第6話 赤面
隣の席の女子と机をくっつけるのは実に小学生ぶりで、当初はどぎまぎもしたものだが、授業も中ほどを過ぎると幾分慣れてきて、終盤には肩の力も抜けた。すると周りがいつもの程度には見えてくるもので、僕は今まであまり気にしていなかった隣人の行動に気が付いた。
篠森さんは僕とは反対の右側のブレザーのポケットにスマートフォンを入れていて、授業中何度も出し入れする。そして膝の上で机の下に隠しては何やら操作しているのだ。操作と言ってもそれほど指は動いていないので、何かしらのサイトのチェックのように思う。ペンを持つ右手とは反対の左手で操作して出し入れするので器用なものである。
そんな篠森さんの行動に流されたとしか言いようがない。他に全く理由もなく、この時は何の気なしだったから。僕は普段授業中には触らないスマートフォンをポケットから取り出し、電源ボタンを押したのだ。
――まずい!
僕はヒヤッとして心の中で悲鳴を上げると、すぐにその画面を別の画面に切り替えようとした。しかしその瞬間、右の耳がポキッという音を捉えた。僕はゆっくり首と目を動かして篠森さんの手元を見ると、彼女の手は明らかに力んでいて、芯を折られたシャープペンがノートに突き立っていた。彼女の古文のノートには濃い炭素の染みが付着している。
僕はそのまま視線を上げ、恐る恐る篠森さんの表情を伺った。思わず苦笑いが漏れる。もし授業中でなかったらその乾いた笑い声も漏れていただろう。
篠森さんは顔を真っ赤にして僕のスマートフォンを凝視していた。これは宜しくない状況だと思い、僕はブラインドタッチでスマートフォンの電源を探し当て、画面を真っ暗にしたのだ。恐らく、真っ暗になったはずだ。すると僕の視線に気づいた篠森さんはノートと黒板に向き直った。
僕のスマートフォンに表示されていたのは広告。自宅で朝食の時に一度は開いてそれを消すことなく、スマートフォンの画面だけ閉じた広告だ。それから一度もスマートフォンに触っていなかったことをこの時思い出したのは後の祭りで、電源を入れた途端その広告が画面いっぱいに表示されたのだ。
その広告がなぜ篠森さんの反応と関係があるのかと言うと、それは不動産情報サイトの部屋探しのページだったからだ。
朝食の時、ニュースアプリの広告バナーでこの地域の不動産情報サイトを目にし、ふと篠森さんが出入りする空き工場の『テナント募集中』の看板を思い出した。それで興味を持って探したのだ。
すると見事に見つかり、しかし高校生が普通あまり見るものではないので、母さんに話し掛けられたことで若干の焦りを覚えてそのまま閉じた。どうやらそれを篠森さんに見られてしまったようで、何とも間が悪かったとしか言いようがない。
ただ、これは篠森さんとの話題になるのだろうか? ……なんて考えてみたところで、彼女の普段の雰囲気を思い返せば、話しかけづらいことこの上なく、今見せた彼女の真っ赤な表情は恐らく恥じらいで、人に触れられたくないのだろうと予想ができる。
もしそれが恥じらいではなく、怒りだった場合は震撼する。冷たい視線を向けることがある彼女を怒らせた場合、僕は何をされるのだろう。そう考えると恐ろしい。
とは言え、篠森さんの珍しい表情が見られたことは得した気分にもなる。近寄りがたい彼女ではあるが、空き工場に出入りする理由と言い、その工場から出てきた時の違和感と言い、授業中にスマートフォンを頻繁にチェックする行動と言い、何かと彼女に興味を持つ自分がいた。
眼鏡を掛けていて童顔で、地味で、小柄で、髪と肌は綺麗で、人を突き返すような冷たい視線を持つ篠森さん。意識を授業に戻したように思う彼女は今何を考えているのだろうか。授業に集中しているのだろうか。
この日はアルバイトが休みの少しだけいつもと違う一日。そう、都合よくもアルバイトのシフトは入っていない。そして僕は不思議な雰囲気を持つ篠森さんの謎に興味を持ってしまった。更に言うと、いつもなら嫌がるものだが、この日は都合よく日直。放課後は日誌を職員室の担任に届けていつもより帰りが遅くなる。
その放課後、自転車で学校を出た僕は真っ直ぐ通学路を走り抜ける。桜並木はもうあまり花びらを飛ばさず、その並木道を折れると幹線道路に出て、しばらく交差点で曲がることもなく幅広の道を真っ直ぐ走る。そして見えてくる『テナント募集中』の看板とその空き工場。家に帰るのならばこの幹線道路は真っ直ぐ走るのに、僕は脇道に折れた。
時間はいつもより随分遅い。それは好都合で、出入りする彼女と出くわすことはないはずだ。それならば近くまで行って見てみたい。尤も、近くまで行ったところで何が変わるわけでもないのだが、僕はそれでも興味が捨てきれず、空き工場の前まで自転車を漕いだ。
募集広告では平面積一六○平米と書かれていたが、数字ではその規模があまりピンとこない。ただ建物の前に立ってみて思うのが、当初の印象どおり小ぢんまりとした町工場だ。奥に長い建物のようだが、道路側の間口は十メートルもないくらいだろうか。
大きなシャッターとその脇に勝手口のようなドアがある。篠森さんがいつも出入りしているドアだ。シャッターは開いているのを見たことがない。今篠森さんは中にいるのだろうか。ここで顔を合わせても恥ずかしいだけなのだが、だからいつもと時間が違う今日はここまで来たのだ。それでも彼女の存在と、何をしているのかは気になってしまう。
建物の周囲は人がすれ違えるだけの幅を残して周囲をフェンスで囲われている。道路との間は大型車でなければトラックも横向きで入れるだけのスペースがある。地面はアスファルトだ。フェンス際にコンテナもあるようだが、それほど物が入っているようには見えない。
するとガチャッという音とともにシャッター脇のドアが動いた。
「やべっ」
思わず声が出た。そのドアが開かれて誰かが出てくるのだと思ったので、僕はこの場を立ち去ろうとペダルに足を掛けたのだが、慌てていたせいで踏み外してしまった。ペダルが踝を掠め、ヒリッとした痛みを感じる。足は地面に落としてしまった。
人が出てくると焦った僕は、まだ間に合うのか? と再びドアを見ながらペダルに足を掛けたのだが、僕の期待は呆気なく散った。そして唖然として口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。ビニール袋がアスファルトに落ちてドサッと音が鳴る。
工場から出てきたのはやはり篠森さん……だと思う。しかし彼女は僕と目が合うなり手に持っていたビニール袋を手放し、両手で顔を覆ってしまったから実は一瞬しか顔を見ていない。
そして驚くべきは彼女の格好。白のレースに水色を基調としたワンピースのメイド服を着ていたのだ。更には髪型がツインテールで結び目から広げてボリュームを持たせ、カチューシャまで着けている。髪をまとめたことで覗かせる耳は真っ赤である。
「えっと……篠森さん?」
「違う!」
僕は恐る恐る彼女の名前を呼んだのだが、即答且つ強い口調で否定されてしまった。しかしその即答の否定は顔を隠した彼女が篠森さんであると反って確信させてしまった。人の名前を口にした僕に対して疑問符を浮かべることなく違うと即答できるのは、本人の嘘だとしか考えられない。
授業中に広告バナーを表示させた時とは違って、さすがに怒りかもしれないという疑いはない。この真っ赤な顔は恥じらい以外の何ものでもなく、彼女はこんな仕草と表情ができるのかと不覚にも僕は少しだけドキッとした。
「うぅ……なんでいるのよ」
「えっと……」
次に篠森さんから出たのは恨み言で、即答での否定は反射的なものだろうとわかった。彼女が誰であるのか僕がはっきりと認識していることはちゃんとわかっているようで、観念したという気持ちを覗かせる。
「とりあえず、入って」
彼女は顔を隠したままドアに身を隠すと僕にそう言った。確かにそう言った。僕に入室を促している。入っていいんだと僕は少し驚いた。
僕は敷地にお邪魔すると跨いでいた自転車を適当な場所に停め、ドアに近づいた。すると少しだけ開かれたままのドアの隙間から、すらっとした細く綺麗な腕が出てきた。肩口は水色の服で、先程見た篠森さんの着ていたメイド服だと思う。
そしてその綺麗な腕は肘から反対方向に折れて、人差し指を突き出す。すぐに篠森さんの次の言葉が聞こえた。短時間の間にこれほど彼女の声を聞くのは初めてだ。少しキーが高いようにも感じる彼女の声はどこか耳に心地いい。
「その袋、そこのコンテナに捨ててから入って」
そう言われて僕は篠森さんが落とした袋とコンテナをそれぞれ見た。そこで理解した。袋はゴミ袋で、コンテナはゴミ箱だ。篠森さんはゴミ出しのために外に出たのだ。それをタイミングよく僕に見つかってしまった。
僕はゴミ袋を拾い上げコンテナに放ると、篠森さんが手で押さえて開かれたままのドアを潜った。ゴミ袋は大きかったものの軽く、その中身は大量の布だった。
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