第26話 病室
個室の病室のベッドで眠る篠森さんの体は至るところがギブスで固定されている。額には包帯が巻かれ、体には管が繋がれていてその先は機械が据えられている。篠森さんが眠る表情はやはり穏やかで、包帯やギブスが無ければとても綺麗なのにと思う。
医師の話では、数箇所骨折をしていて重症だが治らないものではないとのことだ。あれだけ凄惨な事故だったにも関わらず、奇跡だと言っていた。けど彼女はまだ一度も目を開けていない。脳波の検査もして異常は見当たらなかったものの、予断は許さないそうだ。
病室の窓の外はもう真っ暗で、病院の内外共に静まり返っている。先程廊下では病院食の下げ膳をしているのが目に入った。
ここに移動する前、篠森さんの処置を待つ間にYシャツ姿の警察がやってきた。彼らは交通課の職員ではなく刑事課の刑事だった。色々と事情聴取をされたが唖然としていた僕がうまく答えられたのかはわからない。ただ、その時よりも僕の今の意識はマシだろう。
今回篠森さんが車に轢かれたのは交通事故ではなく、殺人未遂であり事件になった。これは刑事から聞かされた内容だ。その後、現場から少し離れた雑木林で中年女性の首吊り死体が発見された。この殺人未遂事件の犯人で自殺と断定されたそうだ。
篠森さんを轢いたセダンのドライブレコーダーと角のコンビニの防犯カメラの映像から犯人だと特定された。犯人であり自殺体は横断歩道の近くに何をするでもなく立っていた中年女性だ。名前を
『娘を失う苦しみを味わえ』
そんなメモ書きが田子浦靖子の所有物から見つかったそうだが、一体彼女が何者なのか、それを考えるだけの余裕は今の僕にはない。
「弥生……」
突然ノックもせずに病室に入って来たのはリクルートスーツ姿の中年女性だ。息を切らして、泣きそうな表情を見せる。僕は条件反射のように立ち上がった。
互いに挨拶を交わすと彼女は篠森さんのお母さんだとわかった。もう事故から何時間も経っていて、面会時間もギリギリのこんなタイミングで来たことに怒りが込み上げるが、ここでそれをぶつけてもしょうがない。
僕が篠森さんのお母さんに事情を説明すると、母が娘の身を案じる時間を経て、僕と篠森さんのお母さんは篠森さんが眠るベッドを挟んで座った。
「そう、あなたが沖原君だったの……」
「え?」
意外だった。篠森さんは両親との冷えた関係を垣間見せていたので、僕の存在が彼女のお母さんに知られているとは思ってもいなかった。
「遅くなってごめんなさい。さっきまで病院の一階で刑事さんに捉まってて」
恐縮そうに言うお母さんの言葉を聞いてそれで遅くなったのかと納得した。それと同時に僕から怒りがすっと消えた。
篠森さんのお母さんは伏せがちに、けど時々僕の目をしっかり見て話すのだが、どこか篠森さんの面影があって、若々しく感じる。四十歳前後だとは思うのだが、十歳は若く見えそうだ。
「私と夫が仕事ばかりなのは知ってるかしら?」
「はい」
「最近ね、本当につい最近からなんだけど、弥生と話す時間が欲しくて家ではできるだけ話すようにしていたの。主人は相変わらずだけど。すぐにうまくいったわけじゃないけど、あの工場であなたと活動していることが楽しいっていうのは聞いてたのよ」
「そうだったんですか……」
静かな病室に弱く僕と篠森さんのお母さんの会話が響く。他に耳にできるのは篠森さんに繋がれた機器と、天井に設置された空調の機械音だけだ。
「弥生と仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ……」
「この子がこんな風になったのも私達のせいなの」
「え?」
「無口で人を寄せ付けないでしょ? 中学の時から懇談会の時なんかはいつも先生に言われてたから」
認識があったのか。そりゃ、いくら仕事人間だと言っても親だからそれくらいはわかるのか。そうは言っても仕事人間だから自分達のせいだと言っているのか? その疑問は篠森さんのお母さんから続く言葉で明らかになった。
「私達は元々隣の市に住んでいたの」
それは知らなかった。篠森さんは過去を話すことを避けているようにも感じていたから、僕からは聞いたこともない。
「その時はマンションに住んでて、同じマンションに弥生と仲良くしてくれたご近所さんがいたの。弥生の三歳年上で女の子なんだけど」
それはもしかして、篠森さんが仲良くしていたという「お姉ちゃん」ではないだろうか。そう、洋食店に連れて行ってくれたと言っていたお姉ちゃんだ。当時は隣の市から来ていたのかと少し驚く。
「その子の親も私達同様経営者でこの市で町工場を運営していたわ。そしてうちの会社の下請けだった」
「え? もしかして……」
「今弥生が使ってる工場で町工場を運営していたの」
何かが重くのしかかるような感覚に襲われ、ムワッと心臓から広がるものがあった。
「その工場は主人の所有物で貸してたんだけどね、主人が他に利回りのいい下請けを見つけて見切ったのよ。それどころか、その町工場には特許の製品があったから他の納品先にも口を回して経営の邪魔したの。結果、町工場は倒産して特許品は権利を買い取ったわ。弥生が小学六年の時よ」
「そ、その後は……?」
僕は恐る恐る先を促した。聞いてもいいものなのか、怖いのだけど知りたくて、どうしたらいいのかわからないけど、篠森さんのお母さんから目を離せなかった。
「経営者のご主人は家族を道連れに自宅で無理心中を図った」
絶望が襲った。もう五年前の話なのだが、他人事だと吐き捨てられるものではなかった。
「けど、奥さんだけ助かった」
「まさか……」
「無理心中をした一家は田子浦さんと言って、その奥さんが弥生を襲った犯人よ」
「はぁ、はぁ……」
呼吸が乱れる。息が苦しい。僕は頭を抱えた。
篠森さんが生き急いでいると感じた理由、篠森さんが自分の生きる意味を探していた理由、人間いつ死ぬかわからないと言っていた理由、親が恨みを買いやすいと言っていた理由、その親からいつ扶養してもらえなくなるかもしれないと言っていた理由。この日の事件があって、今の話を聞いてそれらが全て繋がった。
「当時住んでたマンションでは事情が知れ渡ったから、私達一家は前の街に居づらくなってこの街に引っ越して来たの。弥生が中学に入学するのと同時よ」
未だに僕の呼吸は整わないが、篠森さんのお母さんは続ける。
「弥生は自分の親、つまり元請会社の私達が親しくしていた近所の子を殺したと思ってる。実際にそれは間違いじゃないんだけど、それで友達を作ることを避けるようになってしまった。人を不幸にする家庭の人間が友達なんて作って同じことが起きるのを恐れているの」
僕には経験のないことだからその気持ちが理解できるなんて軽はずみなことは言えない。けど、否定なんてできるはずもなく僕は頭を抱えるままだ。
「工場は事故物件ではなかったけど、ほとぼりが冷めた頃に主人が次の借り手を探そうとしたわ。そしたら弥生が、自分が使うって言い出して。それで次の借り手が見つかるまで主人が弥生に使わせているの」
僕はそんな篠森さんの懐にずかずかと入ってしまった。望まずして孤独を選んだ彼女の中に土足で踏み込んだ。僕があの工場に現れた時はどんな気持ちだっただろうか。それでも頼れる人がいなくて僕にカメラマンをお願いした彼女はどんな気持ちだっただろうか。それをきっかけに更に踏み込んだ僕を軽蔑しなかったのだろうか。
「そんな顔をしないで」
僕は篠森さんのお母さんに言われてはっとなって顔を上げた。篠森さんのお母さんの瞳には涙が溜まっていた。
「さっきも言ったけど、あの子はあなたのことを楽しそうに話してた。仲良くしてくれて本当に感謝してる」
それが本当なら納得はできるが、そうかと言って僕はまだ思考がまとまらずうまく表情が作れない。
「えっと……弥生は結局教えてくれなかったんだけど、彼氏なの?」
突然何を言うのかと思ったが、篠森さんのお母さんは篠森さんの寝顔を優しく見ていた。今にも涙が零れそうである。
「いえ……夏休みが終わる頃にはそうなってる予定ですが」
「そっか」
そう言って篠森さんのお母さんは篠森さんの髪に触れた。頭の怪我に直接触らない、これが触れられるギリギリなのだろう。その時の目を細めて我が子を見る表情が、しばらく僕の脳裏から離れなかった。
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