第3話 アルバイト先

 内装はアンティークな感じもするが、特段家具に凝っているわけでもない喫茶店パノラマ。特徴と言えば、マスターが撮った写真が額に入れられて多数壁に飾られていること。十席ほどのカウンター席と、十卓に満たない四人掛けのボックス席があるこの店が僕のアルバイト先だ。

 僕は裏の通用口から店内に入ると、店舗事務所で指定のエプロンを着けてカウンターの中に顔を出した。


「おはようございます」

「おう、おはよう」


 カウンターの中でコーヒーを淹れていたマスターは僕に一度目を向け挨拶を返すと、再び手元の作業に戻った。三十代後半だと聞いたことのあるマスターの、短くストレートに整えられた髪形はまだ真っ黒だ。笑うと片側の口角が極端に上がるのだが、それなりに愛嬌のある顔立ちをしている。


「あ、沖原君。おはよう」

「三島さん、おはよう」


 声を掛けてきたのは市内の僕とは別の高校に通う三島真奈美みしま・まなみさん。僕と同い年の彼女は、肩口で切り揃えられた綺麗な黒髪を、こめかみ辺りで可愛らしいヘアピンを使って留めている。年相応だと思われる容姿の彼女はとても愛想のいい笑顔が可愛らしく、学校ではモテるのではないだろうかと思う。

 その三島さんは今、注文があったのであろう品を出して戻ってきたところで、手に持っていたトレーを所定の位置に置いた。店内はそれほど混んではいないが、それでもボックス席は半分ほど埋まっているようだ。


「今日始業式で半日だったんだろ?」

「よく知ってますね」


 マスターが手元から視線を変えずに問うのだが、コーヒーのほのかな香りが僕の鼻腔をくすぐる。


「三島さんが今日早めに出勤してくれたからさ」

「あぁ、なるほど」


 それで三島さんとは出勤時に事務所で顔を合わせなかったのかと理解した。どうやら僕よりも随分早くから出勤していたようだ。話題に上がったその三島さんはカウンターを挟み穏やかな表情で僕とマスターを見ている。


「今日も写真撮って来たのか?」

「あぁ、はい」


 僕は中学二年生の時、父さんに連れられて初めてこの喫茶店に来店した。その時に壁にたくさん飾られた写真に興味を示し、その僕の様子に気づいた父さんがカウンター席への移動を申し出たのだ。

 父さんは写真が趣味だと言うわけではないし、恐らくそれほど興味もない。その日はそんな父さんを蚊帳の外に出して僕はマスターから色々と写真について話を聞いたのだ。それは僕にとってとても新鮮で、新しい世界が開けたような気がした。


 その後、僕は父さんから初心者向けで小型のデジタルカメラを買ってもらい、近所を自転車で走り回っては写真を撮り続けた。少ない小遣いではあったがこの店にも通い、カウンター席でマスターと共通の趣味について語り合ったものである。とは言っても、専ら僕がマスターから多くの話を聞かされ、そして教えてもらっていたのだ。


 やがて高校に入学するとこの店で働かせてもらえるようになり、僕は貯めた給料で念願の一眼レフカメラを買った。

 僕より一ヶ月ほど遅れて働くようになった三島さんはカメラが趣味と言うわけではなく、単純に小遣い稼ぎでアルバイトをしている。それでも僕とマスターの会話はいつも楽しそうに聞いているし、興味深そうに質問をすることもある。


 マスターは時々撮影旅行に出掛けるので、数日店を空けることがあるのだが、その時は僕達アルバイトに店を任せたり、マスターの奥さんが店に出たりする。その際奥さんは自身のパート先の休みを使っているようで、自分の休みは旦那の撮影旅行のためにあるなんていつも愚痴を零す。

 愚痴と言っても本気で怒っている様子はないのであまり過敏にはならないのだが、それでも僕は撮影旅行に憧れているので、あまりそのことを奥さんの前では言えない。


「じゃぁ俺は事務所で少し仕事したらそのまま帰るわ」

「はい、わかりました」

「後頼むな」

「お疲れ様です」


 僕と三島さんは声を揃えてマスターに挨拶をすると、マスターは「お疲れさん」と背中越しに僕達に言って裏に消えた。

 その時マスターは紙コップに淹れたコーヒーを持っていたので、事務所で仕事をしながら飲むのだろうとわかった。どうやら淹れていたコーヒーは自分のためのものだったようだ。カップを洗うのが面倒なのだろう、本当にもうここに顔を出すことなく帰宅すると思われる。


「今日は二人だね」


 指定のエプロン姿の三島さんがカウンターの反対側から、カウンター席の背もたれを掴み、肘を伸ばして言う。ふわっとした雰囲気を持つ彼女はその動作の一つ一つに華があり、癒される。事実、彼女を目当てに来店するお客さんもいるくらいだ。


「うん。そうだね」


 相槌を打つくらいしか言葉を返せない自分が恨めしく、ここでもう少し気の利いた言葉でも言えるのなら、話題も広がるのにと内心嘆く。


 この店の営業時間は夜九時までで、その後片づけをすると十時までには退勤することができる。夕方から閉店まではマスターがいるかいないかに加えて二人体制なので、この日は僕と三島さんだということが疑いようも無くわかった。

 カウンターの中からホールを向く僕の視界の先には入り口があって、それは南に面している。ふと右を向くと西日が差し込んでいて、夕方のこの時間、窓の形を長い光と影で床やテーブルに映し出していた。食器を洗うために少し腰を屈めるとその西日が直接見えて眩しく、思わず僕の目元が歪む。


「眩しいよね。ロールスクリーン下ろしてくるね」


 三島さんが僕の表情に気づいてホールを移動した。よく気が付く子だと思う。彼女は軽やかな足取りでフローリングの床を鳴らすと、西側の席に座っていたお客さんに断ってロールスクリーンを下ろした。

 店の西側に位置するのは店舗敷地の駐車場で、その先には民家がある。それは下ろされた薄手のロールスクリーンによってシルエットと化した。正面の南面は片側一車線の道路が通っているのだが、道幅が広く大型車も通るので、その度にけたたましいエンジン音が店内にも少しだけ響く。


 そうして時折外の景色を見ながら食器を洗っていると、僕の視界に三島さんが割り込んできた。エプロン越しでもわかる胸の膨らみは凝視するわけにもいかないので、僕は反射的に顔を上げた。すると三島さんの顔を捉えたのだが、彼女は首を捻ってカウンター脇の袖壁に掛けられた写真を見ていた。


「この写真って綺麗だよね」

「うん」

「私、この写真が一番好き」


 目を細めて三島さんが見ていた写真は、僕が初めてこの店に来た頃には既にあった写真で、富良野のラベンダー畑の一枚だった。僕もこの店に飾られた写真の中で一番好きな写真で、それは淡くも感じ、そして濃くも感じる紫色が一面に広がっている。背景に映る水色の空とは色彩を異にした風景が晴れやかで魅力的だ。

 それは僕もいつかこんな写真を撮ってみたいと憧れる一枚で、最初の撮影旅行では是非とも北海道を回ってみたいと希望を抱く。貯金はしているが、どのくらいの費用が掛かるのかもまだ把握しておらず、それでもだからこそいつ行けるのだろうと期待が膨らむ。


「ふふふ」


 僕がそんな妄想に耽りながら写真を眺めていると三島さんの笑う声が聞こえたので、僕は三島さんに視線を戻した。彼女は口元に手を当てて、眩い笑顔を浮かべていた。


「沖原君ってさ、写真のこと考えてる時本当にいい顔するよね」

「え? どういうこと?」

「すいませーん」

「あ、はーい。今伺います」


 僕の疑問はお客さんから呼ばれる声で遮られてしまった。気恥ずかしいことを言われたような気がして僕の耳が熱くなるのがわかるが、しかしそれはどうしようもない。その言葉を口にしたのが明るくて笑顔が素敵で人当たりのいい三島さんなのだから。

 ただ、店内の写真に視線を向けている時は、趣味の撮影にまで思いを馳せている時だと三島さんはわかっているようで、その時の僕の表情はわかりやすいのだということは理解した。


「ナポリタン一つお願いします」

「はい」


 戻ってきた三島さんが注文を取って来たので、僕は意識を仕事に戻す。食器を洗ったことで濡れていた手をタオルで拭くと、隅にある壁に囲まれたコンロで調理に取り掛かった。


「沖原君、今日の出勤、ぎりぎりの時間だったね」


 僕が調理をしていると徐に三島さんがそんなことを言うので、僕は手を止めず三島さんの言葉に耳を傾けた。特に返事もしなかったのだが、三島さんは話を続ける。


「写真撮ってたから?」


 マスターとの会話が頭に残っていたのであろう三島さんの予想だ。それも間違いではないのだが、僕は同級生の女の子が空き工場に出入りする姿を思い返した。


「女子高生が空き工場に出入りすることってあるのかな?」

「え? なんて?」

「あ、いや。うん、写真撮ってたら時間ぎりぎりになっちゃった」


 三島さんに僕の最初の声ははっきりとは聞こえていなかったようで、僕は都合よくも前言を撤回し、三島さんの質問に肯定した。僕の言葉は唐突であり、あまりにもおかしな質問返しだと思ったからである。

 三島さんに聞こえてはいなかったとは言え、その前言に気恥ずかしさすらも覚えた僕は、そのまま調理を進めた。

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