第2話 空き工場
帰宅した僕は自室で無造作に通学鞄を床に放ると、ブレザーをハンガーに掛けた。そして壁際の棚から取り出したのはニコンの一眼レフカメラだ。ベッドの上で胡坐をかき、カメラを丁寧に手入れしていく。
漫画や小説などの文庫本は人並みに読む。中学の時に所属していた運動部を引退してから運動はあまりしなくなったものの、運動神経は良くもなく悪くもない。そんな僕だが、唯一の趣味と言えるのがこのカメラだ。
撮るのは専ら風景写真であるが、学習デスクの隣にあるパソコンデスクにはデスクトップ型パソコンが置いてあり、そのハードディスクの中はこれまでに撮り溜めた画像データが容量を圧迫している。ケーブルで繋がった先には外付けのハードディスクもあるが、これはバックアップ用である。
そろそろデータの保存も新しいハードディスクを増やすとか、クラウドを導入するとか、何かしらの方法を考えなくてはならないかと考える。しかしそれには金が掛かるので頭を悩ませるのだ。
ある程度カメラの手入れが終わったところで、僕は南に面した掃き出しの窓を開けた。二階に位置する僕の部屋に、レースのカーテンを持ち上げる程の風が吹き込む。ベランダに通じるその掃き出し窓の外には網戸越しに数軒の一軒家が見え、更にその奥にはローカル線の駅舎が見える。
駅から徒歩圏内のこの家はこの都市では珍しく、希少性がある土地だ。僕が通う城田高校は隣の駅が最寄り駅なのだが、学校からその駅まで徒歩で二十分以上掛かるから非効率だと思う。だから僕は自転車で通っている。
そのローカル線を高校とは反対方向に進むとそこは広大な田園地帯となっていて、線路はその田んぼの真ん中を走っている。僕の家から十分も歩けばその田園地帯に差し掛かるので、住宅と店舗がそれなりに並んだこの一帯とは真逆の風景である。これは歪な都市計画を施しているこの街そのものを映し出した典型的な例だ。
実は家に帰って来てからずっと腹の虫が自己主張をしており、僕は一階にある一体となったLDKに下りた。食卓には正社員で働く母さんが作っておいてくれた炒飯がラップを被せて置いてあり、もう一品欲しい僕はインスタントのラーメンを茹でて調理した。その間に炒飯は電子レンジで温め、ラーメンが完成するとこの二品で昼食を取り始めたのだ。
用意されていた昼食は一人分で、運動部に所属する中学生の弟は部活があるからと、朝弁当を持たされていたことを思い出す。僕の唯一の兄弟だが、凄く仲がいいわけではなく、そうかと言って特段仲が悪いわけでもない。
ここは夫婦共働きの世帯が多い地域で、それは僕の家庭も例外ではない。そして広くはない敷地に4LDKのコンパクトな木造住宅。どこにでもある普通の家庭だ。そう、何もかもが平均的で標準的で一般的で普通。これが僕、
食事中の僕はスマートフォンを自室に置いて下りて来ていたことを思い出した。食事中のためだけに取りに上がるのも面倒なので、普段はあまり見ないテレビを点けた。
映し出されたのは情報番組で、アイドルグループの活動が紹介されていた。大型アリーナでのコンサートを満員御礼で成功させたそうだが、あまり興味がないので、僕はチャンネルを変えてみる。
『一家無理心中を経験したTさん』
イニシャルでテロップ紹介された文字を先に見て、画面全体を見てみると、映されているのは女性の口元だけだった。どうやらまた情報番組の特集のようで、もう何年も前に夫が起こした悲惨な出来事に巻き込まれ、唯一助かった妻の肉声らしい。
僕はまたチャンネルを変えてみる。どうやらどこの局もこの時間は昼の情報番組のようで、今映っているチャンネルでは海外の緊迫した情勢を特集していた。僕が住む街、ましてや国とは風景も言葉も文化も違う国。その荒れた無残な街並みが映し出されていたのだが、僕には現実味を感じることはできず、ものの一分で飽きてしまいテレビを消した。
ここ最近、リアルタイムで大きな事件やスクープはないようで、各局共に特集を組むことに必死なのだとわかる。それは平和であることを意味するので、道徳的に考えれば喜ばしいことでもある。
昼食を食べ終わった僕は食器をシンクに運び再び自室に籠った。学習デスクに置かれていたはずのプリントは床にあり、風に流されたのだとわかる。僕はプリントを拾い上げると、開けられた窓の外を見た。
屋外に見える駅舎に二両編成のローカル線の電車がちょうどホームに入るところであった。その電車はカタンカタンと線路を踏み鳴らす音を僕の耳に運んでくれた。
僕はデスクトップ型パソコンの電源を入れた。起動が遅いのは容量が重いせいだろうか、それともアンチウィルスソフトが入っているせいだろうか。この起動までの時間を嫌ってパソコンよりスマートフォンを重宝する人も多いと聞いたことがあるが、僕は写真のことがあるのでパソコンこそ重宝している。だから起動の遅さは気にならない。
僕は写真が趣味の人達が集まるコミュニティーサイトに目を通した後、自分が撮った写真のデータを日付の新しい順に見回した。
写真はいい。流れゆく時間を止めてくれて、そしてその時残したい思いをフレームの中に収めてくれる。尤も、僕の撮影の腕はまだまだだ。もっとうまくなりたい。そのために国内や国外の至る土地に赴き、多くのものをこの目で見て自分の世界を広げ、フレームの中に収めたいと思うのだ。
こうして写真を見ていると僕の中でたぎるものがあり、昼食前に手入れをしたばかりのカメラを抱えて僕は家を出た。
家の敷地に三台分の駐車スペースがあるが、その内一台分はカーボンの屋根付きで、僕と弟の自転車置き場になっている。僕は自分の自転車を解錠するとすぐさま跨り、首から提げたカメラを自転車にぶつけないよう気をつけながら漕ぎ始めた。
カメラを抱えて風を切る時は決まって高揚感が沸いてくる。思わずペダルに乗せた足が急くのだ。やがて立ち漕ぎまでするようになり、歩いてでも来られる近所の大きな公園までものの二、三分で到着した。
公園の中へは自転車を入れず、草木や遊具など何かと被写体を探しては歩き回る。僕の一番好きな時間だ。よく親や弟からは、こんな近所の公園で何度も何度も同じものばかり撮って飽きないものかと言われるが、不思議とそれはない。
確かに遊具そのものの代わり映えはない。それでも季節毎に背景の雰囲気は変わるし、年数が経てば劣化もする。草木に至っては季節やその年で違った顔を見せてくれる。僕はその時しか見られない被写体の顔をフレームに収めているのだ。
「ハナちゃんスコップ貸してぇ」
「はい、どうぞ」
公園内の砂場では幼稚園か保育園のエプロンを着た幼児が三人ほど遊んでいる。男女の幼児が楽しそうに話しながら玩具を貸し借りしているようで、もう一人の幼児は黙々と穴を掘っていた。
砂場の脇のベンチにはその子供達の母親らしき女性が三人いる。一人は妊婦で一人は乳児を抱いていて、三人は俗に言うママ友だろうか。夫婦共働きが多い地域とは言え、さすがにこれほど小さな子供を抱えた世帯の母親は仕事をしていないのかと妙に納得する。
「私の友達の旦那が機械部品メーカーの営業なんだけどね、こないだ強引な取り引きして受注したら恨み買ったらしいよ」
「うそぉ!」
「それでどうなったの?」
「恨みを買った相手が怖い業界の人たち連れて来て会社に乗り込んで来たんだって」
「うわぁ……」
高校生の僕にはよくわからない話だが、世の中ニュースで公にはならない物騒なこともあるものだと思う。ただ、この公園ののんびりとした雰囲気は平和そのもので、僕は暖かい陽気を浴びながらカメラのシャッターを押し続けた。この時間が僕は今の生活で一番好きだ。
そんな生きがいとも言える時間を過ごしていると時間があっという間に過ぎて夕方になり、僕は再び自転車に戻った。これからアルバイトである。今抱えているカメラも昨年その給料を貯めて買ったものであり、これからの撮影に向けて色々工面したいこともある。そのためのアルバイトだ。
再び僕は風を切って自転車を漕ぎ始めた。路肩を走っていると僕の脇を追い越す車が生ぬるい風を置いていくのだが、機械的な風なのであまり嬉しいものではない。それが不快に思っても、ナンバープレートも読めないほど距離が離れればその不快も忘れてしまうのだから不思議である。
ふと僕は交差点でブレーキを握った。アルバイト先とは違う方向の道路の先に目を向けてみる。地面に片足を付いたことで自転車と一緒に体が傾き、僕の腹の前でケースに入ったカメラが振り子のように揺れる。
「空き工場この道だっけ」
自然と出た独り言。僕は今日の下校中に空き工場に入るクラスメイトのことを思い出していた。女子高生が出入りするような場所ではないと思うのだが、そのクラスメイトの篠森さんはあんな所で何をしていたのだろう。
僕はスマートフォンで時刻を確認すると少し時間に余裕があったので、道草を食う決断をした。そしてその交差点でアルバイト先とは違う方向の道を進んだのだ。
目的の空き工場が見えると僕はまだ距離があるのにも関わらず、それ以上近づくことをせず、ブレーキを握ってその場に立ち止まった。当初はもっと近づいてみるつもりだったのだが、それが憚れたのだ。
何故なら空き工場から出てくる彼女の姿を視界に捉えてしまったからで、それはなんともうまいタイミングだと思う。ただ、無口な篠森さんを相手にそもそも顔を合わせることにためらいが生じたから、それ以上動くことをせずただその場で見ていた。
篠森さんは大きなシャッター脇の通用口の鍵を閉めているような動作だ。遠目なのではっきりしないが、学校で見る時と何か雰囲気が違うようにも感じる。気のせいだろうか。そもそも学校では朝の挨拶しか交わさないのだから、普段から僕があまり彼女の身なりや顔をしっかり見ていないだけで、本当は今変化がないのかもしれない。
それがはっきりとはせず腑に落ちないながらも、僕はアルバイトに遅刻してはいけないと思い、空き工場に背中を向けたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます