第17話 眠りに就く
六月にも入ると僕と篠森さんの学校での距離感も随分と変わった。定期的に工場に出入りして同じ時間を過ごす僕達は人目も気にせず話すようになったのだが、基本的には僕の方から話し掛けている。挨拶をすれば篠森さんはちゃんと僕の目を見て標準的な声量で挨拶を返してくれる。
ただ、篠森さんは僕以外の人とは相変わらずで、逆に僕が一部のクラスメイトから距離を置かれるようになっていた。
そうは言っても、僕は篠森さんに惚れているわけで、その気持ちは日に日に大きくなっていて、あまり周りの目は気にならなかった。しかし篠森さんはそれを気にしているようだと僕は実感した。
それは六月最初の日曜日。学校が休みのこの日、僕は篠森さんが洋裁をする工場に来ていた。篠森さんは作業中に話し掛けられることを嫌うことはわかっているのだが、相手をしてほしい僕は敢えて話し掛ける。
「ケーキ買ってきたけど、食べる?」
「食べる」
篠森さんは僕の言葉に目を輝かせてすぐに手を止めた。もう、篠森さんとの交流もここまで来ると彼女が甘い物に目がないことは知っている。だからこの日は洋菓子店で開店と同時に二人分のケーキを買って来てからそのまま工場に来たのだ。
すかさず篠森さんはコーヒーを淹れるために奥のドアを開け給湯室に入った。
初めて奥のドアの先まで入った日、僕は驚いた。そこはトイレと給湯と十畳の和室の休憩室があったのだ。トイレは衣装部屋にも向いて奥の扉の隣に入り口があるのだが、給湯や休憩室がある場所は靴を脱ぐため、もう一つトイレが完備されているとのこと。ここにシャワールームが完備されれば生活ができてしまう。
元々ここは事務所としてのスペースだったらしいのだが、前の借主がオーナーである篠森さんのお父さんに言って床を貼ってもらい、休憩室にしたそうだ。そして今衣装部屋になっている場所を事務所として使っていたとのことだ。
今日の彼女は裾が広い短パンにノースリーブのワンピース姿で、いつのとおり可愛いらしい。篠森さんの私服は専ら市販品だそうだ。自作の服は大抵がネットオークションに出してしまうらしい。
今週中ごろの放課後に行った撮影の時は、カジュアルな緩いTシャツを着ていて、それも早速オークションに上げたそうだ。その日は金髪のウィッグを被りセーラー服のコスプレ姿も見せてくれて、僕はその姿に魅せられた。
薄着になり始めたこの季節に気づいたことだが、篠森さんは小柄ながらもスタイルが良い。括れたウェストに、ふくよかな胸。さすがに距離のあった一年生の時の学校の夏服ではそこまで見ていなかった。花魁のコスプレを撮った時は開いた胸元にどぎまぎしたものだ。今でも刺激は大きいのだが、それでもこの場での活動は楽しい。
僕と篠森さんは和室のテーブルを挟んで座り、コーヒーを飲みながら給湯の小型冷蔵庫に入れてあったケーキを突いた。心なしか篠森さんの頬が綻ぶので僕はそれを見ていると嬉しくなる。
「沖原君」
「ん?」
僕はフォークを咥えたまま篠森さんを向く。すると目の前のケーキに表情が明るかったはずの篠森さんは、そのケーキをまだ三分の一ほど残してどこか無表情に変わったように感じた。ケーキを前にして珍しいことのように思う。
「あんまり学校では私に話し掛けない方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「なんでって、沖原君まで変な目で見られるから」
「気にしない」
そう言って僕は一口大より大きかったケーキの最後の欠片を一気に口に放り込んだ。しっかり味わってからコーヒーを流し込むのだが、その様子を篠森さんは手を止めて見ていたので「ん?」と疑問を示す。
「学校まで私に構う必要ないと思うんだけど?」
「逆に篠森さんはなんでそんなに人を避けるの?」
これを聞くといつも篠森さんは俯いて黙ってしまう。それでも、当初の僕達からは大きな進歩だと思う。なぜなら篠森さんは、この手の質問をすると冷たい視線を僕に突き刺して拒んでいたから。反応が変わったのもここ最近になってやっとだ。
「食べないの?」
僕はまだ三分の一ほど残っている篠森さんのケーキを見て言ったのだが、篠森さんが動かないので、僕は篠森さんの隣に移動した。そして皿を掻っ攫うとケーキにフォークを突き刺し、自分の口に運ぼうとしたのだ。
「あ! ダメ!」
瞬間、篠森さんが慌てて僕の腕を掴み、そのまま僕の腕をフォークの一部であるかのように引き込みケーキを食べたのだ。
「ぷっ」
何をやっているのだろうと可笑しくなって僕は声を出して笑った。それを篠森さんが、フォークを唇で咥えたまま眼鏡越しに上目遣いで睨むものだから余計に可笑しい。更に言うと、篠森さんは真っ赤な顔で咀嚼をしている。
三分の一ほど残っていたケーキだが、今の一口は僕が大きく切った欠片だったので、あと一口分しか残っていない。フォークをまだ放していなかった僕は最後の欠片にフォークを突き刺すとそれを篠森さんの口に運んだ。
一度こんな表情になると思いの外篠森さんが素直になることも僕はもう把握していて、やはり篠森さんは僕を真っ直ぐ見て素直に口を開けた。
この後食器は篠森さんが片付けてくれたので、僕は畳の上で横になった。座布団を二つに折って枕にしていると某アニメのキャラクターになった気分だ。篠森さんはそのまま洋裁に戻るのだろうかと思っていたが、彼女が戻ってきたのはこの休憩室だった。
「ふぁ」
篠森さんが手で顔を隠して欠伸をするのだが、これは今日ここに来てから篠森さんがミシンを扱っている時にも何度か見た。それなので僕は篠森さんに聞いた。
「寝不足?」
「うん。少し寝る」
そう言って眼鏡を外すと篠森さんも座布団を二つに折って枕にして、僕の隣で横になったのだ。まさかこれほど無防備に隣で横になるとは思っていなかったので、僕は一気に動揺した。それを隠すように僕は会話をしようとするのだ。
「遅くまで何してたの?」
「ここでミシン」
「は!? 泊まったの?」
驚いて僕は目を見開いたのだが、篠森さんは僕を向いて目を瞬かせている。一緒に隣同士で横になって篠森さんのその表情を見ると込み上げてくるものがあるだが、そこはぐっと堪える。
「違う。夜中に帰った」
「夜中って……危ないじゃん」
「心配してくれるの?」
「そりゃ、まぁ」
「じゃぁ、もうしない」
篠森さんは僕の気持ちに気づいてこんなことを言っているのだろうか。心臓がドクンという音を今にも僕の耳に届けそうなのだが。
「少し寝る。お昼までに起こしてくれると嬉しい」
「うん、わかった」
「襲ったらコロす」
「……」
冷や汗が出る。親しくなる前までの篠森さんのあの冷たい視線を思い出すと冗談に聞こえないから怖い。直前までの邪な心を後悔して、僕はそれを封印した。
「って言うのは冗談だけど、襲われたところで敵わないから抵抗しない」
それはどういう意味だろうと思う。受け入れるなんて意味には聞こえないのだが、その篠森さんは目を閉じた。
「けど、その後は二度と口を利かないしここには入れないから」
それは嫌だ。それならまだ殺された方がマシだなんて考えるのは大げさだろうか。
結局僕にできることは何もなく、閉鎖主義の篠森さんは穏やかな寝顔を浮かべて眠りに就いた。安心して眠られたことに複雑な感情を抱かないこともないのだが、それでも今は安心できる存在なのだと喜ぶことにしたいと思う。
篠森さんの寝顔は天使のように綺麗で、僕はその場を動いてカメラを持って来ることが叶わないことを悔やんだ。そう、動けなかった。篠森さんは小さな寝息を立てた後、無意識に僕の手を握ったのだ。その手を離してほしくない僕は動けず、テーブルの上に置いたままのスマートフォンにすらも手が届かなかった。
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