの家まではもう少しで着くのだが、いつもは家の前まで送って行くので少し戸惑いを覚える。まだ住宅街の生活道路に入ったばかりだ。
ブレーキを握って自転車を止めると三島さんは自転車を下りて僕の脇に立ち、いつもの朗らかな笑顔を向けてくれた。街灯が逆光になっていて彼女の表情は影になっているのだが、なんとか読み取れた。
「ありがとう。じゃぁまたね」
そう言って手を振って僕に背中を向けた三島さんは笑顔だったのだが、どこか寂しそうにも見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます