第28話 響
爽やかな風に顔を撫でられ目を開ける。
日の光が部屋全体を明るく照らし朝が来たことを告げる。
背伸びをして回りを見渡す。
ベランダに近づき外を見ると青い海が広がっていた。
今日も天気が良さそうだ。
郁美さんを見るとまだ寝ていた。
昨日あれだけ飲んでいたからなぁ。
起こさない様に起き上がり、外に出た。
何も無い道、あたり一面畑と林しか無い。
たまに沖縄独特のお墓等が見える程度。
しかしそれは決して淋しいものでは無く、体にも心にも心地良いものであった。 ここで暮らす郁美さんを羨ましくも思う。
(じゃあ、一室お使いになられますか)
そんな声が耳に残っていて、改めて響いた。
そういう訳にもいくまいて。
頭を掻きながら少し立ち止まり、海を見る。
朝日に照らされた海は青に金砂を撒いた様に煌めいていた。
青い海、青い空、白い雲、白い砂浜、緑の草木。
ふぅ、とため息一つその場に座り込む。
海風の音しかしない。
どうしたものかなぁ。
たまたまタクシーが通りかかったので、それに乗って目的地に行くことにした。 今日ロードスターが平良港に到着すると連絡を受けていたので取りに行くのだ。 この車の本来買った意味は彼女の為なのだから、ここで使わない手は無い。
これに乗ってあの大きな橋を渡る。
幌を全開にして。
それが終わったらその足で大阪へ帰ろう。
港の入り口で降ろしてもらう。
事務所に向かう途中、コンテナとコンテナの間でチョコンと停まっている大阪ナンバーのロードスターがこっちを見ていた。
遠いとこまで来たものだな、お互いに。
事務所で受け取りの手続きをして、千葉から遥々やってきた愛車に乗り込む。
古い車だがエンジンは一発で掛かる。
軽快な排気音を響かせて、最後のドライブに誘う為にマンションに戻る。
だだっ広いマンション兼お店の駐車場に、車を滑らす様に停める。
途中、スーパーでサンドイッチとお茶を買った。
それと、帰りの航空券も。
今日の夜出発だ。
これ以上ダラダラと安穏を貪っていては、私は良いが彼女の為にはなる訳がない。
少し急だがそれ位がちょうど良いかも知れない。
もう新しい居場所を見つけた訳だから、私も少しは役立てたというものだ。
しかし居場所だけ? 彼女の面倒は? 人生は? 悪者が現れた時に護る人は……。
考えながら歩いていたらドアの前だったのでもう考えても仕方がないか、と思い直しドアを開けた。
相変わらず日当たりの良いフローリングの室内。
その広い部屋の隅に、今日限りで会うことの出来ない愛しい人が膝を抱えて座っていた。
心なしか顔色が悪い。
「昨日は飲みすぎましたね」
お茶を差し出すが受け取らず、代わりにチラシを差し出す。
受け取り内容を見てみると、ハイアットベイリーフ(下のお店の名前)一周年記念コンサートと書いてあり、出演者の名前が連なっている。
知らない名前ばかりの中に、オリコンにも入るような歌手がいて、思わず本当かよと疑問を呈したくなるが、問題はそこではなかった。
しっかりと郁美さんの名前も入っていた。
まぁ昨日酔っ払っていたとはいえ、快諾していたのだから問題は無い筈なのだが……。
「どうしてあんな事言ってしまったのかな」
快諾したのを明らかに後悔していた。
膝を抱えて下を向く。
酒の勢いだったのか、やはり止めれば良かったか。
どうやら右手一本ではやり様が無いらしい。
「左手だけの曲なら結構有りますが、右手だけで弾ける曲となると、昨日弾いていたツェルニー位の物ですしね」
こればかりは助けられない。
私も頭を抱えて考えてしまう。
ツンツンと肩を突かれたので、振り返ると郁美さんがこちらを凝視している。
「名可男さん、詳しいですね」
きょとん、とした顔でこちらを見ている。
「ええ、少しかじっていましたので」
顔を上げて答える。
少し所では無く、母親が存命な頃には、コンクールに出る位しっかりやっていたし、実家は音楽喫茶、多少以上に詳しいつもりだ。
しかし右手一本の曲がどうしても思いつかない。
再び頭を抱え考える。
しかし少し間の後、
「連弾で弾いて貰えませんか」
とんでもない要望を向けられた。
少しため息の後、立ち上がり海を見る。
とても綺麗な海。
後日ビーチクリーンに参加するので、と誓い飛行機のチケットを彼女が見えない様に窓から投げ捨てた。
マスターに練習したい旨を伝えるとそんな本格的にやられなくてもいつも通りで良いですよ、と言われる。いつも通りが出来ないのですよ、と言おうとしたのだが、
「最近、ちょっと怪我しまして」
少し笑いながら言う郁美さん。
嘘は言っていない。
「えっ、大丈夫なの?」
マスターは驚きながら聞き返す。
「両手使うのが無理なので、手登根さんと連弾で弾いても宜しいですか」
こちらを見る。
全幅の信頼を向けた目に吸い込まれそうになる。
「それは構わないけど……。何だか悪いね、かみさんが無理言って」
申し訳なさそうに言う。
「それで、少し練習したいので、どこか良い所が在りましたら紹介して頂きたいのですが」
屈託のない笑顔でそう言った。
練習は近く(と言ってもロードスターで十分位かかる)の小学校の音楽室を使わせて貰えることになった。
夕方になると小学校に向かい、ピアノの練習をする。
久しぶりに指を動かすが上手く動かなかった。
郁美さんはと言うと、やはり元職業奏者だけあって、素晴らしい動きだった。
彼女曰く、これが最後の演奏だそうだ。
ピアノはこれでお終いとし、また何か新しい事に挑戦したい、と目を輝かせて言った。
その大事な最後の演奏の供奉が私で良いのか、というのは甚だ疑問ではあるが。
それから何日か経った。
夜、練習が終わって久しぶりに食べたくなるなる、な気分になったので、健タッキー(チキンファーストフード)で車を停めた。
「本当に何でも有りますね」
健タッキーの鳥からバーガーを食べながら、郁美さんは楽しげに言う。
「この坂の下には、レンタルビデオ屋と大きな本屋が在りましたよ」
「何の不便も無いですね。もうずっとこの島に住んでもいいなあ」
食べ終わってコーヒーを飲みながら言う。
その姿すら愛おしく。
昼間に会社に電話をしたが誰も出なかった。
これはいよいよやばいなぁ。
留守電に向こう三ヶ月の役員報酬を返上し、みんなに分配すると言い残し電話を切った。
今度こそ、本当に彼女といる最後の時間だと思う。
しかし、このまま、このまま何か助けなくてはならない事が続いた場合は、ずっと居続ける事になるのだろうか。
その様な事がある様にと思う心と、思わない心が交互に表れたが、それを打ち消す様に、
「そろそろ行きましょうか」
声を掛けた。
外に出ると夜の夏風が体を包み込む。
何とも言えぬ心地良さを感じながら、車に向かおうとすると、
「名可男さん、ちょっと良いですか」
と言って、車と反対方向に歩き出すので着いて行くことにする。
横断歩道を渡り、少し歩くと左手にショーウインドから、光が漏れている白い建物が現れ、郁美さんはそこで止まる。
そして、食い入る様にその中を眺めだした。
私もその隣に並び見る。
そこには純白のウエディングドレスが白い光でライトアップされていた。
女性はこういうのが本当に好きな様で、郁美さんも例外では無い様だ。
「綺麗だなぁ、こういうの、着たいなぁ」
まるで子供がショーウインドの中の、おもちゃを見る様な目で見つめる。
その様子を見て頬が緩む。
「いいなぁ、私も着られるのかなぁ」
勿論、と心の中で肯定する。
夢中で飽きもせず、見入っているが、ふとこちらを振り返る。
「ごめんなさいね。男性は全然興味無いと思いますけど、私も一応女なもので」
「いえ、お気になさらずに」
笑顔で答える。
こんなに楽しそうに見入っているのに、私が止める訳がない。
「名可男さん、次にやりたい事、というか、なりたい物が見つかりました」
連れてきて、本当に良かったと思う。
「ほう、次は何をなさいますか」
「お嫁さん」
ショーウインドから目を離さずに言う。
「それは……素敵ですね」
思わず空を見上げる。
月光が黒雲を貫き、煌々と輝く。
「小さな教会で式を挙げて、可愛いドレスを着て、大好きな人と永遠の愛を誓った後、指輪の交換……」
ここまで言って、言いよどむ。
「どうされました」
「やっぱりなれないや」
「えっ、何故」
「左手の薬指が有りませんから」
手をじっと見つめる。
「偽りの薬指にはめた結婚指輪では、偽りの愛しか生まれないでしょうね」
急に黙ってしまい、悲しそうに下を見る。
「偽りであろうと、信じ続ければ本物以上になる事もあると思いますが」
少し、ほんの少し、怒った様な口調で言ってしまったと思う。
それを聞き、こちらに向き直り、まくし立てる様に問うてきた。
「本当にそう思いますか」
「ええ、思いますとも」
「偽者が本物以上になると」
「ええ、勿論」
「何事でも」
「そうですとも」
「本当に」
「はい、少なくとも私はそう思います」
「……では」
「はい」
「偽者の婚約者も、本物以上になりますか」
「……はい?」
勢いで肯定し続けたが、最後のは何だ。
偽者の婚約者……。
その意味を暫く理解出来なかったが、漸く理解して驚く。
好かれているのは何となく解っていた。
しかし其処までとは思ってもみなかった。
郁美さんは下を向いたまま動かない。
抱きしめたかった。
しかし身分違いで犯罪者の私がその様な事出来るわけが無い。
でも抱きしめた。
わぁ、と少し驚いた声がしてこちらを赤い顔で見上げる。
何かを言いたそうに口を開こうとするので、その口に私の口を静かに併せた。
抵抗無く受け入れられる。
黒雲が少し逸れた為、月光は更に明るくなり、まるで祝福のライトの様に二人の周囲を照らした。
いよいよ一周年記念の当日となった。
出演者は四人。
一番目は三線の演奏、二番目は地元の若い男の子のライブ、そして三番手が私達だった。
今日は客も多く、四、五十人といった所だろうか。
コンキスタドールより少し少ない観客だと思うのだが、私がステージに立つとなるとどうにも緊張する。
汗が先程から止まらない。
一人目の三線が終わった頃には、顔も白くなっていたと思う。
手を頻りに摩るが手先が冷たくて仕方がなかった。
その手を察してか、握ってくれる人がいた。
横を見ると、もう一生、いや永遠に離れたくない人の姿。
笑顔で何でもないと言う風に首を縦に振ってくれた。
つられて頷くと緊張も無くなった。
さて、地元の子のライブが終わり、いよいよ私達の番だ。
「行きましょう」
郁美さんが促す。
「はい」
勢いよく立ち上がった。
無事終わり、スネイクランプ(取りを勤めたグループ)は彼女と一緒だった為か早々に帰ったので、サンシンの自動車屋と、地元の子、高江洲夫婦と郁美さんで、打ち上げを始める。
沖縄の人達はペースが速く、早くも郁美さんが幸せそうな顔で落ちてしまったので抱えて部屋まで運んだ。
しかし、この後はどうするべきかなぁ。
部屋の鍵をかけ空を見ると、月光が雲に隠れる様に覆われていた。
そうして、あっという間に数日が過ぎた。
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