第5話 ルーティン

 朝、学校の制服に着替えて一階に下りると母さんが食卓にいて、仕事着である事務の制服姿で朝食を取っていた。食卓には僕の分の朝食が用意されているのだが、弟と父さんの分はもうすでになく、姿も見えないので、それぞれ朝の部活と仕事に行ったのだとわかる。

 一体となったリビングにあるテレビは、朝のニュース番組が放送されていた。いつも母さんは食事を取りながらそのテレビ番組を見ている。これが我が家の平日の朝のルーティンだ。


「おはよう」

「おはよう」


 僕が母さんに挨拶を返すと、母さんは立ち上がり味噌汁とご飯を用意してくれた。僕はスマートフォンでニュースアプリを開き、無感情に画面をスクロールした。所々広告が挟まれているのは鬱陶しいが、無料なので致し方ない。……といつもは思うのだが、僕は興味を示してその広告バナーをタップし、それを眺めた。


「あんた最近何かあった?」

「ん? 別に」


 突然母さんがそんなことを言うものだから一瞬焦るのだが、僕は平静を装った。何かと言うか、最近変化があったことと言えば、学校帰りに見える空き工場をぼうっと眺めることくらいだ。初めて彼女を見た日以来立ち止まって見ることはなくなったが、それでも脇の幹線道路を通過する時は自転車のスピードを緩めて眺めている。


 初めて空き工場に出入りする篠森さんを見掛けた日以来、彼女が出入りする姿を一度だけ見た。

 一年生の時は一度も見なかったが、それは篠森さんが二年生になってから出入りしているからなのだろうか。それとも一度目にした僕が気に掛けて見るようになったからなのだろうか。その真意はわからないが、タイミングからして放課後に学校から直接行っていることはわかるし、恐らくだが彼女はほぼ毎日空き工場に出入りしている。


「なぁんだ。ま、別に期待してなかったけど」


 期待して聞いたのではなかったのか……と心の中で突っ込んでみる。自宅がある場所を地域設定したニュースサイトの広告バナーを見たタイミングだったので焦ったわけだが、母さんは僕の変化に気づいたわけではなく、単純に話題が欲しくて話しかけたのだとわかった。僕はスマートフォンをそのまま制服のポケットに突っ込むと、ご飯をかき込んだ。


 進級から一週間が過ぎると桜はかなり散っていて、緑の葉が茂り始めた木々のピンクは所々顔を覗かせる程度だ。それも一つの風情だと感じながら僕はいつものように自転車で幹線道路を走り抜ける。脇目にあの空き工場は見えるが、朝の時間帯に篠森さんを見掛けたことは一度もないので、この時はスピードを緩めない。


 やがて校門前の桜並木に到達すると、幹線道路の脇の私有地に一本だけある桜同様、こちらも緑の葉が目立つようになっていた。

 桜並木で僕と同じ学校に通う生徒達の背中を追い越して校門を通過し、駐輪場に自転車を停める。すると今まで頬を切っていた風が和らぎ陽気が心地よく感じる。ここ最近は晴れた日が続いているので、自転車通学の僕にとってはありがたい。


 歩を進めて教室に到着するといつものようにまだ半分のクラスメイトもいない。朝の部活がある生徒も多くいるので、実際に登校しているクラスメイトは半分以上いるのだろう。新しいクラスの新しい席も一週間が過ぎると慣れたもので、僕は迷いなく自席に着いた。


 いつもどおりである。特段周囲に何も変化はない。だから「変化がない」ということでさえも考えることなく僕はこの日の朝を過ごしていたのだ。しかしこの日はいつもと違う一日だった。

 それは二限目の体育が終わり、三限目の古文の授業が始まる前だった。体育は隣のクラスと合同で、その隣のクラスで着替えの終わった女子たちが教室に戻って来る。男子はこの教室で着替えるので全員揃っていた。

 前の席の匠が机に突っ伏して寝ているので視界は開けていて、窓際の席で開け放たれた教室の窓から吹き込む風を浴びていた僕は隣の席から異変を感じた。そう、篠森さんだ。


 篠森さんは机の中と通学鞄の中を漁っているのだが、何やら焦っているようだ。尤も、彼女の表情に変化はないので、手元だけを見て焦っていることがなんとなくわかっただけだ。僕はそんな彼女が珍しくも思い、僕まで珍しい行動を起こした。


「篠森さん?」


 僕が起こした珍しい行動、つまり篠森さんへの声掛けに、篠森さんは勢いよく僕を見た。その反応に僕は少しビクッとするのだが、この時初めて篠森さんの表情に変化があったことを見逃さなかった。

 いつもは無表情で、先日目が合った時なんかは冷たい視線を返してきた篠森さん。しかし今の彼女はほんの少しだけ眉尻を下げていて、眼鏡の向こうの瞳が曇っていた。


「えっと……何か探してる?」

「教科書」

「教科書?」


 篠森さんが単語一つで返事をするので、僕は鸚鵡返しにそれを口にして疑問を示した。もしかして忘れて来たのだろうか? 彼女にしては珍しいことのように思う。隣の席二年目にして、彼女が教材や提出物を忘れるという印象がない。


「古文の教科書。確かに持って来たはずなんだけど……」


 尻すぼみに弱くなる篠森さんの声だが、その声量が弱いのはいつものことではあるものの、この時はやけに悲しげに聞こえた。切実な様子が伝わってきたので、それなら僕は何か協力できないかと考える。

 しかし、教室のスピーカーから授業の開始を知らせるチャイムが鳴り、それは少しだけ無情な音にも聞こえた。なぜなら僕は、他クラスの親しい生徒から古文の教科書を借りてきて、それを篠森さんに渡そうと考え付いたところだったのだから。


 篠森さんは肩を落としてノートと筆記用具だけが出された自席で正面を向く。その様子を見た僕はやけに胸が痛み、考えるよりも先に体が動いた。


「え? 沖原君?」


 篠森さんが驚いて僕の名前を呼ぶのだが、もしかしたら僕は篠森さんから名前を呼ばれたのは初めてではないだろうか。それはさておき、僕が立てた物音にクラスメイトの視線が集まる。そして僕と篠森さんの様子を捉えたクラスメイトは皆一様に珍しいものを見るような表情である。


「セイ、何やってんだ? ……あ、教科書忘れたのか」


 声を掛けてきたのはチャイムの音で起きたばかりの僕の前の席の匠だ。一度は疑問を口にした彼だが、僕が通路を潰して篠森さんの机に自分の机をくっつけたことで理解したようだ。その真ん中には教科書が一冊だけ置かれているわけだし。


「うん、そうなんだよ。今気づいたばっかで、借りに行く暇もなくて」

「それはそれは」


 そう言って正面に向き直った匠。どうやら彼は教科書を忘れたのが僕だと思っていたように感じたので、僕は作った苦笑いを浮かべて調子を合わせた。

 接した隣の席から篠森さんの視線を感じるのだが、余計なことをしてしまっただろうか。人を寄せ付けない雰囲気のある彼女にとってはいらぬ世話だったのかもしれないと少し不安になっていると、篠森さんの小声が耳に届いた。


「ありがとう」


 ドキッとして僕は彼女を向いた。すると篠森さんは穏やかな表情で、且つ、少し俯き加減でノートを開いていた。僕は温かい気持ちになり、そして迷惑ではなかったと理解して胸を撫で下ろした。


 普段のその雰囲気から人が近寄ろうとしない篠森さんであるし、また彼女も隣の席の生徒に自分からお願い事ができるとは到底思えない。僕が窓際の席でなければ僕の教科書を篠森さんに貸して、僕が反対隣の生徒に見せてもらうこともできたのだが。角の席は色々と不便があるのだと僕はしみじみ思った。

 尤も、篠森さんは角ではないので、彼女がもう少し社交的なら何も問題はないのだが。それこそ篠森さんから見て僕とは反対隣の生徒が女子生徒なわけだし。


 やがて続々とクラスメイトが視線を正面に戻し、すぐに教科担当の先生が入室してきて授業は始まった。ただ、クラスメイトが今まで向けていた視線は僕を哀れむものだった。なぜなら教科書を忘れたのが僕だと思っていて、篠森さんと机をくっつけなければならなくなったと思っているから。

 そう、篠森さんはクラスで良く思われていない。浮いている。まだ編成したばかりのクラスだというのに、どういう生徒なのかは人から聞くなりして皆理解しているのだろう。そう言う僕もその一人だ。しかし耳に微かに届いた篠森さんの「ありがとう」はとても心地良かった。


 どこかほんの少しだけいつもと違う一日はまだ午前で、始まったばかりである。そう、たまたまアルバイトのシフトが入っていない少しだけ違う一日だ。

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