第16話
やっぱりと言うべきか、何時もの事と言うべきか、またベロベロに酔っ払ってしまって気がついたら吉田先生の家のソファーで思いっきり寝ていた。
もう先生は出勤していた。
奥さんになった秋吉さんにすいません、すいません、と平謝りして、逃げる様にして家を辞した。
外に出ると吉田家の大きな駐車場に私のロードスターが停まっていた。
左のポケットには車のキーが入っている。
いつもの配慮に更に恐縮しながら吉田家を後にした。
閑静な住宅街を抜け、四車線の国道に出る。
少し走ると喫茶店併設の大きなガソリンスタンドが見えてきたので入ることにする。
ガソリンをセルフで入れ、レジでコーヒーとケーキを注文する。
すぐ出てきて値段も手ごろな為、大阪でもこの喫茶店併設のガソリンスタンドを使っている。
出てきたコーヒーとケーキを持って窓際の席に座る。
十二時過ぎまで寝ていたのにまだ眠いらしく、小さな欠伸が出る。
窓の外は大きな国道。
向かいはたしか森だったはずだったのに、ファミレスなっている。
その脇の眩し過ぎる緑を見ながらその景色が妙に気になりそこそこに店を出る。 昔私が住んでいた近くの探索をすることにした。
高校は廃校になり地域センターになっていた。
まるはしは無くなっていた。
そして、実家はシャッターが閉まっていた。
随分と色々変わっていた。
感慨深い中、そろそろ彼女の家に向かう。
日は落ちかけていたがまだ十分明るい。
ちょっと早いかな、と思いつつもインターホンを押した。
ピンポーン
電子音が響く。
ゆっくりと扉が開くと笑顔で迎えてくれた。
リビングに招かれるとカレーの良い香りがしていた。
暖めるので少しだけお待ち下さい、の言葉でよく煮込まれて二日目のカレーのような感じで出てくるのを予感した。
ソファーから立ち上がり、庭を見る。
改めて見てもやはり素晴らしく、西洋のお城の庭の様になってしまっている。
これを一人でやったとするとどれ位暇があって、何年位掛ければ出来る物なのだろう。
落ちる日に照らされた広い庭を、疑問に包まれながら眺める。
後ろから呼ぶ声がした。
用意が整った様だ。
ダイニングに向かう。
予想していた通り、私が好きな感じの二日目のカレー風になっていた。
テーブルには大きくサラダとフルーツも置かれていた。
「よく煮込みましたので、自信作です」
「本当によく煮込まれていますね」
「温かいうちにどうぞ。よかったらお替りも、たくさん有りますので」
少し泣きそうになる。
これは私が食べる、彼女が作った最後の夕食となるから。
その様子を悟られない様に手を合わせ、スプーンを取る。
いやいや参った。
またがっついてしまった。
これは本当に言ってよいものかどうか迷ったが、もう勢いで言ってしまった。
「お替り下さい」
はい、と笑顔で頷き沢山よそってくれる。
もう本当に美味しくて、子供の様に何度も何度も頂いてしまった。
彼女はその様子を呆れもせず、楽しそうに見守ってくれていた。
食事が終わると彼女に言われてダイニングの方に移動した。
少しするとコーヒーをお盆に載せて持ってきてくれた。
「どうぞ」
テーブルにゆっくりとカップを置いた。
「ありがとうございます」
いい豆を使っているらしく、深い味わいがあった。彼女が対面に座る。
「今日も沢山食べて頂けて良かったです。最近人の為に料理なんてしていなかったので、上手く出来たかどうだか、少し緊張してしまいます」
この言葉で最近来訪者がいない事が解った。
失礼かもしれないが、聞いてみた。
「どの位、客人は来ていないのですか」
「そうですね……。事故をして日本に戻った頃はまだ友達が来てくれていましたが、三、四年前に交通事故をして発作が出る様になり、それと薬を売る人が来る様になってからは友人を巻き込みたくないので家に呼ばなくなりました」
「そうですか。しかし、何だって薬の売人なんか来る様になってしまったのですか」
「大阪にいる友人の所に遊びに行った時、ピアノバーに行ったのですが、そこで友人の先輩が麻薬をあつかっていまして」
いやな予感がした。
「友人は私にも勧めたかったみたいですよ。何だか中間マージンが入る様で。でも私はやりたくなかったので、走って外に出たのです。でも」
とてもいやな予感がした。
「早く走りすぎましたね。急に止まれなくて、そこに車が来まして……。それからこういった発作が出るようになりました。その後もその子はお見舞いだ、東京に遊びに来ただ言って売ろうとするんですよ。一度怒鳴りつけたらもう来なくなりましたけど。でも少し前までその子の彼氏が色々な薬を売りに来ていました。勿論、一度も買いませんでしたけど。秘書さんも最初はその子の彼氏さんかな、と思いました。こんな大きな家に住んでいるからお金持っていると思われているみたいですね」
思い出した様に力なく笑う。
一つ、確認しなくてはならない事が発生してしまった。
いやまさかな、一つ試してみるか。
「災難でしたね。あっ、ひょっとしてそのピアノバーってガラの悪い難波の裏手、あそこかなぁ。私も大阪なので」
「ええ、たしか名前は……コンキスタドールです。秘書さん関西からいらっしゃったのですか」
正真正銘うちの系列店の名前、もう正体を表せる訳がなかった。
夜風が網戸から入ってくる中、私だけ空気が足りない。
「秘書さん、秘書さん」
少し気が遠くなっていた様だ。
彼女の呼びかけに気がつく。
「顔が真っ青ですよ」
「いや、大丈夫です。少し疲れているようだ。昨日飲み過ぎたかな」
「もうお休みになられますか」
「……すいません」
早々ではあったが休ませて貰う事にした。
お風呂はどうされますか、と聞かれたがもう申し訳ない気持ちが一杯で彼女の前から一刻も早く消えたかった。
差し込む光で朝が来たのが分かった。
物凄く気分が悪い。
二日酔いの朝、風邪をひいた様な感じとも違う嫌な感じがする。
もう昨日の事が頭から離れない。
間接的にとはいえ、彼女の事を苦しめていた事になる私。
それと彼女の様に苦しむ人を他にも作っていたのかと思うともう逃げ出したい気分で一杯だった。
しかし私にはあと一つ仕事が残っていた。
それにしても早く起きすぎたな、部屋のドアを開けて降りる階段を下る。
そのまま帰ろうかと思ってもみたが、彼女はもう起きているみたいでキッチンに気配がする。
今日は遠い所まで行くから七時には起きて下さい、とは言っておいたがまだ六時前だ。
恐る恐るキッチンを覗くと彼女が何やらコトコトと煮込んでいた。
「おはようございます」
こちらに気づき振り向く彼女の声にビクッっとする。
長い髪が揺れるが後ろで縛っている為かそれ程揺れない様に見えた。
おはようございます、と声小さく答える。
その様子を見た彼女が、
「まだ、体調優れませんか。お酒相当飲まれたのですね」
見当違いな心配をしてくれる。
「いや、その……」
曖昧な返事くらいしか出来なかった。
「もう朝食の用意が出来ますので、少々お待ち下さい」
はぁ、と気の無い返事をした後、席につく。
心が重だるい。
多分それが顔にも出ていたと思う。
何ともいえない時間が流れていたが、不意に良い香りがしてきた。
彼女が運んできてくれたお盆を見る。
梅干が乗った御粥と何だか良く分からないがスープがあった。
この元気になる様な良い香りはこのスープから発せられたものだというのがわかる。
「食欲も無い様でしたら無理には勧めませんけど、元気が出る様に作ってみましたので。良かったらどうぞ」
この優しさに胸が一杯になる。
もう泣いてしまおうかとも思ったが、堪える事で少しでも私への罰と思う。
匙を持ち、スープを口に運ぶ。
本当に元気の出そうな味だった。
無意識に表情に出てしまったのだろう。
彼女もにこやかにこちらを見ていた。
一気に食べ終えてしまった。
「ご馳走様でした。お蔭様で元気が出ました」
本当に元気になってしまった様だ。
彼女も良かったです、と言って喜んでいた。
食後のお茶が出た頃にはもう普通に話しをしていた。
高速と下道を使い途中で食事をして約三時間、二十三区外の東京にその義肢装具店はある。
五階建て鉄筋ビルのその店は研究室も兼ねている様で立派な造りである。
入り口で受付のお姉さんに名詞を渡し、暫くすると吉田さんが出てきてくれた。 吉田さんは義手の中でも日本ではまだ保険適応外の筋電義手を作る腕が良く、色々な所から声が掛かり選んだ末に東京のこの製作所に来た。
筋電義手とは無くなった腕や指の代わりに動く義手の事だ。
これを使えばまた彼女はピアノを弾くことが出来るのでは、と考えた。
「早かったね。じゃあ検査を始めようか」
「宜しくお願いします」
じゃあ行ってきます、私に軽く挨拶して吉田さんと共に消えて行った。
ピアノさえ弾ける様になれば、彼女はまた時間を進める事が出来るはず。
祈るように待合室で待つ。
随分と長い時間か経ったように思い、時計を見ると確かに経っていた。
少し外の空気を吸いたくなり外に出る。
比較的広い庭には自販機とベンチがあったので缶コーヒーを買い、そこに座る。
缶コーヒーを飲んでいたら中山を思い出した。
いつも缶コーヒーを渡す時は上投げ、剛速球で投げてくるから二回に一回は取れないで体のどこかに当たっていた。
それを見て、
「中山君、もっとゆっくり投げてあげて」
怒った声の飛田さんを思い出し鼻で笑う。
もう戻れないあの日。
せめて彼女の指だけでも治ってくれたらいい。
緑の芝生を見ながらそう思っていた。
夏の長い日差しが漸く傾き始めた頃ビルの中に戻る。
まだやっているみたいで彼女はまだ戻ってきていなかった。
しっかり診て頂いていることに感謝する。
それから一時間位経った頃、漸く彼女が奥の部屋から出てきた。
口元に微笑みを浮かべている。
しかし後ろから出てきた吉田さんは渋い顔をして頭を掻いていた。
どっちだ?
二人の表情からでは判らなかった。
「駄目だ」
吉田さんは私を見るなりそう言った。
彼女の表面筋電位は極めて微弱、というかほとんど感知出来ないくらいのものらしく、義肢を動かす事が殆ど出来なかったらしい。
「そうですか……」
せめて美容義肢はもう本物の指じゃないか、ってくらい精密に作ってあげるけど、と申し出があった様だが彼女は丁寧に断ったそうだ。
「役に立てなくて悪いね」
そう言って私の肩を軽く叩いた。
「いえ、お忙しい中、我侭言ってしまいすいませんでした。お礼はまた後ほど。では失礼します」
失意の中出口に向かう。
彼女も吉田さんにお礼を言った後、私の後ろを着いてきた。
何か呼び声がした様な気がしたが、私の名では無いのでそのまま出口に向かう。 更に呼び声がした。
しかし私の名前では無い。
更に大きな声で私に向かって声を掛けてきたが、私の名前では無かった。
ここで思い出す。
「おーい、テドコン」
吉田さんがニヤニヤしながら私に向かって呼びかけている。
確かに何でもいいから呼びやすい名前で呼んで下さい、とは言いましたよ。
でも三文判が普通に売っている名前でお願いします、と言った筈ですよね。
無視して行っても良かったが彼女が吉田さんと私を交互に見だした。
もうしょうがない。
「何でしょうか」
少し怒った声で返す。
「昨日家に忘れて行ったぞ。テドコン」
含み笑いでキーケースを投げてきた。
結構大変な物を忘れていった様だ。
ありがとうございます、と深くお辞儀をする。
その私に向かって、
「じゃあなテドコン」
いたずら笑いしながら奥の部屋に消えていった。
有難さが半分以下になった。
しかしテドコンって。
どうすんだよ、何人かも解らねーよ。
何よりやばいのは、
「秘書さん、珍しい苗字ですね」
ほらこうなる。
どういう漢字を書くのですか、なんて聞かれたら何て答えればいいんだ。
そもそも漢字なのかも解らない。
「あっ、そんなに珍しいこともないか。先生、沖縄の方だったのですね」
これには私もきょとん、とした顔をしてしまった。
「沖縄には多い名前ですよね、三文判が普通に売っている位ですから。私なんか飛田なんて有りそうで無い名前だから、いつも印鑑は注文ですよ」
羨ましそうに笑いかけられる。
有るんだ、テドコンの三文判。
「私、沖縄大好きです。まだ行ったことは無いですけど、テレビで沖縄特集すると必ず見ます。帰りの車の中では色々教えて下さいね」
楽しそうに笑いかけてくる。
やばいなぁ、沖縄の事なんか全然解らないわ。
第一行ったことが無……いや、まるで知らない訳ではないぞ。
「本島の出身ではないのですが、先島でしたら」
どの位覚えているかは解らなかったが、確かに私は知っていた。
本や資料を見たり、旅行会社のパンフレットに乗っていれば必ず貰ってきたりして暇をみては眺めていた。
その昔彼女が行きたい、と言っていたあの長い橋の有る島。
あれは本島では無いが紛れもない沖縄県だ。
「私、どちらかというと先島諸島の方が好きです」
笑顔が弾ける。
では語ると致しましょう。
あと数時間、嘘がばれなければ良いのだが。
車のドアを開け先導し、滑りこむ様に乗り込む彼女のドアを閉め、私も車に乗り込んだ。
高速は混んでいてなかなか動かなかった。
その間、思い出しながら色々と話をしてあげた。
綺麗な海、神秘的で広い空、天に続く様な長い橋、何も不純物が無い様な透き通った池。
行った事も無いくせによくこんなことが言えたものだと言っていて可笑しくなってしまい笑顔になってしまう。
それを聞いていた彼女も楽しそうに聞いてくれていた。
四つ木で高速を降りる。
柏で降りれば家までもっと近いかもしれないが、買い物するかなと思いここでハンドルをきった。
下道を降りて暫くするとこの前行った大きなスーパーのある交差点だが、今日は声が掛からなかった。
東京と千葉に架かる橋を過ぎようとした時、ふと川の方を見ると夕日が沈みかけていた。
夏の日の夕方、クーラーで涼しい車内、隣には大好きな人。
十年前には望んだ状況なのに渡邉では無く、テドコン名可男として彼女の隣に座っている。
それから三、四十分もすると彼女の家の前に着いた。
車から降りる彼女を玄関入り口まで見送る為に私も車外に出る。
玄関の鍵を開けた彼女に向かって話しかける。
「では、私はこれで失礼します。後は各先生方にお任せしますので。義肢の方は残念でしたけど日進月歩の分野ですので、何か良い発明があったらまた吉田の方から声が掛かる様に手配しておきます」
彼女の肩が少し揺れた。
ゆっくりとこちらを振り向く。
長い髪が流れる様に揺れる。
「そうですか、もう帰られるのですね。どなたか存じ上げませんが、依頼者の方に宜しくお伝え下さい。秘書さんも色々とありがとうございました。久しぶりの来客で私も楽しかったです」
笑顔でお礼を言われる。
心なしか寂しそうにも見えたが、多分気のせいだろう。
私の中には物凄い寂しさが渦巻く。
彼女の事は今も好きで、この数日間はとても楽しかった。
たいした事は出来なかったがやれる事は終わったし、彼女の再出発に邪魔な私の様な腐れ人間が何時までも居ない方が良い。
氷で心を抉られる様な気持ちを振り切り、絞り出す様に言う。
「ではこれで。どうか……健やかに」
彼女に背を向け、もう振り返らない様にしようと決意し車に向かう。
見送ろうとしてくれたのか、彼女の足音が後ろから聞こえてくる。
車のドアを開ける。
体を滑り込ませ、以後永遠に千葉では開く事の無いドアを閉めようとした時だった。
小さく あっ という声がしたかと思うと次の刹那、何か重い砂袋が落ちた様な音がした。
そちらに視線を向ける。
彼女がうつ伏せで倒れていた。
門と車道の間に少し高い段差があり、彼女がそれを踏み外した様だった。
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